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特集/地域での暮らしを支える相談員

アルコール依存症者の相談活動

古山つね

「仲間の家」の開設と現状

 1980年12月、自省館(アルコール依存症者救護施設)のOBが中心になって「仲間と共に歩む会」という自助グループをつくって、「アルコール問題を考える集い」や「酒害相談会」を開いたり、会報『仲間』を発行したり、その他さまざまな酒害のない街づくりの運動に取り組んできました。そんな中で“軽作業でもしながら、たむろする場所が欲しい”という要望が強くなり、1990年8月、日本で最初のアルコール依存症者リハビリ施設「仲間の家」が東京都東村山市に開設されました。
 以来7年間、試行錯誤を繰り返しながらも、自立と社会参加への道が少しずつ開かれてきています。現在、所員は30名。作業は、①牛乳パック再利用のはがき、名刺、栞作り、②木工と紙製品で色紙額、一輪差し額、状差し、眼鏡立てなど、③無農薬野菜栽培、④調理実習、⑤紙袋仕上げ。作った製品や野菜は、バザーや作業所で直接販売しています。レクリエーションも毎月1回必ず行っていて、健康増進と親睦を図っています。
 ミーティングは、仲間の家では欠かせないプログラムの1つです。週1回ですが、じっくり時間をとって、作業のこと、自分や仲間のこと、何でも気楽に話し合うようにしています。
 彼らは「怠け者」とか「人生の落後者」とか、さんざん蔑まれながら社会の底辺を何十年ものたうち回って、やっと「仲間の家」に辿り着いたのです。そして軽作業をしながら仲間と語らい、楽しく食事をしたり、レクリエーションで汗を流し、ミーティングで自分の心を見つめ直し、一日一日酒を飲まない日を積み重ね、再び生き直す希望と力が育まれてくるのです。

酒害相談について

 「仲間と共に歩む会」では、1985年11月に「酒害相談のすべて」というマニュアルを作成しました。内容は、「はじめに―我々の立場」「酒害相談の手引き」「家族相談の手引き」の3部からなっていますが、ここでは、「はじめに―我々の立場」からの要約を紹介します。
 ①酒害相談は、相談者と相談員との相互の体験の分かちあいであり、共有のしあいであり、また共に学びあって回復へ向かう1つのステップである。そしてそれは、アルコール依存症と、その回復を仲立ちとした素晴らしい人生の出会いでもある(酒害相談では、先生と生徒という関係は一切あってはならないし、この出会いによって体験と希望を共有する)。
 ②酒害相談の主人公は相談者であり、従ってその解決の鍵は、相談者自身がもっている(ここでの基本は、相談に来てくれた依存症者本人及びその家族に対する信頼の問題である。今、如何に不安におののき孤立と絶望にあえいでいる相談者でも、仲間の手助けで正しい知識と病気に対する姿勢と勇気がとらえられるのならば、必ず自らの力で回復できるという確信である)。
 ③酒害相談における我々の原則態度は、我々はアマチュアであるということである(我々が自らこう規定するのは、プロに対する卑下でも、上下の関係でもない。アマチュアとプロとは互いに補充し合っている。我々がアマチュアであるという時、それは我々が常に謙虚であらねばならないという戒めと、ささやかな誇りの表現でもある)。
 このような立場で長年相談活動を続けてきました。毎週土曜日、東村山市と東久留米市で交互に開いていた「酒害相談会」も、5年程前からそれぞれの作業所(仲間の家、久留米の家、小平の家)で常時受け付けています。
 我々はそこで、たくさんの出会いとさまざまな人間ドラマを見せてもらっています。「息子がカーテンレールにネクタイを掛けて首をつり、救急車で運ばれてB大病院に入院していますが、意識をとり戻したので別の病院に移るように言われているのですが…」「夫が癇癪を起こして、救急車でK大病院に運ばれ、今点滴を受けているのですが、落ち着いたら専門病院に入院させたいのですが…」と、深刻な相談が次々と飛び込んできます。
 ケースバイケースで対応していますが、相談の成否は、相談者に「病識」つまりアルコール依存症という病気にかかっているというところを理論的、体験的にしっかり理解してもらうことにかかっています。この自己認識こそ、回復と再生の決定的第一歩なのです。そして、自助グループ(断酒会、AA、その他)や仲間の家の仲間と根気よく集団療法を続けていくことで、必ず回復の道は開けてくる、ということを伝え続けていきたいと思います。

(ふるやまつね 共同作業所「仲間の家」)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年11月号(第17巻 通巻196号)26頁・27頁