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文学にみる障害者像

引間 徹 著

『十九分二十五秒』

―障害者の能力が健常者を超えるとき―

江田裕介

 競歩という陸上種目がある。文字どおり歩く速さを競うスポーツだ。ルールは極めてシンプルで、「走ってはいけない」ということにつきる。具体的には、常にどちらか一方の足が着地していなければならない。その独特のフォームは一般にも知られているが、どちらかと言えば地味な種目である。昨今はウォーキング・ブームだけれども、それが競歩の人気には結びついていない。ジョギング・ブームがマラソンの人気につながっていることとは対照的だ。体力だけでなく、自己コントロールを厳しく問われるスポーツである。
 引間徹の『十九分二十五秒』は、この競歩の選手を主人公にした小説である。表題の19分25秒とは、競歩の世界記録の歩行ペースを示している。5キロごとを平均19分25秒のタイムで歩き続ければ、世界の頂点に立つことができる。主人公は、大都市に住む平凡な青年で、もともと競歩などというスポーツとは縁もゆかりもなかった。しかし、ある夜、一人の男との出会いをきっかけに、この競技の世界へ急速に引き込まれていく。この男は、深夜の路上に現れては、いつも猛烈なスピードで歩いて主人公の前を通り過ぎていく不思議な存在だった。しかも彼は、金属の義足をはめた下肢切断の障害者なのである。
 しかし、この物語は、障害をもつアスリートの感動のドキュメントではなく、競歩の魅力を描いたスポーツ小説でもない。都会に住む孤独な人々の反抗と、彼らの間に生じた奇妙な連帯を描き、人間の不条理を追求した異色の文学作品である。引間徹は、この作品により94年度の「すばる文学賞」を受けている。
 また、障害者が中心人物として登場する小説のなかでも、その設定が独特である。主人公のコーチとなる義足の男は、非常に優れた競技能力を有しているけれども、反社会的、非常識な人物で、ほとんど性格異常者のようである。彼は義足をはめながら競歩の世界記録に匹敵するスピードで歩くことができる。しかし、その能力を競技者として社会的に認められるような活動には使わず、ひたすら夜の都市を驚異的な速度で歩き回るだけなのだ。彼の周りには、才能を認めた陸上界のスカウトが出没するけれども、彼は相手にしない。家族の生活は破綻しているが、まったく顧みない。常識的な周囲の期待を、ことごとく裏切り、ぶち壊してしまう人間なのである。
 まず、障害者が能力的に健常者より劣り、社会的な弱者である、という一般的な設定がこの小説にはない。この男は下肢切断者であり、法的にも、医学的にも、肢体不自由者ないし運動障害者なのだが、「歩行」という実際の運動能力は、あらゆる健常者よりも優れている。すると、この男は何者なのだろうか。また、障害者は努力家であり、自分の問題を克服するためにいつも頑張っている、といった世間が障害者に期待するような人間像とも、この小説の登場人物はかけ離れている。
 世間の人々は、障害者に対して、常識に導かれた既成のストーリーをあてはめ、勝手な感動を求めることがある。また、障害者が困難をかかえながらも、けなげに生きている姿を確認することで、人々はある種の安心感を覚えるのである。その点から、この小説に描かれた障害者は、まったく心安らかならざる障害者だと言える。義足の男が周囲の期待をぶちこわす過程で、作者はこうした世間の常識をも粉砕しようとする。有名になり始めた義足の男のトレーニング風景を、障害児を連れて見学にくる人たちがいる。彼らに対して、作者は、「カン違いをした人たち」と主人公に語らせている。
 さて、これは当然ながら架空の物語である。義足の男が競歩選手で、世界記録に迫るスピードで歩くことなどあり得そうもない。いかにも逆説的な設定という印象がある。しかし、現代では、必ずしもこれを突飛な発想とばかりは言えなくなっている。この意味からも、『十九分二十五秒』には、障害者の問題に関して新しい提言が含まれている。
 1996年、オリンピックの開催地と同じアトランタで、障害者のスポーツの祭典である第10回パラリンピックが開かれた。このパラリンピックの特徴の1つとして、義手や義足のアスリートの目覚ましい活躍を挙げることができる。例えば、T44と呼ばれる下肢切断者の陸上100メートルの決勝タイムは11秒36という世界新記録であった。義足を付けた障害者が、ほとんどの健常者より速く、一般の陸上選手としても十分通用するタイムで走っているのである。このメダリストは、アンソニー・ボルペンテストというアメリカの選手で、先天性欠損により片下腿義足を使用していた。つまり片足のひざから下がない。
 もちろんこの結果は、選手の才能やトレーニングの賜物であるが、新記録の樹立に義肢・装具技術の飛躍的な進歩が貢献していることも見逃せない。昔の義手や義足には、切断者の外見の違和感を補う目的があった。しかし、最近の競技用装具は機能性に徹している。現在、陸上競技に用いられる義足は走行専用に開発され、形状、素材ともに特殊なものである。フレックスフットやオットボックなど、海外にはこうしたスポーツ用義肢の高度な技術やノウハウを有するメーカーが存在する。
 これからの時代、新しい技術の登場で障害者の能力が健常者を上まわってしまうようなことがありえる。コンピュータチップで制御された人工のボディ・パーツが、健常な肉体の機能の限界を上まわるとき、少し前ならアニメーションやSF小説のネタでしかなかった仮定も、今や現実味を帯びてきている。不自由な自分の足か、機能に優れた人工の足か、障害者がそんな選択を迫られる時代も必ずやってくるだろう。
 こうした背景をふまえて『十九分二十五秒』を読むと、次のような疑問が起こる。もし、本当に競歩の世界記録を義足の障害者が更新したとしたら、その記録は公認されるのだろうか。おそらく、世界記録に近いタイムまでは、義足の選手の一般レースへの参加は認められ、記録も公平に取り扱われるだろう。しかし、すべての健常者を超えてしまうような事態が生じたときは、改めて根本的な議論が必要になる。あるいは、車いすマラソンと同じように、障害者の競技として独立することになるのだろうか。
 電動車いすの走行スピードには規格の制約があり、それは健常者の歩行速度を基準に考えられている。電動車いすは、一般の歩行者を脅かすような速度では走れない。健常者は、自分の限界のなかで必要や安全を判断して歩行の速度を選ぶ。しかし、電動車いすの利用者は、走行の速度を社会的に判定されている。同じように、将来、義肢・装具の性能や利用方法も、社会の常識のなかで決められる可能性がある。
 引間徹の小説には、他にも障害者が登場するものがある。しかし、彼が障害者の問題の深い理解者であったり、応援者であったりするわけではない。彼の小説の登場人物は、いつも勝利の目標をもたない。ときには対象すら見失いながら、その勝ち目のない反抗を続ける人々である。障害者は、あるときは人間社会の観念にしばられた存在として、あるいは逆にそこから断ち切れた存在として描き分けられる。しかし、いずれの場合も精神の自由を求める人たちへの共感があり、いったん常識をうち砕いてから新しい問題意識を呼び起こす。『十九分二十五秒』の義足の男は、物語の最後で競技会に出場し、驚異的なタイムを記録しながらも、そのレースをめちゃくちゃにぶち壊し、そのままどこかへ歩き去っていくのである。

(えだゆうすけ 和歌山大学教育学部)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年11月号(第17巻 通巻196号)58頁~60頁