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特集/21世紀の施設像

どうみる今の施設体系

―特に重度の人々のために―

高松鶴吉

1 はじめに

 障害児者福祉で指導的な立場の方々に今の施設体系を問うと誰しもこれでいいとはいわない。ツギハギを重ねてきた古着で、しかも小さくて手足が出てしまっている。そんなイメージがある。ある人はパッチワークともいう。
 だが、その人が責任をもつ部門は不必要かと問えば、皆さん真面目にその必要性を強調される。各論では誰しも現状を捨てられるものではない。

2 思想の破産と現実

 私の出身が肢体不自由児施設なので、先ずは身内からと私は「肢体不自由児施設の思想は死んだ」といってきた。対象児が非脳性の肢体不自由児から脳性マヒ児に変わり、収容基本から外来通園尊重に変わり、肢体不自由児施設の働きはまるで変わってしまった。
 だが、今の肢体不自由児施設は障害者プランに書かれている「各都道府県域において、療育に関する専門的指導等を行うことのできる、障害児療育の拠点となる施設」になるように期待されている。だが「よしきた」とプランの期待に答え、肢体不自由児を超えるすべての障害児の療育へと向かおうとすれば肢体不自由児施設の「肢体不自由児」が邪魔になる。これでは臨床心理士や言語治療士の採用もままならないし、肢体不自由児以外の障害児も何となく日陰のままになるのである。
 だからといって「肢体不自由児施設」不要となれば経営環境は一般病院と同列になる。それで生きていけるならば、すでにどこかでそんな病院が誕生しているだろう。できないからこそ誕生していないのだ。裸になることは死を意味する。
 これは何も肢体不自由児施設だけではない。授産施設の「授産」コンセプトが破産して、だからSELPの旗印、「社会的就労の場」と自らを規定した。「授産」の着物を脱ぎ捨てたいが、裸にはなれない。全額利用者負担で運営できるとは誰も考えられないのである。
 障害児者の世界はすでに過去のものと承知しながらも古い着物をツギハギして生きてきた。障害者プランにこそ新しい体系をと望んだが、プランは慌ただしく作られた。だからかプランには新しい着物は香りだけで具体的な姿は見えない。

3 目的

 私たちは目標を見失っていて、現体系を「古すぎる」「概念的には破産している」といってみても、だからといって新しい展望が見えるわけではない。何としてでも目標になる新体系を構築したい、構築してもらいたいものだと思う。
 目標、すなわち何を目指して歩くかの前に目的(何のために)がある。何事も目的があってこそ目標が定められ、その目標へいたる手段・方法が模索される。模索は実行され修正され、時には目標も修正されるが、目的があやふやになれば何事も成らぬ。
 障害者プランに明らかなように、障害者福祉の目的はノーマライゼーションである。そうであれば、施設体系の目的もノーマライゼーションであり、それ以外には考えられない。
 障害者プランの基本的考え方7つの冒頭には「地域で共に生活するために」と書かれているが、この「地域での共生活」をノーマライゼーションの基本的骨格であると位置づけて反対される方がおられるだろうか。
 議論はこの「ノーマライゼーション」という目的のところから始めるべきといわれる識者がおられたとしても、議論はさほど難航するとは思えない。私たちが未来にみる施設体系も議論はあっても「地域共生」の体系であると承認されるだろう。

4 目標

 「地域共生」の実現には「障害者プラン」にみるように省を超えた見直しが必要である。省内だけでも広範におよび、その作業は現在「三審議会合同企画分科会」で行われている。それは「障害別止揚と総合化」から「障害者の権利擁護」まで多くの分野に及んでいる。中間報告は今後の施設像についても触れているが「施設体系」はその一部分にすぎない。
 その「施設体系」だけに焦点を置いて、ノーマライゼーションを目的とした新施設体系という目標を描く。目的実現のために具体的にゴールを描く。それは遠大な何十年後のものも、この2、3年後の身近なものも描けるが、大切な目的を見失っていいはずがない。
 ノーマライゼーションの具体像を「地域共生」とし、それを目的とする施設体系を目指すならば、私たちは迷わず「通所施設の充実拡大と入所設備縮小(消失)」の方向に歩き始めるだろう。道は時には方向を変えるかもしれない。だが、基本的な方向は自明でなくてはなるまい。多くの議論があっても、総論的には「通所充実・入所縮小」を基本路線とすることが必要かつ可能な時になっていると思う。
 通所の部門が福祉工場(雇用労働の場)と授産施設(社会的就労の場)とデイセンター(生きがいの場)の3つに整理されたのは1992年のことだった。この中でデイセンターという名の通所の場は今なお法的施設として存在しないままである。しかも障害者プランでも今回の「合同企画分科会」の中間報告でも、このデイセンターについては明快な位置づけがなされているとはいえない。
 重度な人々が地域で暮らすために「入所施設縮小廃止・グループホームとデイセンターの拡大充実」を明快に目標として掲げ、実現へと向かったスウェーデンが、私たちの目標とにわかにはいえないが、その姿勢には大いに学ぶ必要があると思う。

5 方法ないし道筋

 目標を定めるについても、目先のことならば今の現実に絡まれてしまう。だから私は近未来の目標より、遠未来の目標すなわち目先から離れて遠い未来の目標を描くほうがいいと思っている。誰しも責任や利害を離れた自由な精神になりやすいし、そのような人々が集まって時間をかけて高所から討論すれば、かなりシンプルな結論が出るだろう。こうして目標が定められれば、それを目指して少しずつ前進する。今のように目先から議論すれば議論はどうしても不透明になり、結論は玉虫になるように思う。また議論に参加していない人々は「どこへ連れていくのか」という不安や焦燥感が生まれてしまう。
 さて、そのような議論が始まると、私たちは相対的軽度の人々には道があると気付くはずである。彼らには障害者プランで提示された道があり、それが政策として引き続き実行されていけば、かなりレベルの高い「地域共生」の福祉を受けることができるのではないかと思われる。住居は自宅かアパートかグループホーム、労働の場は一般雇用、福祉工場で確保していく。その道はすでに示されていると思う。ただ通所授産の世界が整理される必要があるが、それとてさほどの困難性があるように思えない。入所施設が必要という結論はおそらく生まれないだろう。
 ところが相対的重度の人々の「地域共生」を実現するには、住まいの問題も介護の問題も労働(生きがい)の問題もまだはっきりしていない。今のところは、重度障害者の生活は「両親同居」か「施設入所」である。肉親介護には限界があるし、施設入所は「地域共生」の原則に反するので、これでよいと考える人は一人もいないと思う。
 十分議論が必要だが、相対的重度の人々についても「町で暮らす」ことを理想とすれば、大規模施設より小規模施設やグループホームのほうがいい。また小規模施設が必須であるのか、あるいは重度知的障害者とか重度身体障害者向きのグループホームは成立しないのか。このようなことについて私たちは真剣に議論し、理念的にだけでなく、経済的にまた経営的に検討する必要があるだろう。
 生きがい作業の場も今のような法外小規模作業所のままではなく「活動センター」という彼らの地域共生の根拠地にする必要がある。私たちは上述のデイセンターについて全社協で議論をし「活動センター」と仮に名付けた結論を得たが、その結論はまことに残念なことだが、公的にはまだ検討対象として取り上げられていない。

6 おわりに

 「目先」の議論ではなく「未来」の議論のほうがすっきりした結論を得るだろう。「未来の姿」が描ければ、あとはそれを目指すだけだと人々は勇気づけられるだろう。
 重度脳性マヒの人々、重度知的障害の人々、重症心身障害といわれる人々、中途脳障害の人々の未来をどのように描けばいいのか。20歳になったらどのような生活があるのか、40歳ならばどのように、高齢者になったら特別な道を用意するのか否か。
 目の前にいる重度の障害者とその家庭の問いに対し、今は「施設に入るだけですね。それともご家庭で頑張りますか」と冷たく答えるしかない。第3の「地域共生」の選択肢を提示することはいつまでもこの国では不可能なのだろうか。
 基本的な目標を議論する場が要ると思う。議論して欲しいし、要請あれば参加したいとも思っている。

(たかまつつるきち 西南女学院大学教授)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1998年2月号(第18巻 通巻199号)13頁~15頁