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文学にみる障害者像

ドルトン・トランポ著 信太英男訳『ジョニーは戦場へ行った』

―障害をもった人の魂の声を聞けるか―

渋沢 久

 読者はこのストーリーを読み進めるとき、現実の場面と夢や追想との区別に戸惑いを感じるであろう。それは、この物語の主人公ジョニー自身、自分は今、どこでいかなる時間を生きているのか定かではないからである。
 第1章「死者」はそうした中で、ジョニーが自らのおかれた状態に少しずつ気づくところから始まる。やがて彼は耳が聞こえないことがわかる。それはかつて平和な田舎町で母が歌う歌や母の弾くピアノを聞いた耳である。彼は完全な孤独に陥り、神に見捨てられたも同然だと思う。
 ある時、彼ら(ジョニーはそれがだれか見ることができないから、「彼ら」というほかにないのである)が彼に取り掛かって包帯を解いていくらしいときがあった。やがて彼は彼の腕は切断されていることに疑いをもたなくなった。恋人を抱いた両腕、その両腕がない。
 しかし、彼はまだ看護してくれる者がなぜ身体を真っすぐにさせてくれないのかわからない。頭や胸がひどく重たいのに、下半身が羽のように軽い。それは、両足がないことへの気づきの始まりであった。
 両腕がなく、両足もなかった。彼は頭をそらせて、悲鳴をあげ始める。だがそれは空しかった。彼には泣きわめく口もなかったのだ。あごもなかった。お願いだ。お願いだ。だれか来てくれ。助けてくれ。こんなふうにいつまでも寝ておられない。やめてくれ。おれじゃない。ノー、ノー、ノー。
 彼には全く頼るものがない。どこか胃のあたりに管が差し込まれているらしく、その管を通じて食物の補給を受けている。何事も期待し、願望することはできない。2度と「やあ、今日は」などとは言えない。音楽や風のささやきに耳を傾けることができない。ヨモギの香りをかぐことができない。みんなの顔を見ることができない。両足を使って地面を歩くことはない。疲れたとき脚を伸ばすこともない。
 戦場で拾われた彼は後部陣地に運ばれ、そこで医者たちがこれはいいネタになるぜ、となんとか命だけはとどめて、子宮の中に突き返したようなものだ。呼吸し、食べる、両脚、両腕、両耳、両眼、鼻、口のない男。こういう男を提供する戦争は医者にとってすばらしい事件だ。医者たちが学び取った学問をすべてこのおれに適応させることができるからだとジョニーはいう。
 彼はひどい混乱に陥る。起きていることも、眠っていることも、しゃべることもできない。
 彼は看護婦の手を感じたときだけ自己の存在を確かめることができた。それ以外にどうしたら、おれは今眠るところだとか、起きるところだとか言えるようになるのだろう、どうすればわかるのだろう。これが彼の重要な問題であった。
 かくして1章は終わる。
 第2章、それは「生者」と題されている。ここで重要なことは彼が時間を取り戻す闘いをすることである。時を取り戻せば自己を把握し、自己が回復されるのである。古代人が太陽や星の動き、自然の移り変わりの中から時間を発見し、自らをその中に位置づけていったように、彼は時間を見つけなければならなかった。彼の時間は1918年9月のある日で停まっている。彼は退避ごうに飛び込み、時を失ったのである。その後どれだけ意識がなかったか。彼は思考と夢と想像をさまよいながらただ寝ていたのである。
 彼は秒数を数え時間を取り戻そうとした。それは人間の力を超える難題であった。
 看護婦がやってくる回数で時間を見つけようともした。室内が寒から暖に変わるときを1日の初めとし、それまでに看護婦のくる回数をチェックするのである。
 また、病院の朝に決まって起こること、すなわち行水、寝具の取り替えなどから1日を見つけようともした。死闘の末、夜明けをつかんだ彼は神に感謝の祈りをささげ、喜びに身を震わせた。
 こうして彼の時間で4年目が訪れた。彼は看護婦の床を踏む振動で、彼女たちの背の高さや年齢までも推測することができた。そして、この振動を彼は外界との通信の手段にすることを思いついた。自己表出の試みである。
 彼は無線通信の経験があった。そこで、トン、ツー、トンと体をベッドに打ち付けることで交信しようとしたのである。すべての時間を体を打ち付けることに費やす彼は、外から見ればただ荒れ狂っているとしか見えない。それゆえ、彼は医者によって麻酔注射を打たれ征服されていく。
 ある時、新しい看護婦がやって来た。彼女は彼の胸のうえに指で、ある形をつくり始めた。「メリー・クリスマス」。何年経ったかわからないけれど、今だれかがその孤独をぶち壊し、メリー・クリスマスということばを言ってくれたのだ。彼女が死者である彼と生者である彼とのあいだに介在する沈黙をぬぐい去ろうとしている。そのうえ彼が頭を打ち付ける行為を理解してくれた。彼は再び人間に戻ったのだった。死者からの復活である。
 しばらくして指の太い医者らしき者が「何がほしいか」とツー・トンで聞いた。彼は願った。部屋から出たい。1個の人間はほかの人間と交わるべきだ。そして、死者のみが知る真実を議会や国会や教会であばき、戦争の欺まん性を演説したいと応えた。問を発した男は彼の言うことを無視した。男たちは彼を忘れたいと願っていることをジョニーは悟った。麻酔薬が再び彼の棺へふたを下ろしたようだった。
 以上が本書の概要であるが、これは第1次世界大戦を背景としている。訳者のあとがきによれば、本書はドルトン・トランポによって1939年に刊行され、発禁にあいながら平和という永遠のテーマを追い続けた書である。
 次に、編集部の求めに応じて本書を障害者問題との関連で見てみよう。トランポは人が体をもち、日々の時間の中で生き、人々と交わって生きる生き方を肯定する。それはいかに重度の障害をもっていようとも変わることがない。その願いは障害ゆえにその人に意識されず、またことばで表現できない場合もあろう。しかし、人は根源においてその願いをもっていると信じねばならない。
 そして、その魂の叫びを世の中の人々があの看護婦のように聞くことができるかどうかが、障害をもつ人が共に生きることを保障するうえでの重要なポイントになることをこの作品は示している。いったん死者の世界に墜ちたジョニーが、社会の権威者たちのつくり出した秩序や価値観をあばこうとしたとき、医者たちが睡眠薬で彼を封じたように、われわれも睡眠薬の注射器をもつか、あるいはその訴えを我がものとして共に自分の声を出していく者として生きるか、ジョニーは答えを迫っている。

(しぶさわひさし 前筑波大学附属桐が丘養護学校)

*なお、第52版日本語訳において差別的表現が多く見られることを指摘し、直ちに適切な措置が取られるべきであることを申し添えておきたい。

〈参考文献〉
『ジョニーは戦場へ行った』ドルトン・トランポ著、信太英男訳、角川文庫、1971


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1998年4月号(第18巻 通巻201号)47頁~49頁