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ワールドナウ

ネパール

ヒマラヤの山々に囲まれた町で(2)

―人間の生活にとって必要なこと―

山内信重

ヒマラヤの山々に囲まれた町で

はじめに

 昨年の本誌8月号では、カトマンズ市内に住む精神遅滞の子どもたちへの発達支援についてご紹介しました。その中で子どもたちを取り巻く環境の改善を行うために、一つひとつの構成要素を丁寧に分析して、検討していく必要があることをお伝えしました。今月号では、その子どもたちを取り巻く環境の1つである家族について考えてみたいと思います。

温かく優しい家庭で育つ

 2月に精神遅滞とてんかん、そして行動異常を併せもっている女の子の家を訪問しました。家族構成は、両親と4人の子どもの6人家族で、市内のアパートに住んでいます。両親は、ネパール人のほとんどの人がそうであるように、とても温厚で実直な方です。また、子どもの教育にも大変熱心で、昨年デンマークとの協力によって開設された精神遅滞児を対象にした養護学校に通わせたいとの希望をもっています。しかし、それほどゆとりのない家計をいくらやりくりしても、その女の子1人だけに大金をかけることはできません。他に3人の子どもがいることも理由の1つですが、授業料のほかに学校までの通学に必要な交通費は、その児童の家族が支払わなければならず、近所の小学校に通わせるより時間もお金も2倍以上の負担がかかるのです。それならばと、近所の公立小学校に通わせようとしても、学校側はさまざまな理由をつけて入学を認めようとはせずにいます。
 また、この女の子は両親とともに、数か月に1度、近くの病院を訪ねるとのことでした。しかし、この病院の医師から受けているアドバイスの内容を聞いた私は愕然とするのでした。その女の子はてんかんをもっているため、医師から抗痙剤の投与が必要であると言われ、ある錠剤を服用していました。しかし、一般的にはてんかんと行動異常、特にhyperactiveの状態にある子どもに対して、この薬を投与するとその状態を増強させるので、この薬の投与は禁忌であるとされています。また、この女の子がてんかんや精神遅滞になったのは、親の対応が悪いからで態度を改めるようにと医師から説明されたと聞き、憤りさえ覚えました。的確な投薬指示や正しい障害や療育に対する知識をもつ医師の人数が大変少ないので、適切な医療サービスも提供できずにいるのです。
 この女の子は決して裕福とは言えない家庭で生活をしていますが、とても温かく、そして優しい環境の中で、両親と面倒見のいい姉妹や弟との中で育まれている姿は、私の目にとても幸せそうに映るのでした。彼らと接していると、ごく自然とその女の子の成長と両親の願いを心から応援したいという気持ちになります。

家族が離ればなれになる

 別の精神遅滞の男の子の家を訪問したときに、とても悲しいことを聞きました。お母さんがまもなく香港に出稼ぎに行くという話です。それを聞いたときには、やはり経済的に苦しいので、家族が生活していくためには止むを得ないと思ったのですが、その数か月後に父親もアラブに出稼ぎに行くことが決定していると聞き、私は大変な不安を覚えました。それは、残される子どもたちのことです。精神遅滞のお兄ちゃんとまだ幼い弟はどうするのか。弟はすでに母方の実家に引き取られていました。お兄ちゃんもそれなりのところに預けるというのです。それなりのところというのは、どこなのか不思議に思いました。私が問いただしたところ、心配はいらないとのことでしたが、該当するような施設は市内にはありません。このことについて、ネパール人の幾人かの知人に問うてみたところ、みな一様の答えが返ってきました。
 「それは、路上に置き去りになるのかもしれないね」
 確かに頷けました。途上国では、障害のある子どもたちが多く住んでいると言われていますが、実際にその数を統計上の数値として客観的に把握することは困難とされています。これは、調査方法の問題や調査地域への交通不便の問題、そして障害の定義に曖昧さがあるとの見方が主流です。しかし、実際には、障害のある子どもの一部は、成人になる前に自然淘汰されている、いや人為的に淘汰されてしまっていると言ってよい事実があるのではないでしょうか。もちろん、各国政府から公式に発表が行われているわけではありませんが、この社会に存在する極めて悲しいできごとの1つであると思うのです。つまり、家庭が崩壊するという結果になるのです。

5%の裕福な人と95%の庶民

 もちろん、すべての障害のある子どもたちがこの子どものような状況に置かれているとは限りません。事実、最初にご紹介した女の子の家庭は、貧しいながらもひたむきに毎日を過ごし、明るく温かい家族に囲まれて生活をしています。しかし、この2つの家族は、両親の対応の違いこそあれ、経済的な状況はそれほどよくはありません。どちらも国民の95%ほどの大多数を占める庶民レベルです。
 これら95%の人たちのことを考えると、神様は人間を平等につくっていないのかなとさえ思ってしまいます。どの国にも経済的な社会階層というものが存在しますが、特に後発開発途上国と言われる国では、この底辺に近い部分に位置する人たちが、想像を絶するほどの大多数ではないかとされます。そして、95%の庶民が、5%の人間がもつお金の莫大さに気づいたとき、お金の魅力に取りつかれてしまったとき、それが家庭を崩壊させてしまう原因の1つにもなってしまうのです。
 また、先進工業国から押し寄せる情報化などの波にのって、莫大な富を得る人たちも増えています。経済的に裕福な家族の中に障害のある子どもがいた場合、必要と思われる医学的、教育的、そして福祉的サービスを受けて生活をしている人たちがいることも事実です。ただし、それはほんの一握りの人たちに限られています。その数は、およそ5%でしょうか。それくらい少数であるということです。途上国での社会階層は、まさに底辺の長い二等辺三角形を形成しているのです。

おわりに

 アジアの国を訪れると、人間として幸せに生きる権利は、すべての人にあるのだとしばしば考えさせられます。その幸せに生きる権利の構成要素を考えた場合、最小単位はもちろん一人の人間、いわゆる個ですが、最小の集団はおそらく家族だと思うのです。その最小集団である家族が幸せに暮らせる社会を築き上げていくことが、障害のあるないにかかわらず、人間の生活にとって最低限必要なことなのではないでしょうか。

(やまうちのぶしげ 日本障害者リハビリテーション協会)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1998年4月号(第18巻 通巻201号)68頁~71頁