音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

1000字提言

デザインの責任とユニバーサルデザイン

柳田宏治

 1994年11月、アメリカのボストンで行われたシンポジウム“Designing the Future : Toward Universal Design”は、当時、ADA以降のアメリカのデザインがどのように変わろうとしているのかを調査し始めた私にとって、衝撃だった。
 工業デザイナー、インテリアデザイナー、建築家、行政関係者、教育関係者などさまざまな分野からの参加者を迎えたそのシンポジウムは、障害者とデザインの問題をテーマにしていた。しかし議論の中心は、製品や環境を障害者に使えるようにするためのデザインの手法ではなく、ものづくりに携わるデザイナーや建築家の「責任」の問題だった。デザイナーや建築家には、自分が創る製品や環境をだれにでも使えるようにする責任がある。これが議論の焦点だった。
 多くの製品や環境は、それを「使えない人」を生み、彼/彼女らを排除している。特に障害者が排除されることが多い。だれかが製品や環境を使えないとき、それはだれのせいなのか? 使えない人の側ではなく、製品や環境の側に問題があるのではないか。たとえ機能的で美しいデザインであっても使えない人がいるなら、それは質が劣るものだ。そしてこの差別的なデザインを省みることをせず、「使えない人」のために特殊なデザイン(バリアフリーデザイン)を補完的に提供することがいいのか。特殊なデザインは、それを使う人を本流と分け、新たな差別を生んではいないか。だれにとっても使えるようデザインすることは、本来、ものづくりに携わるデザイナーや建築家が当然果たすべき責任であるはずだ。
 とは言っても、実際にはその責任を果たすこと―真にすべての人に使えるものを創ることは、難しい。永遠に不可能なことかもしれない。しかしそれでもなお、ものづくりに携わる者として、その責任を考え続けていこうという強烈な意志が会場を埋めていた。シンポジウムのタイトル「ユニバーサルデザイン」とは、可能な限りこの責任を果たそうとすることだ。「配慮」や「やさしさ」ではなく、「公平」なデザインを目指す態度だ。それは、ものづくりに携わるすべての者に責任の自覚を迫り、製品や環境を劇的に変えていく可能性をもっている。デザインの「責任」が問われている。

*94年の第1回は小さなシンポジウムであったが、4回目となった今年は国際カンファレンスとして大規模に催される(6月17~21日・ニューヨーク。カンファレンスのホームページ http://www.adaptenv.org/21century/)。

(やなぎだこうじ 三洋電機株式会社総合デザイン部主管デザイナー)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1998年5月号(第18巻 通巻202号)36頁