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文学にみる障害者像

岩野泡鳴著『背中合せ』

―障害児殺しをする夫婦の悲劇―

関 義男

 現在もなお、肉親による障害者(児)殺しのニュースが流れることがある。悲劇を生むに至った道すじは、そのまま「福祉」の脆弱な実態を物語っており、事前に防止できなかったことに対して私たちの胸は痛み、時には憤りすらおぼえる。
 過去に限りなく繰り返されたであろうこのような悲劇を、明治・大正期の日本自然主義文学作家の一人、岩野泡鳴が短編『背中合せ』で克明に描いているので紹介したい。
 泡鳴は一般に自伝的連作長編『泡鳴五部作』が近代文学の傑作として知られ、彼の文学や思想はこれらの長編群と「神秘的半獣主義」等の文学論を中心に論じられることが多い。したがって『背中合せ』を知る人は少なく、このような作品が明治期に書かれていたという驚きと、作者及び当時の人々の否定的障害者観がよく表れているという点で極めて衝撃的である。

『背中合せ』のあらまし

 藤田義行は滋賀県の小学校の教員を27歳で辞めて、大阪の裁判所の書記になった。性質は実直、勉強家で同僚間にも評判がよい。同僚の紹介で7歳違いの八重子と結婚した。妻、八重子もまたなかなか気立てのいい女性だった。やがて女子を誕生した。その子が2歳になった時、他の子どもと様子が違っていることが分かってきた。職場の同僚や上司もこのことに気づき、気違いに相違ないと言う。そして「大きくなってもつまらないから今のうちに殺してしまった方がよい」と冗談に勧めるのだった。夫婦の心配と苦労は絶える間がなく、1日中抱いていなければむずかる状態で、夫が職場へ行っても耳に泣き声が聞こえてくる。妻が「本当に気違いだろうか」と心配すると、夫は「もしそうならいっそ殺してしまった方がよい」と悩むのだった。
 子どもは水遊びが好きで、ぼちゃぼちゃ水遊びをさせたままにすると、その間は気嫌がいい。そして「ああ」と言って濡れ手を上げ、雫が脇腹の方へ流れ込むのを面白がって幾度もそれを繰り返している。妻は子どもが水遊びで気嫌のいい間に家事をするのだが、やがて度が過ぎて風邪をひかせてしまった。そしてむずかり方が一層激しくなり、妻は抱きかかえた子を投げつけることがあるほど心が乱れるようになった。夫が「可哀そうやないか」と言うと、妻は「いいえもう泣き死にでもしてくれた方がいい」と泣き崩れる。医者に何度みせてもこれは病気ではないから癲狂病院へ送るより道はないと言われ、癲狂病院へつれていくと「こんな赤ん坊では手のつけようがない」とことわられる。
 妻の心は一層乱れ、まともな養育ができないほどになった。夫婦は子どもを可哀そうに思えば思うほど悩み、それがために夫婦喧嘩まで始まったりする。そのうち「思い切って殺してしまおう」という相談が夫婦間でこっそり成立する。ある夜ついに凄惨な子殺しが実行される。(中略)
―子どもの死が確認された時、妻は悲鳴をあげてその場に倒れ、夫は目の色を変えてそこら中をうろうろするのだった。夜明けに医者を呼びに行く。医者は夫婦の事情を察してか察しないでか死因を「肺炎の結果、心臓閉塞」と書いてくれる。
 しかしこの時点から夫婦の罪の意識にとらわれた、地獄のような苦しみが始まる。
―夫は酒をがぶ飲みして寝転んでしまう。妻も恐ろしくなり起きていると罪をすべておしつけられるような気がして夫のそばに行って寝転んでしまう。暑い夏なのに、戸は締め切ったままの、死児の臭いが立ち込める薄暗い家の中で、夫婦は空腹も忘れてただ背中合せに寝転んで藻掻いているのである。
(「気違い」「気嫌」等の用字は原著のまま)

泡鳴の否定的障害者観

 泡鳴がこのような作品を書いたいきさつについて、直接手掛かりになる資料は残されていない。同じ時期に彼は庶民生活のさまざまな悲喜劇を題材にして数多くの短編を生み出しているが、おそらく『背中合せ』もその1つとして彼が小耳にはさんだ事件をもとに、興味のおもむくままに書いたのであろう。
 したがって作者の関心事はもっぱら善良な夫婦の、「子殺し」へ傾斜していく悲劇的な心理過程を描くことに向けられていて、悲劇の背後にある偏見や無理解、障害児をもつ夫婦が孤立無援の状態におかれている社会的問題については全く無批判である。子殺しに傷ついたままの状態で職場に復帰した夫に対して、上官や同僚たちが「いよいよ殺したな」とからかい、一斉に声をあげて笑う、という残酷な場面描写があるが、この1つをとってみても、作者には夫婦への同情はあっても、障害児を(生き、育つ権利をもつ)同等の人間としてとらえる認識がない。『背中合せ』では、障害児は家族を不幸にさせる存在=社会が望まぬもの、という当時の時代性を強く反映した否定的障害者観を明確に読み取ることができるのである。ここにこの作品を、たかが小説(虚構の話)として片づけられない問題性がある。
 泡鳴はどのような作家であったか、その人物像について、彼が書き残した随筆や日記から、弱者蔑視、差別的人間観を強固にもちつづけた人であることが分かる。偏見にもとづく弱者蔑視の表現、無自覚すぎる差別的表現は多岐にわたり、露骨すぎて腹立ちより先に呆れてしまうほどである。
 「どうせ彼等は滅亡の運命を有する劣等人種ではないか、それをわざわざ土人学校などを設けて、教育したとて何程の為になるのだ」(アイノの話)
 例えばこのような他民族蔑視を『背中合せ』に重ね合わせると、「障害児を苦労して育てたとて何程の為になるのだ」、あるいは上官や同僚が子どもの死を笑いとばして暗示する「早々に死んで良かったじゃないか」等の、作品の底辺を流れる障害者否定に見事につながってくる。
 泡鳴は早くから西洋の芸術や思想を吸収し、若くしてキリスト教の洗礼を受けた。しかしその後宗教を偽善として退け、常に強者指向の姿勢をとりつづけた。人間愛の精神とは程遠い存在であった。
 文明開化、富国強兵、そして戦争へと進む時代の流れの中で、彼が作品で描き出す弱者蔑視の人間観は、まさに“障害者にとって厳冬の時代”そのものを表現していると言えるのではないだろうか。

(せきよしお 東京都障害者福祉会館)

〈参考文献〉
 泡鳴全集(国民図書版復刻・広文庫)第1巻、第11巻に所収の下記の作品を参考にした。
①「背中合せ」「踏切番」明治43年
②「旅中雑記」明治41年
③「旅中印象雑記」「樺太の女」明治42年
④「アイノの話」明治43年
(注1)著者はアイヌをアイノと表記
(注2)現在「岩野泡鳴全集」が臨川書店より刊行されている。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1998年5月号(第18巻 通巻202号)48頁~50頁