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芸術作品としての演劇や映画づくりを

米内山明宏

 私は障害者ではなく、れっきとした米内山明宏という名をもったろう者です。私が執筆できる範囲は限られていますし、他の障害者(この呼称は使いたくないが、あえて使わせていただく)のことは書けません。他者のテリトリーまでは侵したくありません。これを承知のうえでお読みいただければと思っています。

 舞台や映画などの分野でろう者役を当事者が演じることに対して、どう見るかについての質問は、聴者のおごりであり、全くナンセンスなのかもしれません。今のところ、この件は興味がないのが本音です。それより問題なのは、現在の日本の演劇や映画に対する姿勢と態度です。作品そのもの自体が、観客に媚を売ることが多く、正直に言って一緒に仕事をすることが億劫です。次元が違うのです。それは決して技術的な問題ではなく、精神的なものです。商業に走りすぎた感があるので、演劇や映画の本質的な問題をもっと考え直してほしいし、芸術的なレベルアップも図ってほしいものです。演劇や映画は商品ではなく、れっきとした芸術作品であるべきです。それがあまりにも少なすぎるような気がしてなりません。

 私なりの演劇や映画に対する考え方を述べたいと思います。障害者問題(これにこだわったら、考え方や視野が狭くなりがちなのです。これは人間全体の問題であり、人間という生き物の原点は何か、と考えることのほうが遥かに大切だと思います)とかけ離れた内容であることを、あえて承知のうえで述べておきます。
 ろう者が映画界や演劇界に進出する最低の条件は、自分たちの言語である日本手話が堪能でなければならないことと、ろうというアイデンティティを自認していることが必要です。そればかりでなく、映画や演劇の基本的な演技や知識を学ばなければなりません。スタッフを目指す人は、それなりの基本的なことを身に付けなければなりません。しかし、現実的な問題はそれを学ぶことができる環境が整っていないということです。たとえ、学べたとしても従来の映画や演劇のやり方をそのまま通すことはどうかなと思います。ろう者はろう者のやり方があり、そのシステムを1日も早く確立することが急務だと考えます。演劇の場合はそれなりの実績がありますが、映画の場合はまだ始まったばかりです。日本の映画界や演劇界のシステムは、正直に言って体制的すぎるきらいがあります。創作活動は、従来のやり方にこだわると、本当に作りたいものが見えなくなってしまう恐れがあります。芸術活動を職業的に考えたら、芸術が芸術でなくなり、ただの生産に成り下がってしまうのです。

 ろう者が芸術活動をする場合は、大きく分けて二つのタイプが出てくるだろうと思われます。一つは、ろう文化にこだわりをもつデフ・シアターやデフ・シネマであり、それらにかかわりをもつ人はろう者が中心になっていることです。見方によっては、極端で面白い作品が生まれるのではないかと思います。そこから、真のろう文化が浮き彫りにされ、隠されたろう者像が垣間見られるものです。もう一つは、ボーダレスであり、ろうというテリトリーにこだわらないもので、新しい芸術を生み出す不思議な力が秘められています。こういう二つの違ったやり方があり、他の全く違った新しいやり方も生み出されてもよいかと思います。芸術活動で大切なことは、感性であり、物事にこだわらない寛大な心をもち合わせる必要があるのです。ろう者だから出せる感性や可能性が見出されるものもあり、それは未知数で、第三者からの発見や着目も必要不可欠なのです。それは頭だけの理論で語られるものではありません。

 日本という土壌では、芸術というジャンルが育ちにくいという風潮が強く蔓延しているような気がしてなりません。日本における芸術教育の環境を見直さねばならない大きな局面にたっているのではないかと思います。ろう教育の中で大切なのは、視覚的な分野を重視することです。その中から新しい芸術が生み出されれば、周囲に非常によい刺激を与えるのではないでしょうか……。
 ろう者は耳が聞こえない不自由な人類ではなく、視覚的な分野においては重要な役割を果たしていて、手話という言語を駆使している人類であるという飛躍的な見方をする必要もあるのではないかといつも思っています。異文化交流を通して、お互いに新しい芸術が発見できたらいいなと……。

 だからろう者に、芸術や映画や演劇などで何ができるかというような了見の狭い考え方は、できるだけ避けてほしいと思っています。マイナスイメージをもたず、前向きにプラスイメージを考えることのほうが大切だと思います。

(よないやまあきひろ 株式会社ワールドパイオニア手話・企画室米内山)