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沖縄・伊江島から思うこと

内藤喜和子

 横浜で生まれ育った私が沖縄の離島、伊江島に移り住んで6年になる。伊江島は人口5,200人ほどの農業を中心とする島だ。神奈川県の福祉職として働いていた私は、就職の時の問題などはあったものの、日常的には電車で通勤し、駅前のスーパーで買い物をし、旅行に行ったり山登りやスキーを楽しんだりと、自分が障害者であることを意識せずに暮らしていた。
 しかし、沖縄に来て道を歩いているだけで「かわいそうに、えらいね、どうして歩けるのかね」と言われ、「私は障害者だったんだ」と自覚させられた。道を歩いている障害者は少なく、仕事も三療以外の職はほとんどなく、県も障害者はほとんど雇用していない。確かに健常者でも失業しているのに障害者にまで仕事があるわけがなく、電車がない車社会で、車に乗れない私たちは不便で外に出るのがおっくうになる。
 そして、復帰後28年の沖縄は、そこからが戦後の始まりで、障害者施策に限らず、すべての社会制度が遅れているし、基地問題が大きくて他の問題にまで手がつけられないのだ。人の意識も都市部とは違う。地縁血縁の強い沖縄では極力自己主張せず、みんなに合わせて生きねばならない。一緒に住んでいた舅が心筋梗塞で倒れ、用船で本島の病院に運ばれた時、やもたてもたまらず私は見舞いに行った。舅は「ありがとう、おじいはすぐよくなるよ」と言ってくれたが、これを見ていた親戚の人は私の夫に電話し「どうしてあの子を見舞いに来させるね、あれが外に出れば人に迷惑をかけるし、見せ物じゃないんだから家に閉じこめておきなさい」と言ってきた。その人には障害児がおり、施設に預けたままで人には隠している。親戚に何を言われるかわからないという想いから、座敷牢状態の障害者も多い。また、当事者も消極的だ。神奈川で障害を意識せずに暮らしてこれたのは、先輩たちの長年にわたる雇用や生活問題への取り組みのおかげであり、感謝している。
 沖縄に来て、まず公的情報補償の問題に取り組もうと新聞で呼びかけ、グループをつくった。10人ほどの健常者が賛同してくれて会が発足したが、当事者は「必要だと思うけれど、喜和子さんがんばってね」という反応だった。人間関係の保ち方の違う沖縄では神奈川のような運動は敬遠され、沖縄に合う意識改革を考えねばと実感した。10年遅れていると思って来た沖縄は20年遅れており、カルチャーショックを受けた私だった。

(ないとうきわこ 沖縄県自立生活センター・イルカ理事)