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体験
一本の棒が与えてくれるもの

清水一史

 パソコンはもともと勉強、仕事、日常生活において当然の存在であっただけに、四肢マヒとなったことを告げられても、パソコンのない生活は考えられなかった。それ故、肩以下の機能回復の見込みがなかった私は、リハビリ入院中の作業療法の時間のほとんどをパソコン操作の獲得に費やした。
 最初に試用したデバイスは、頭の動きと呼気でマウスの機能を再現するヘッドセット型のものだった。四肢マヒの自分が初めてパソコンを操作できた時には小さな感動さえあったが、退院後の生活やパソコンの使用目的を考慮して実用性を検証していくうちに問題点も目立ち始めた。このデバイスは通常、マウス操作を要求される場面ではその性能を発揮するが、画面上のキーボードでの文字入力の際は途端に効率が落ちてしまった。また装着感や価格にも難があり、購入には至らなかった。
 現在はマウススティックに落ち着いており、アナログ的ながら口から落とすことさえなければ、信頼性や入力速度も悪くなく、テンキーを代用することでマウス操作もスティックで可能である。入院中、歯型を採って私専用の物を作ってもらったものの馴染めず、現在は米国製の既製品を使用している。タイプライター時代から培われてきた製品らしく、デザインや使いやすさにも満足している。また最近では、最新版の音声入力を試す機会をうかがっている。
 数年前、米国で「情報障害者」という言葉が生まれた。高齢者や貧困層、ハイテク拒否症の人など、情報端末を扱うことができず、情報化社会から取り残される人を指している。日本でも金融業や販売・流通業などで店舗・接客要員を削減し、サービス窓口をインターネット上に移す動きが急増しており、企業は顧客誘導のために割安な価格・手数料を設定している。こうした動きは通信コストの低料金化でさらに加速し、情報障害者は割高な生活コストを強いられかねないという危惧さえ覚える。
 その一方で、パソコンという一つの媒体の操作方法の獲得で、手紙や電話のやりとり、情報検索、口座操作や買い物、新聞・雑誌記事や辞書、小説、地図などの閲覧さえ可能である。またネット上の社会は、リスク認識のもとに、身体的な理由のほか、何らかの事情で外出や社会参加が制約されている障害者の新たな活動の場となるかもしれない。私自身も自己の発信を模索しており、ここでは参加さえ可能なら、障害者という特性は無意味化する。
 パソコンは決して万能ではないし、過剰な期待は禁物だが、障害者がその操作手段を獲得する意義は、今後ますます大きくなるのではないだろうか。

(しみずくにひと 頸随損傷[C3]、受傷歴3年5か月)