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文学にみる障害者像 44

聖書の障害者像
―神のみわざが―

内藤俊宏

 聖書には、無数の障害者が登場します。ここでは、無名で生まれつきの視力障害者を取り上げてみましょう。この記事の独自のメッセージは、「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか」といった問いかけに対して、イエスが「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(注1)とお答えになった言葉にあります。
 非常にむずかしい言葉ですが、苦難の中にある人間を過去の罪のなわめによって、さらに追い打ちをかけるのではなく、イエスは未来(可能性)に目を注ぐ視点を与えたと言われています。つまり、弟子たちはこの人を神学的興味の材料としてしかみなかったのに対して、イエスはその人の負っている重荷を見つめて、「人格」ある存在として取り扱われたのだと言えましょう。最近、「障害者には、人格があるのか」といった不思議な問いかけを耳にします。「人格とは決して他の目的に役立つ手段としての利用価値によって判断されてはならず、それ自体が目的として扱われねばならないものである」。これはカントの定義ですが、人間を「利用価値」としてしかみられない日本人の認識の貧弱さを感じないわけにはいきません。私自身幼少時代から、自らの障害のゆえに「先祖のたたりだ」と言われ続けてきましたが、この言葉によって生きる勇気が与えられたのです。
 この視力障害者は、イエスによって開眼させられたのでしたが、それが単に身体的な開眼だけでなかったことが、今後の彼の生き方から分かってきます。近所の人たちは、彼が物乞いをしていた本人だとか、いや似ているだけだと噂で大騒ぎです。ところが、この奇蹟をよからぬ思いで見ていた人たちがいたのでした。パリサイ人たちです。ユダヤ教の厳格な一派でしたが、その偽善ぶりをあからさまに指摘され、非難されていたために、イエスに殺意を抱いていました。
 パリサイ人たちは、この元障害者の両親を引っぱり出して問いただします。「この人は本当にあなたがたの息子で、生まれつき目が見えなかったのか。そしてどうして見えるようになったのか」と。両親は息子の、生まれつきの障害があったことを認めるのですが、一番大事な部分は口をつぐんでしまいます。「あれに聞いてください。あれはもう大人です。自分のことは自分で話すでしょう」と。その理由を聖書はこう記しています。「ユダヤ人を恐れていた。イエスをキリスト(救い主)と告白する者があれば、会堂(ユダヤ教の)から追放すると決めていた」からです。このことは、ユダヤ人社会からのあらゆる締め出し(村八分)を意味していました。
 こうしてこの元障害者は、もう親に頼ることもできずに、ただ1人で当時の社会全体を牛耳っていた人たちの前に出て堂々と告白するのです。「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」。この言葉について、レオン・モリスという聖書学者が「He is independent./〈しっかりとした自己をもち独立している(和訳)〉」と書いています(注2)。この解説の言葉は、私にとって感動的です。米国で誕生した「自立生活運動」の原語も「インディペンデント」です。何か私には、自立というよりも、もっとずっしりとした重さが感じられる「独立」のほうがふさわしいように思われてなりません。
 それにしても「あれはもう大人です。自分のことは自分で話す」この親のつき放しがかえって、この路傍の男を独立させ、確信の人にさせたとは、興味が湧いてきます。四肢に重度の障害があるレーナ・マリアさん(ゴスペルシンガー)の母親アンナさんの「子どもの障害を母親が背負ってしまってはいけない。それでは、母親を通してでなければ外部との触れ合いができなくなり、その子が自分の人生を生きたことにはならないのです」(注3)という言葉は、私の心に感激をもって深く印象づけられています。「自分のことを自分でしゃべれない。親がみな代弁してしまう」。これこそが、私の青春時代を不幸に陥れた源であったように思われるからです。
 彼が道端に座って物乞いをしていたころのほうが人の暖かさ、やさしさが感じられたかもしれません。いま目が見えるようになって、かえって人の白々しさや醜さをいたく痛感したに違いありません。悲しいことに、これが人間の性(さが)です。タイブワドが、この世における正常とは苦労と争闘、試練と苦難を意味し、ノーマライゼーションとは「リスク(を冒す人間)の尊厳」といったとおりです(注4)。
 さて男は自分の確信を翻さないものですから、業を煮やしたユダヤ人は彼を追放しました。つまり排除したのです。ところがイエスが彼を見つけ出してくださいました。追放され、排除された者を、見つけ出し、迎え入れてくださるイエスの姿がここに描かれています。迎え入れられたばかりではなく、救われるということがどういうことかを教えられたのです。すなわち、世間から、いや弟子からさえも“罪の結果だ”としか見なされず、路傍の石にされていた男がイエスを「救い主」と信じる確信の人生を歩むようになったのです。これこそが「神のわざをあらわすため」の意味ではありますまいか。
 しかし、おさまらないのがパリサイ人です。彼らは「私たちも盲目なのですか」と尋ねました。黙っていたらよかったのに――。「もし盲目であったなら、罪はなかったでしょう。しかし目が見えると言い張るところに、罪があるのだ」とイエスはお答えになりました。これはもちろん、イエスが救い主としておいでになったのに、それを拒否した罪を指摘されたものですが、パリサイ人を代表する当時の社会(彼を差別し追い出した)、そして現代社会に対する痛烈な批判としてみておきたいのです。
 視点を変えるということは、とても大切です。「障害者のリハビリテーションは非障害者のリハビリテーションだ」(注5)とまで大胆な発言をしたドイツの神学者がいます。今までは障害のある人が問題だったのです。それが、そういう人たちを迎え入れようとしなかった社会にも大きな問題があることに気づかせたのが、ノーマライゼーションであり、バリアフリーの潮流(課題)でありましょう。
 「目の見えなかった者が見えるようになり、見えると自称する者が見えなくなる」。イエスは、この逆転の中に神の救いと裁きを見ているのです。

(ないとうとしひろ 美浜バイブルバプテスト教会牧師、障害者伝道誌『野の花』主筆)


【参照文献】
注1 新約聖書『ヨハネによる福音書』9章(新改訳、協会訳/一部分、分かりやすくするために意訳)
注2 レオン・モリス『ヨハネ福音書(中)』182頁、聖恵授産所、1996
注3 アンナ・ヨハンソン、ロルフ・ヨハンソン、玉木功『障害を光にかえる家族のちから』81頁、キリスト教視聴覚センター
注4 砂原茂一『リハビリテーション』193頁、岩波新書、1980
注5 「リハビリテーション」=機能回復、社会復帰の意味で使われてきたが、もともとは法律用語で「人間復権」「名誉回復」の意味がある。