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座談会
新しい世紀に向けた私たちの活動
-障害をもつ議員の議会活動-

堀利和   参議院議員

平野みどり 熊本県議会議員

岡村仁志  京都府三和町議会議員

入部香代子 大阪府豊中市議会議員

板山賢治  日本障害者リハビリテーション協会副会長、本誌編集委員

板山(司会)

 今日はお忙しいところをお集まりいただきありがとうございます。
本誌では、昨年11月号で「障害者と政治参加」について特集いたしましたが、今回は、実際に議会での活動を続けておられる障害をもつ方々にお集まりいただきました。
地方議会議員で一番経験の長い方は岡村さんで、京都府三和町で実に32年8か月余り町議会議員をされています。大阪府豊中市議会議員の入部さんは3期目です。熊本県議会議員の平野さんは2期目ですね。昔、中途失明の国会議員はおりましたが、全盲で初めて参議院議員になられたのが堀利和さんです。
昨年は、車いす議員の八代英太さんが初めて郵政大臣になりました。障害をもつ方が議会議員に進出されたのが、90年代の一つの特色ではないかという感じがいたします。2000年という新しい年の始めに、完全参加と平等の典型的な形としての議会活動の分野で、障害をもつみなさまに話し合いをしていただきたいと思います。
まず第1に、政治への参加について、参加の動機、支持基盤と選挙への取り組み、どのようなテーマに取り組まれたのかについておうかがいします。
第2に、政治活動と障害者施策について、ご経験を通して、障害者議員としての喜びや悲しみ、国政、地方議員としての役割、地域とのかかわり、理想と現実の乖離、障害者計画に対するご感想などをお願いします。
第3に、21世紀に向けて、これからの政治活動の方向と決意についてお話していただきたいと思います。
本日のように町議会、市議会、県議会、そして国会議員というそれぞれのレベルの議員さんが顔をそろえる機会はめったにありませんので、よろしくお願いします。

政治への参加

◎議員になってから、失明

板山

 第1の柱は、政治活動に参加された動機、どのような人たちが選挙の応援をしてくれたのかという支持基盤と選挙での苦労、そして、いままでの政治・議会活動でどのようなテーマに取り組まれたのかについて、経験の一番長い岡村さんからお願いいたします。

岡村

 私がおります京都府天田郡三和町は、京都から丹波の大江山のほうへ向かった福知山市の近くで、兵庫県と境界を接する鉄軌道のない町です。
私は目が悪かったので大学進学をあきらめ、家で百姓をしていましたが、野菜をつくったのに暴落してどうにもならない。農業協同組合の野菜部会長をしていましたから、町や農協と交渉して、京都、大阪まで一軒一軒売りにも行きましたが、なかなか売れません。やはり政治の力で解決するしかないと思ったのが、議員に出ようと思った最初でした。
現在は党籍をもっていますが、当時は無所属の議員で、「若い者がきちんと言わないと農業はよくならない」と地域の若い人たちが推薦してくれて、35歳で町議会議員になりました。初めての仕事が、野菜の安値補填制度をつくったことです。その制度は、合併してかなり大きな農協になった現在も続けられています。
農業政策を中心に取り組んでいましたが、いまから20年ぐらい前、2期目を終わったころに目が見えなくなってきまして、改めて身のまわりを見渡しましたら、視覚障害者がほとんど見当たりませんでした。
目が見えないから外には出ないとか、老人クラブでも、あなたは目が見えないから参加されないでしょうねと言われたとか聞きまして、何としても視覚障害者の組織化が必要だと思いました。天田郡と加佐郡だけに京都視覚障害者協会の支部がなかったので、相談をして支部をつくって10数年になります。それが障害者運動を始めた最初でした。
私を活動に踏み切らせたのには、ある出来事がありました。京都府にはガイドヘルパーの制度がありまして、すでに目が見えなくなっていましたので、ガイドヘルパーさんに手を引いてもらって役場の中を歩いていたら、事情を知らない議員から「岡村議員はけしからん。役場の中を若い女の子を連れて歩いている」とやられました。「何言うとるんや」と思いましたが、田舎の町ではそれくらいのレベルだったんです。こういう状況は変えなくてはいけないと、支部をつくっていただきました。
天田加佐支部は、夜久野、大江、三和の3町からなっています。それぞれの町村間の交流を進める中で、3町の歴史文化などを知りました。そのことが各地域で健常者の会合等でも話題が豊富になり、参加者の喜びを知るようになりました。また、ご家族の方に聞くと、母親が明るくなったとか、デイサービス事業とかを指折り数えて待っているとか、変化が出てきました。それが一番大きな喜びでしたし、成果だったと思います。

板山

 岡村さんは議員をしているうちに失明されましたが、選挙のうえでマイナスにはなりませんでしたか。

岡村

 最初は、けしからん、手を振っているのに知らん顔をしているという声がありましたが、まったく見えないようになってからは、町民が「声を聞いたら分かる」と、選挙カーに寄ってきてくれるような変化が起こってきました。党籍をもっていますが、選挙事務長さんも党以外の方にしていただいていますし、ざっくばらんな性格が親近感を与えているのではないかと思っています。

◎障害者の働く場づくりから、仲間に推されて

板山

 入部さんは、大阪府豊中市という都市で活動されていますが、どういうきっかけで議員になられたのですか。

入部

 25年前、豊中市では「水をきれいにしましょう」という運動を市民の方がしていました。そういう運動体と密着しながら、障害者の働く場ができないだろうかと考えて、障害者と健常者が一緒に廃油を原料にして粉石けんをつくるという作業を始めました。
25年前ですから、行政も障害者の生きがい対策だったら認めるけれど、事業にお金は出さないと言われ、その後ずっと交渉を続けました。最初は障害者3人ぐらいで作業をして地域の人たちに石けんを売ってきましたが、だんだん働きたいという障害者の人が増えて、いまは30人ぐらいが働いています。
15年ぐらい前からは無添加のパンもつくるようになりましたが、基本的には作業所ではなくて事業所と位置づけ、会の名は「障害者自立センター・えーぜっとの会」と言います。
私もちょうど25年前に親元から離れて自立をして、えーぜっとの会に所属しながら活動をしていたのですが、91年の統一地方選挙に出てくれないかと、その3年前ぐらいにまわりの人から言われました。
私は、政治が分からなかったので選挙にも行かなかったし、政治家は嫌いだったからなりたくなかったんですが、これからはいろいろなところに障害者が入っていくことで、社会の意識改革をしなければ、小さい運動体だけでは世の中は変わらない、と会のメンバーから延々と話をされて、それならと決意しました。
そこで、政治家はどういうことをすればいいのか、具体的にはどう動いたらいいのかを私自身が知らないと動けないので、アメリカのバークレーに行って、障害者の人たちと話し合いました。当時はまだアメリカの差別禁止法のADA法は検討中でしたが、3回立候補して3回落ちたという人の話も聞かせてもらいました。
アメリカと日本の選挙運動の違いも感じましたね。日本ではお願いしますと手を振って握手をして、名前を連呼しますが、アメリカでは市議会だったら、市民が「4年間でこういうことをしてほしい。その約束であなたに1票を入れます。やれなかったら次は入れません」というやり方で、候補者は政策を訴えるわけです。

◎会を通して広がる輪

板山

 選挙運動はたいへんでしたか。

入部

 えーぜっとの会の人たちや、そのまわりの市民団体の人たちが応援をしてくれて当選できました。
えーぜっとは、障害者の働く場づくりとして企画やバザーなどで、ビラまきやPRを前提として活動をしています。同時に議員レポートを配ってもらったり、えーぜっとの会の通信と一緒に、議員レポートの発送もお願いしています。
地域での触れ合いもえーぜっとの会を通して多くの人たちと手をつなぐことができました。選挙戦の1週間は、えーぜっとの会に日常的にかかわりのある人たちが、手弁当で自分たちの障害者への思いやこんなまちをつくりたいといったことを自分たちの言葉で、私と一緒に市民のみなさんに訴え、私と一緒に豊中市中を歩いてくれます。楽しい選挙戦でした。

板山

 どんなことを公約に掲げたのですか。

入部

 日本では、これをやります、あれをやりますと言いますが、実際やれないものがたくさんあると思います。私は、自分が困っている介護とか、住宅問題、教育、障害者の就労などを掲げました。

◎障害者施策の充実には「政治」が必要

板山

 次に、県会議員という立場で、熊本県で2期目の平野さんからお話いただきます。

平野

 2期とご紹介がありましたが、まだやっと3年目になります。97年12月の県議会補欠選挙で県政に出て、98年4月の統一地方選で再選を果たしました。
私は11年前に障害をもつ身になり、その後、ダスキンの障害者リーダー派遣事業でアメリカに派遣していただいて、自立生活の運動とか、ADA法を通すに当たっての障害者の政治へのかかわり方を学びました。そして私自身が人間らしく幸せに生きるためには、政治にかかわっていくことが必要だという実感をもちました。ただ、それはロビー活動をうまくやっていくという意味でして、自分が議員に出るということではありませんでした。
帰国してから、熊本で自立生活センター、ヒューマンネットワーク熊本を立ち上げていく中で、私たちはこういう生活をしたい、こういう制度ができれば、もっと多くの人が自立生活ができるのだということを実践してきたわけです。そういう活動の中で、人権問題、公共交通問題、環境問題などに取り組むグループとか、市民運動の方たちとの接点もできまして、労働組合から補欠選挙に立候補しないかという打診があったのです。
労働組合も市民の思いを反映できる議員をもちたいという問題意識があったと思います。支持をもらっている教職員組合のみなさんとは、以前から障害児教育等での接点がありましたので、熟慮しましたが、私への期待に応えるべきだと思い、選挙に挑戦しました。
幸い当選したわけですが、議会は敷居が高くて、何をやっているのかわからないというのが、県民のみなさんの偽らざる目だと思います。
私が出ることによって新たな県政の1ページが開かれるのではないかという期待をされて、社会的に弱い立場のみなさん、つまり高齢の方、障害をもつ仲間、特に女性から支持をいただいたのではないかという気がしています。
選挙への取り組みでは、名前を連呼して駆け回ることは避け、できるだけ辻立ちをして、5分10分なり話を聞いてもらうことを続けました。特に有効だったのは、団地などで辻立ちをしたり、住宅街をゆっくり車を走らせながら語っていったことです。ベランダや窓から手を振ってくれる方がどんどん増えてきたときには感動しました。
障害をもっていて、女性であるという新しい議員像に期待を寄せていただいたことにしっかり応えていくためにも、そういう方たちとのつながりはとても大切だと感じております。
3年目ですので、まだ経験は浅いのですが、統一地方選挙を通じて特に訴えてきたのは介護保険の問題です。高齢者の問題だと思われがちですが、すぐに私たちの問題として跳ね返ってきます。措置から契約へという大きな1ページを開く介護保険ですので、その仕組みや理念と市民のかかわり方、残されている課題等をみんなで考えましょうと訴えたことが、評価されたような気がしています。議員活動においても厚生常任委員会で介護保険について毎回発言しています。

◎「専従」から国会議員に

板山

 堀さんは参議院というナショナルベースでご活躍ですが、参加の動機などをお話しいただけますか。

 私はいまでも「政治家」には若干抵抗を感じています。「議員」という立場と認識していますが、政治家になるとは思っていなかったわけで、人生のどこかで押し出されたというのが正直なところです。
私は10代後半の若気の至りといいますか、はり・灸・マッサージはみなさんの健康管理、疾病を治癒するすばらしい仕事ですが、目が悪いというだけで、その仕事しかないのかと反発しまして、盲人の世界から飛び出したいと思いました。飛び出すときに盲学校の先生から「飛び出しても仕事はないよ」と言われましたが、大学は何とか卒業しても、25、6年前ですからやはり仕事はありませんでした。
知り合いの方の保育園で保父さんを1か月ぐらいやったり、当時は近くに行くと人の顔がやっと見えるぐらいでしたから、親御さんの理解を得て都立養護学校のスクールバスの添乗員を2年ほどやったり、住んでいた大田区で中途失明者の点字講習会の講師を10年ほどやったり、はり・灸・マッサージの治療院を仲間と共同経営したり、あれこれしながら生きてきました。
その一方で、視覚障害者の雇用をはじめ、教育、生活などあらゆる分野の障害者の運動にかかわり、ボランティア専従を長くやってきました。そういうことで、組合の関係者や当時の社会党の方々とのお付き合いもありまして、86年に社会党が参議院の比例区にさまざまな分野から候補者を出すことになり、障害者を出そうとなったときに私に話がありました。障害者が自ら発言する場に出るべきではないかと考えて出させていただきましたが、残念ながら落選しました。
障害者運動というか、市民運動をする中で、要求する、陳情する、お願いするだけでは限界があるのではないか、障害者自身が政策決定の場に入ることは重要だと感じましたので、3年後に再挑戦させていただき、政治がいい条件に動いたものですから当選させていただきました。
立場としては、障害者の問題を中心に取り組んでおります。当初、障害者のことにかなり限った形で議員活動をしていましたから、専従が議員になったようなものだと陰口もたたかれました。
6年後の95年に残念ながらまた落選しましたが、まだまだやり残したことがあり、99年から2000年は非常に大切な年だと思っていましたので、何としてももう一度挑戦したいと思いました。
私は静岡出身ですので、静岡の選挙区で出ないかという話がありました。私のような立場は、比例区でしか道はないだろうと思っていましたが、選挙民に直接訴える選挙をしてみたいとの思いもありましたので、決断をして静岡に戻りました。
実際に活動を始めると、「障害者に何ができる」「障害者問題は障害者のこと」「福祉のことだけでは」「360万県民の代表としてはだめ」というような声も外野からは聞こえてくるんですね。けれど民主党や労働組合の皆さんなど、経済・金融や外交など障害者問題以外の課題についてもしっかりできると評価をいただけたことはとてもありがたかったですね。結局、党全体の調整の中で私は静岡選挙区ではなく比例区から、ということになりました。
ご承知だと思いますが、参議院比例区はつかみどころのない選挙です。党営選挙ですから、一人ひとりに訴えても当選につながりません。大組織、ネームバリューなどさまざまな要素があって、各党の名簿搭載順位が上位の人から当選するわけです。私はみなさんのご好意で、さまざまなグループから180ほど推薦をいただきましたが、私にはネームバリューもないし、障害者の運動も労働組合に比べたらちっぽけなものですから、苦しい選挙だったわけです。

政治活動と障害者施策

◎県と市に車いす議員誕生

板山

 二つ目の柱は、政治活動と障害者施策について、ご経験の中からお話をおうかがいします。障害をもつ議員としての喜びと悲しみといいますか、障害者のためにという立場で活躍されての喜びと、逆に障害者ゆえの限界といった点についてうかがいたいと思います。障害者だから福祉のことだけをやればいいのではない、地方議員の立場からは、地域の人たちのお世話とか陳情とか、あるいは教育や経済などいろいろなことに目を向けなくてはいけなかった、こういう役割を果たさなくてはいけないこともあったと思います。
また、障害者施策を推進したいと思っても、なかなか思うようにはいかない。議員となって、理想と現実の乖離もおありだと思います。平野さんはいかがですか。

平野

 この2年間で、議員活動はたいへんだという実感をもっています。私をパイプとして県政に関心をもっていこうという方たちも増えてきました。いいか悪いかは別として、直接県庁に電話をすれば分かるようなことまで含めて、よろず相談みたいに、私を通じてというところもありますが。
これからは、政策立案過程や実現した施策あるいは何が問題で実現しなかったのかなど、情報を市民と共有していく必要があると思います。しかし、公職選挙法上許されていない部分があって、ジレンマは感じます。
私の活動をお知らせすることを、多少すれすれのところでも、やっていくしかないと思っています。
メディアの利用や政策ビラ、議会報告の配布への規制緩和など、もっと議員活動を行いやすい方向への道筋を、国会を通じてつくっていただきたいと堀さんにもお願いしたいと思います。

板山

 議会ではどんな委員会に属しているのですか。

平野

 障害者福祉だけでなく、幅広い県政の課題に取り組んでいくつもりですから、基本的にはいろいろな委員会を経験したいと思っています。ただ、介護保険が今の大きな問題であり、今年度は厚生常任委員会に入っております。
特別委員会は環境・地域・交通の三つがありますが、環境に入っています。市民生活の中で障害をもつ立場からも環境の問題の深刻さを感じています。

板山

 これをやりたいけれど、できないと思うことはありますか。

平野

 障害者がどこにどれくらいいて、どういうニーズがあるのか、正確に知りたいです。行政も実態調査はしていますが、たとえば親や施設の職員を通じてはなかなか出てこない、本当の思いに接したいと思っています。プライベートな問題ともからみ難題ですが、そこが分かるような方法を考えてみたいです。

板山

 県下の市町村議員には障害をもった方はおられるんですか。

平野

 私たちは1991年の統一地方選挙のときから熊本市議会に障害者議員を出そうという動きをしてきましたが、91年、95年には残念ながら誕生しませんでした。99年の統一地方選挙で熊本県議会と熊本市議会に同時に車いすの村上博市議が誕生しまして、県と市で連携を取れるところが、とてもいいと思っています。
たとえば道路の問題一つをとっても、県道であったり市道であったりします。最近も盲学校の生徒が通る道の点字ブロックの上にまで、生ゴミ袋が出されていると私のところに相談がきましたが、そこはたまたま市道でしたので、すぐに村上市議に連絡を取り、現在改善されつつあります。
それぞれの市町村に当事者議員が出ていくことによって、生活実感に基づいた障害者施策や地域での具体的な課題の改善点が住民の方の目に見えて展開できますので、やはり当事者議員が政治の場に出てくることが必要だと思います。

◎制度と制度の谷間が問題

板山

 入部さんは、市会議員という立場で、こうしたいけれどこういう限界があることなど、ありましたか。

入部

 たくさんありすぎて(笑)。何から言ったらいいか。限界というか、制度と制度の谷間にいる障害者がいます。その障害者が何か困っていることがあっても、障害者手帳が2級ならできるけれど、3級ではこの制度は利用できないとか、どこを見てものを言っているのということがよくあるんですね。障害者だけではなくて、制度と制度の谷間にいる市民も相談にこられますが、どうしようもないという人がいます。
制度があっても使いようがないというときは、困ったところをフォローするような事業を豊中市がもたないと、末端にはいかないことがしょっちゅうです。国の法律と、障害等級に合わせて制度が成り立っているところを変えないと限界があります。
選挙法でもそうですね。在宅の障害者は本人の字で書かないと投票ができません。投票の権利を奪われている人たちのことをどうして国や市が分かってくれないのだろうとよく思います。

板山

 議員になってよかったと思うこと、うれしかったことはありますか。

入部

 最初は差別的な発言も多く、多少ながらいじめもあるかなと思い、肩ひじを張って背伸びをしていたこともありました。議員の世界は特殊だと聞いていましたが、ここまで閉鎖的だとは思いませんでした。会派や政党を越えて情報を流さない。私は無所属で一人会派ですので、情報がなかなか入ってこないのが一つ困った点でした。どのように情報を入手したらよいのか分からないなど、いろいろと頭を悩ましていたこともありました。
よかったことはと言いますと、一市民であった私が行政の職員と対等に話ができる、これはうれしかったことの一つです。そして、役所内で福祉にかかわる部局が元気になったことです。今まで障害者と言えば、すぐ福祉課というように他の部局は何も考えなかったそうです。それが、私が議会に入ることで、どの部局もそれなりに考えるようになったとか、議会の中でも障害者福祉が各会派から出るようになったと、福祉に携わる職員がうれしそうでした。しかし、それだけ私の責任は大きいと思っています。今では、議員の人たちとも気軽に話ができるようになりました。

板山

 障害者の介護、住宅、教育、就労などの公約は実現できましたか。

入部

 20数年、資料の片隅に追いやられていた「福祉のまちづくり環境整備要綱」の見直しの実現、住宅では、市営の住宅を建築の際には車いす対応型を何か所か設けること、また、単身者でも住めるようになりました。障害者の就労に関しては、別枠採用があります。この別枠採用も運動で勝ち取ってきた経緯がありますが、ここ7年ぐらいは毎年1人ですが、採用されています。昨年5月から知的障害者も嘱託ですが、採用されています。来年度も採用予定です。早く正職での採用をと言っています。民間企業への就労は遅々として進みません。全国でも小規模作業所の数は1、2を争うほど多く、この現状を早く解消しなければいけないと行政には訴えています。

板山

 入部さんが幹事役になられて、障害者議員のネットワークをつくられましたね。連携が具体化されているようですが、どんなことをされたいですか。

入部

 党派を越えて障害者議員が力をもつ、つまりパワーをもつことと、ネットワークをもつこと、議員を増やすことの三つができればと4年前に結成しました。その前に堀さんが考えていらしたのですが、いろいろな事情があって結成には至りませんでした。今は障害者が15人、まわりの人たちを集めたら30人ぐらいいます。

◎90年代は、障害者の政治参加の時代

板山

 堀さんからは『生きざま政治のネットワーク』という著書をいただきましたが、ネットワークづくりへの思いをお話しいただけますか。

 私は89年に議員になって、国際障害者年では障害者の社会参加がテーマでした。そして90年代は障害者の政治参加、議会参加の時代ではないかと気がついたんです。
91年に統一地方選挙が控えていましたので、私が所属している社会党に障害をもっている議員がいらっしゃいましたから、90年でしたか、個々バラバラではなくてネットワークをつくり力を合わせてやろうと、障害をもつ自治体議員ネットワークをつくりました。91年には障害者自身が統一地方選挙に出ようよと、北海道から九州まで私の知っているところを回りました。
そんなところから細々と活動をしてきましたが、社会党関係者だけでなく、もっと広い、党にこだわらないものにしていきたいと、95年1月に大阪で改めて広げてつくろうとしたときに、阪神淡路大震災がありまして、それどころではないとやめました。それで入部さんたちを中心に障害者の政治参加というネットワークがつくられたわけです。

板山

 最近、視覚障害者の議員のネットワークも立ち上げられたそうですが、そのめざすところをどうぞ。

 初の盲導犬で大きく注目されましたけど、統一地方選挙が終わって視覚障害者議員が13人、5人も新人が増えました。昨年5月にJBS主催の障害をもつ議員を集めたシンポジウムがあったんですが、そこに集まった中でネットワークをつくろうよと盛り上がったんですよ。実際にやろうとしたら時間もかかって、8月に地方議員14人と私を入れた15人で「視覚障害者議員ネットワーク」を結成しました。
趣旨は前に紹介しましたけれど、実際に議員をやると、予算書から議案を読むこと、議会活動や市民相談などの日々の活動の一つひとつにベテランでもさまざまな問題が出てきてしまうんです。みんなの経験を寄せ合ってより良い議員活動をめざそう、視覚障害者の政治参加をどんどん進めていこう、というものです。ようやく会報の第1号もできまして、スローペースでも着実にこのネットワークが育っていけばと思っています。

板山

 国会議員活動での喜び、悲しみにはどんなことがありましたか。

 議員としてのやりがいとか喜びというと、まさに目の前で自ら参画して政策決定が進んでいくという実感ですね。93年から95年にかけて21世紀の「基礎」ができたと思っているんですが、障害者基本法、94年には「国における福祉のまちづくり元年」、そして障害者プランや障害保健福祉部ができたということでしょうか。
逆につらいことといえば、障害者運動の要求と議員として決定する政策とがズレを生じることなんです。また93年以降の政界再編・政局がらみの流れの中での私の発言や行動に対して、「お前は障害者の代表だから障害者問題だけやって政治に口を出すな」と障害者関係者から言われてしまうことです。

◎障害者問題には、党派色をもち込まず

板山

 岡村さんは議員を30年お続けになっていますが、みなさんの発言をお聞きになって、どんなご感想をおもちですか。

岡村

 私が主に取り組んできたのは、環境、公害問題です。目だけではなくて、障害者を生むのは環境問題、公害問題があるという視点で取り組んできました。
現在も三和町の公害対策審議会の委員長や、京都府北部中核工業団地の環境検討委員会の委員長をしております。ずっと取り組んできていますので、「環境や公害だったらアイツや。党派を離れてやるし」と言われるようになっています。呼びかければ、保守の人も革新の人も一緒になって一生懸命にやってくれるように変わってきたのが、喜びの一つです。
私が党籍をもったころは、「あそこに頼みに行ったら、選挙のときには頼まれるよ」とささやかれたりしましたが、最近はそういうことはなくなりました。私自身も、障害者運動に党派をもち込んではいけない。関心をもっている人たちが手をつなぐためには、党派を表面に出したり、無理に押しつけてはいけないと思っています。「岡村は別や。彼の思想信条は思想信条だ」ということで、幅が広がってきたと思います。
たとえば、山砂利洗公害反対闘争(昭和45年~51年)では、裁判闘争で完全勝訴しました。また産業廃棄物処理場反対闘争で、京都地方裁判所始まって以来の、千人を超える原告団を組織し和解となりましたが、相当の公害処理施設の充実を勝ち取りました(昭和55年~58年)。
三和町は人口が5千人足らずの小さな町で、いとこ、はとこなど、親戚関係がたくさんあります。選挙では辻説法をすると、「投票するわけにはいかんけれど、あなたの街頭演説をずっと聞いている」と言ってくださる人がいます。投票はできないと言いながらも聞いてくださるのは、たいへんな喜びですね。
天田郡と隣の加佐郡合わせて3町ありますが、よその町で話していますと、視覚障害でずっと独りぼっちの方が手を握って3時間も離さないこともありました。その町は保守系の町長さんですが、私の話をよく聞いてくださいます。
よその町ですから何の政治的影響力をもちませんが、いろいろなことをお願いして、町の広報をテープで聞いていただけるようになったり、またボランティアが苦労されているとお話したら、高速のダビングの機械を買っていただけたりとか、よその町でも話を聞いてくださることに、自分が議員になってよかったと非常に喜びを感じていますね。
以前は白杖をついて立っていても声がかかりませんでしたが、駅前に立っていますと、「どちらへ行かれるのですか」とほとんどの町で声がかかるようになってきました。完全参加と平等がノーマライゼーションに変わり、バリアフリーと言われるようになっています。言葉の空転かと思っていましたが、私だけではなくて、いろいろな方から話を聞いていると、みなさんの取り組みが社会を変えていったのだと実感できてうれしいですね。

◎市町村障害者計画に思うこと

板山

 障害者施策を進めていくときに障害者プランが大切なわけですが、総理府の調査によりますと、障害者計画は99年3月の時点で3250余りの市区町村の49.4パーセントしかつくられていません。今年度中につくるところを入れましても60数パーセントです。障害者基本法の施行から5年経っても、半数の市区町村しか障害者計画を策定していないという現実を踏まえてのご感想をお聞きしたいと思います。特に、熊本県は、障害者計画の策定が全国最低です。市町村で障害者計画をつくったのは昨年3月で6.4パーセント、94市町村の中で六つです。なぜ熊本が低いのでしょうか。

平野

 熊本県は福島知事が3期目ですが、これまで「福祉の福島」であると思っていましたから、この数字に私も驚きました。冷静に考えてみますと、180万の人口で94市町村はちょっと多いようです。全国どこでも条件は一緒ですが、市町村がいま抱えている問題は介護保険ですから、小規模の自治体では福祉担当の職員が1人、もしくは小人数で介護保険に追いまくられているというのが実態です。
もう一つは、熊本県では昨年国体や身障国体が開かれて、かなり労力を割かれたことも大きいと思います。そちらに力を集中せざるを得なかった状態がここ何年か続いていて、そのしわよせがきていることはあると思います。
しかし、率直に言って、市町村でどういうことが行われているか、何がどこまで進んでいるか、県や当事者がしっかりとチェックしてきていないことが問題だろうと思います。そういう意味での当事者の意識もまだ低いと思います。地元の市町村をチェックし、発言していく当事者が少ないのが遅れさせている原因だと実感していますので、熊本市だけではなく、熊本県全体にリーダーが出てくるような仕組みを、私たちもつくっていかなければいけないだろうと考えています。もちろん、機会を通じて行政の動きを確認し、情報を公開していきます。

板山

 岡村さんの町、入部さんの市では計画ができています。ご感想はいかがですか。

岡村

 障害者計画作りにあたって、それぞれの障害者団体からヒヤリングを行ったことは成功だったと思います。策定委員会にも障害者の代表が参加しました。問題は、小さな自治体ですので数値目標まであげることは不可能でした。これは広域化の国府の指導が遅れたことが原因だと思います。
ゴールドプランでは、地域からの保健福祉計画の積み上げが、新ゴールドプランとなりました。ところが、障害者計画はそうしたことになっておりません。あまりに急いで社会福祉基礎構造改革で締めくくられるのは、問題だと思います。

入部

 豊中市の「第2次障害者長期計画」は、2年遅れでようやく策定されました。策定委員会が発足し、障害者団体をほぼ網羅する形で検討されました。なぜ遅れたのかと言いますと、実態調査を委託業者に頼んでいたのですが、委託業者はやはり一般的なことしか並べません。豊中市の実態や理念からすると業者がいくらまとめても追いつかないという現状に職員が気づき、結果的に、自分たちでまとめたこの計画が、全国では類を見ない障害者計画になったのが実情です。豊中市には、私だけでなく障害者の職員が頑張っているのも大きな理由の一つです。計画の特徴ですが、大きな柱としてまず一番に人権の尊重が入っています。ヘルパーの数値目標や雇用率の目標の数値も入り、地域での援助サービスも七つのパターンに分けられています。
この計画を計画だけに終わらせないようにしていくことが、障害者市民にとってのこれからの大きな課題だと思います。私にとっても力を注ぐ大きな課題の一つでもあります。

板山

 障害者計画は全国の市町村で半分しかつくられていませんが、参議院では介護保険でも今回は高齢者対策だから、障害者は一応除く。けれども、介護保険に遜色のないサービスを実現するために障害者計画の策定等に政府、国会としても努力するという附帯決議をしたわけです。その辺について、堀さんはどうお考えですか。

 98年に総理府を質したときに、99年3月、昨年度までに50パーセントを超えると言っていたのですが、発表では届いていないんですよ。人口が数百、数千人の町村では、障害者の数が少ない、財政基盤もない、役所のスタッフの人材も含めて、単独の障害者計画を策定するのはむずかしいのは確かだと思います。
ただ、介護保険も含めて、これからの福祉は自分が住んでいる市町村が主軸ですから、ここが空洞化したままでは福祉を語れません。障害者プランをつくるときに、厚生省の組織を見ると、障害別に3局3課に分かれていました。これから福祉が市町村に分権化するのに、頭が三つに分かれていてはどうにもならない、障害者の福祉局をつくるべきだと国会でも取り上げて、障害保健福祉部でまとまったわけです。
さらに、町村レベルの規模の小さいところですと、場合によっては高齢者の福祉とのドッキング、基盤整備も重ねたところで考えていかないとできないだろうと思っています。障害者福祉をどういう形で高齢者と接点をもたせていくのか。高齢者と障害者はまた違ったニーズがありますから、どういうふうに分けながら、単独で充実させるかがむずかしいところだと思います。

板山

 介護保険は平成12年、今年4月から施行されますが、早ければ3年経ったら保険料その他を見直すと言っていまして、5年後の平成17年には制度的な見直しがなされます。
いまは15の病気以外ではダメだと言っていますが、見直しの時には障害者もすべて40歳以上、保険料を納めると同時にサービスも受けられるようになる。40歳以上という条件はおそらく20歳以上に引き下げられるだろうと思います。そうしなければ保険がもたないわけです。
そのときに備えて、ぜひ4人の議員さんもそれぞれのお立場で障害者計画を市町村につくらせるような、障害者にも遜色のない介護サービスが及ぶようにご努力をいただきたいと思います。

21世紀の展望と課題

板山

 三つ目の大きな柱は、21世紀も目前に迫っていますが、新しい時代への障害者施策を推進していくうえで、議員の立場でどのような課題と決意をもっていらっしゃるかについてです。
21世紀にはこんなことに挑戦してみたいとか、こんなテーマを主題にしたいなど、一言ずついただけたらと思います。岡村さん、いかがですか。

岡村

 障害者組織の中では、我々は自らが自立をめざして戦う、立ち上がるというリハビリテーションの理念を絶対に忘れてはいけないとずっと言い続けております。行政には、我々が平等に参加できるノーマライゼーションの理念を忘れてもらっては困ると言っています。
三和町では、社会福祉とか社会保障とかは慈善ではない、福祉なのだ。だから対象者が主体でなければならない、客体になってはならないということが、言葉のうえではようやく出てくるようになりました。
21世紀は、名実ともに障害者が主体になる障害者施策が講じられるように、ほんとに小さな町の中ですが、一生懸命にがんばりたいと思います。

板山

 障害者自身はリハビリテーションの理念を忘れるな。自助努力と自立を。行政はノーマライゼーションの理念を忘れるな。平等の機会づくり、バリアフリーを。しかも、それを障害者が主体となって進める。21世紀は、言葉だけではなく、名実ともにそうしていきたい。いいお話をありがとうございました。入部さん、どうでしょうか。

入部

 豊中市は、財源がものすごく厳しくて、もうじき赤字再建団体になると言われていまして、12月議会でもいろいろな事業の見直しをして施設の使用料の値上げが決まりました。ですから、豊中市が21世紀を見込んで、新しいものをつくるとか提供することは多分できないだろうと思います。
そこで一番問題になるのは、福祉予算が切られることです。人件費がものすごくかかるので、民間委託になる恐れがあります。それをどこまで食い止められるか、民間になっても人権を損ねないようなシステムをどういうふうに行政につくらせていくのかが課題になっています。
今までは、豊中市はかなりお金をもっていて、できることはすべてやってきたと思います。福祉にかかわる行政マンも、ノーマライゼーション、リハビリテーション、バリアフリーとかを必ず意識して話をするので、意識は高いと思います。これからもその意識を継続していくような施策などに対して文句を言っていこうかと思っています。

板山

 豊中市はいろいろな意味でかなりのレベルに到達していますから、新しいことというよりは、今までの基盤、実績を後退させないような努力をしていただきたいと思います。熊本県では、21世紀に向けて障害者計画をどうつくっていきますか。

平野

 国体等で疲弊したことも関係あると思います。熊本県も平成13年度に赤字再建団体になるかもしれないという厳しい状況です。その中で、障害者プラン最下位という汚名を返上して、福祉社会熊本をつくるにはどうしたらいいかですが、これからは障害をもっている当事者も市民だという意識をもって、県や市町村の財政を読み取る力をもっていく必要があると思います。
そして、それぞれの市町村が福祉をどういう位置づけで考えているか、福祉予算が実際に当事者の利益やサービスとして跳ね返っているかどうかも、きちんと検証していく必要があります。
当事者が責任ある市民としての意識をつけていくことによって、予算を組むときにもまわりに対して説得力が出てきます。たとえばバリアフリーを推進していくことは当事者だけではなくて、いろいろな方たちに利益が出てきているわけですから、そういった戦略的な力をつけていく必要があると思います。そのために必要な情報は、議員としての調査権をフルに活用し、県民のみなさんと共有していきたいと思います。
WHOも“Participation”という言葉を使っていますが、21世紀は「参画」をいかに実現するかだと思います。本当に参画できるような条件整備に市町村が責任をもって取り組む、そして熊本県としては市町村の取り組みの足並みをしっかりと見ていく必要があると思います。
措置から契約へという流れが見えてきてはいますが、現実はまだまだ当事者がつらい思いをしている場面がたくさんあります。それを、一つひとつ解決していくことも議員としての仕事だと思います。何度も言いますが、当事者があらゆる意味での力をつけていくことができる仕組みづくりに、取り組んでいきたいと思っています。

板山

 最後に堀さんお願いいたします。

 私は、障害者にとっての20世紀は2002年までで、21世紀は2003年から始まると思っています。2002年が、新長期計画、障害者プラン、国連アジア障害者の十年が終わる年だからです。
2002年にRNNのキャンペーン会議が日本で行われることが決定しました。同じ年にDPIの世界会議が札幌で開かれることも決まっています。ということで、私たちにとっての大イベント、あらゆる計画プランが2002年に終わります。どう充実感をもって2002年を迎えるかが、どんな21世紀をつくっていくかにつながっている気がします。同時に、国連の障害者の機会均等化に関する標準規則、これはモニタリングが終わるわけですが、この動きの中でも2002年が障害者の権利条約に向けて一つのターゲットになっています。
大局的にいろいろな問題が2002年に集約されると思っていますから、ここを私なりに国政の場でがんばりたいと決意しています。
また、厚生省の方向では2003年に措置から契約になるわけですから、障害者自身が一人ひとり強くなっていかなくてはならない。すべての市町村で障害者計画をつくっていかなくてはならないし、国レベル、国際レベル、住んでいる地域でどう戦うか、まさに大きな山場だと思います。これをみんなの力で乗り越えていきたいと思っています。

板山

 今日は、中身の濃いお話をありがとうございました。西暦2000年は20世紀の最後の年、ミレニアムという言葉もありますが、新しい千年がすばらしい年になるよう、新しい21世紀に向けて飛躍する年になってほしいですね。
21世紀は2003年からだというお話もございましたが、みなさんがそれぞれのお立場で、引き続き議員活動を通して、地域の障害者の人たちのリハビリテーションやノーマライゼーション、バリアフリーといったものの前進、向上に力を注いでくださることをお願いしまして、座談会を終わらせていただきます。ありがとうございました。

(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
2000年1月号(第20巻 通巻222号)