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文学に見る障害者像 45

能「隅田川」

數川悟

 東京都墨田区堤道あたり。現在は、高層住宅が連なっている。隅田川は今日も滔々と流れ、時に筏を引く伝馬船が行き、観光船も走る。堤防はコンクリート護岸がしっかりとなされ、整備された遊歩道の最上段、高速道路の下には青いビニールシートで覆った箱形の物が並んでいる。一見、資材置場と見えるが、近寄ってみると、そろえて脱いだ靴があり、ラジオの音が聞こえたりする。段ボールハウスが立ち並んでいるのである。
 千年前のことである。1人の女が、京からここにさまよい至る。武蔵国と下総国の間、当時ここは、京の者にとっては、東国の果て、いわば辺境であった。
 女は、一人息子を「人商人に拐はされて」、尋ね尋ねてここまで来たのであった。渡船場の渡し守は、「面白う狂うて見せ候え」、狂わなければ乗せてやらないという。
 能でいう狂いとは、精神病ではなく、舞い踊り、つまり芸能のこととされる。「舞い狂う」感興の極に、いわば神懸かりの状態にまでなるのである。手に持つ笹(狂い笹)は能の物狂いの象徴であるが、神がそれにより、舞い踊らせるための印、すなわち幣帛の変種と見るのが通説である。そうはいっても、「物狂い」たちは皆、子を失い、あるいは恋する人に別れた苦嘆をもつ。この主人公も平常の状態であったとは考えにくい。夫に先立たれ、その上愛児の誘拐という強大な心理的ストレスを体験したのである。外傷後ストレス障害(PTSD)か混合性不安抑うつ反応(適応障害)といった精神障害(文献1)が生じていたと考えてよかろう。そういう事情が女の舞をいっそう「狂おしい」ものにもしたであろう。

名にし負はばいざ言問はん都鳥
我が思ふ人はありやなしやと

 女は、伊勢物語の在原業平の歌をひき、川の上を飛んでいる白い鳥の名を問う。
 渡し守は「沖の鴎」と答える。なぜ「都鳥」と言わぬかと迫られて、絶句する。舞わねば乗せないなどと揶揄していた渡し守は、女の教養に負かされ、しかし、

かかる優しき狂女こそ候わね

と、乗船させる。無粋でも、理解はよいのだ。人と人との実に率直な交流とみえる。
 船中では、対岸の大勢の人の集まりに気付いた1人の乗客の問いから、渡し守の語りが始まる。1年前のまさに今日、人買いに連れられた梅若丸という12歳の少年が、病に倒れ、ここに捨てられ、ついに死亡したのだという。その後を弔う大念仏が、あの集まりなのだという。女には、物語を聞くうちに、すべてが分かってしまったであろう。

さてその稚児の年は
主の名は
父の名字は
さてその後は親とても尋ねず
まして母とても尋ねずよなう

 たたみ掛けて尋ねる女の問いは破局の確認に過ぎなかった。愛児はすでにこの世になかった。それも1年も前に。

その幼き者こそ。この物狂が尋ぬる子にてはさむらへとよ。なうこれは夢かやあら浅ましや候

 はるばる京から女をいざない、支えてきた子との再会への期待と希望は、無残に打ち砕かれる。
 対岸に着いて、乗船客も渡し守も、大念仏に加わる。と、念仏の合唱に、なんと子どもの声が混じって聞こえる。幻聴ではない。母も、渡し守も、乗客たちも村人も、そして観客も皆その声を聞く。

なうなう今の念仏の中に。正しく我が子の声の聞こえ候
我等もさやうに聞きて候

 「隅田川」は、高校の古文の教材にもされ、能としては最もポピュラーな曲かもしれない。作者は、世阿弥の長男観世十郎元雅(?~1432)である。終幕で子方(すなわち、今は亡き梅若丸)を舞台に登場させるかどうかという世阿弥、元雅父子の演出をめぐる議論も有名である。そしてこの元雅が、父に先立って早逝した事実も、あるいはこの能の悲劇性を高めているかもしれない。
 能は、弥生三月の未明、ようやく白み始める東の空、広がる下総の荒野、梅若丸の眠る塚の草、川のほとりに茫然と立ち尽くす母を描いて終わる。まさしく悲劇である。たとえば、「どこにも救済のない、遣りきれぬような曲である」といった言い方(文献2)もされるのである。
 だが、そうであろうか。救済はないのであろうか。何百年も能役者をして演じ続けさせ、観客を感動させてきたのは、至上の悲劇性のゆえだけだろうか。この悲劇を悲劇ととらえる「共感性」こそが、この名作、名曲を支えてきたのではないだろうか。
 村田氏(文献3)は、ノーマライゼーションヘのプロセスに「連続性」と「共存性」というキーワードを用いていることを述べている。
 疾患・障害が「他人事ではない、明日はわが身」という連続性の延長線上に、「だからこそ、ともに生きる」という共存性の理念が生じてくる基盤があるとする。
 中世、子どもが誘拐され使役されることは、この梅若丸だけでなく「山椒太夫」の物語などが伝えているように、しばしば起こった出来事である。梅若丸の母の悲惨はまさに当時の、子をもつ親にとって「明日はわが身」であったであろう。そして、母に念仏に加わるよう勧める渡し守、そもそも血縁も地縁もない死者のために法要を営む村人の行為は、災危に遭遇した母の痛苦、少年の受難への率直な共感の発露そのものではないか。それは、自分もそうなるかもしれないからといういわば消極的な想像だけではなく、相手の身になって感じる、直観的な共苦からではなかったろうか。「身になって考える、身になって思う」共感性が、この悲劇に、それを演じる役者に、そして、見る観客に通低音のように流れているのではなかろうか。
 悲嘆の極で1曲の能は終わるが、「東雲の空も。ほのぼのと明け行」くのは、突如、一人子を奪われ、地の果てに失った母の喪の仕事、その受難とそれによる精神障害からの再起を、おぼろながらに示しているように思われる。それを支えたのが大念仏を催す、隅田川畔に暮らす人々の連続性、共感性、共存性であったのである。
 隅田川の西岸、台東区橋場1丁目の小さな公園には、梅若丸の母のものと伝えられる妙亀塚がある。

(かずかわさとる 富山県心の健康センター)


〈引用文献〉
1.融道男、中根允文、小見山実(監訳)『ICD-10 精神および行動の障害』医学書院、1993
2.林望『林望が能を読む』青土社、1994
3.村田信男『地域精神保健-メンタルヘルスとリハビリテーション』医学書院、1993
4.観世左近『隅田川』檜書店、1990(能の詞章は文献4による)