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熊本
ヒューマンネットワーク・熊本

山下紘史

ヒューマンの設立とネットワーク化

 熊本に障害者の自立センターが産声を上げたのは、今から8年前の1991年12月のことです。
 ある福祉ホームの管理人による入所者の預かり金使い込み事件(りんどう荘事件)がきっかけとなり、その事件を問い直すシンポジウムに集まってきた人たちが中心になって、障害者自立支援センター「ヒューマンネットワーク・熊本」(以下、ヒューマンという)として誕生しました。
 当時の熊本はどの地域にも見られるように、重度の障害者と軽度の障害者が一緒に活動する接点が少なく、それぞれがバラバラに活動していました。そのシンポジウムに集まった人たちは、障害の軽重だけでなく、親の会の人たちや福祉・医療・教育関係者などさまざまな立場の当事者が集まり、それはこれまでの流れを越えて、障害の垣根を取り払うまたとない機会でした。
 最初の構想は、障害当事者による相談事業(福祉110番)を立ち上げたいという思いから始まりました。しかしそれは次第に、今までにない新しい組織をつくりたいという思いに膨らみ、そのころ首都圏を中心につくられ始めていた「自立生活センター」の設立へと気運が盛り上がっていきました。
 設立に関しては二つの思いが大切にされました。一つは、重度の障害をもつ仲間たちへの具体的な自立支援活動をしたいという思い。そしてもう一つが、障害の枠を越えた新しいネットワーク化をめざすというものでした。そこでその二つの思いが名前につけられ、ある支援者の病院の一室を借りて最初の一歩がスタートしました。
 現在のヒューマンの組織は会員数450人あまり、事務局として直接、間接的にかかわっている人数は、有給職員1人(健常者)を含む総勢20人あまりがそれぞれのスタンスで自由に事務所に出入りしています。

活動の変遷と特色

 これまでの活動には三つの節目と特色があったように思います。最初の時期は、間借りの病院の一室で、電話相談を細々と開きながらシンポジウムやイベントといった社会活動を企画し、「ふれあいキャラバン(小学校を中心に子どもたちに車いす体験や介助の方法、福祉の話などを行うプログラム)」などの啓発活動を行いながら支援者を広げていった時期です。次のステップとしては、いよいよ自前の事務所を構え、仲間たちが日常的に集まり始める中での介助の問題やピアカウンセリング、自立生活プログラム、送迎サービス、あるいは働く場として小規模作業所(サラダくらぶ)の設立などといった、より具体的な障害当事者へのサービスを行い始めた時期です。そして、その二つの活動をさらに社会的に根付かせていくための働きかけの具体的な活動が現在へと続いています。

ヒューマンの先駆的活動

 そのような活動の中で、現在のヒューマンや熊本の動きを特徴づけるものをいくつか紹介します。
 まずは、先駆的な活動として日本で初めてのノンステップの路面電車を導入させたり、街や建物のバリアフリー化を推進するために「バリアフリーデザイン大賞」を制定し、評価することによってその動きを加速させる働きかけを行っていること。いま一つは、ヒューマンの設立に先立って起こっていた福祉の当事者を政策決定の場へ送り出す「車いすを市議会へ!」という活動が現実のものとなり、現在、事務局員の中に県議会議員と市議会議員(共に車いす)の2人の議員を抱えていること。そして最後が、先の活動の中で触れた「ふれあいキャラバン」が、現在では子どもたちの枠を越えて企業研修や公務員研修まで広がり、年間100回近くまで成長しています。
 このように障害当事者が福祉の担い手となり、福祉のさまざまな場面でリーダーシップを取り始めているのが私たちの誇りでもあります。これまで公的な助成もない中、会費など手弁当での活動によって行われてきたヒューマンの活動が、現実の福祉そのものを引っ張ってきたことを考えると、この8年間の個々人の動きが、いかにイキイキとしたものであったかがうかがえると思います。しかし将来のヒューマンのことを考える時、この手づくりのボランティア的な運営やかかわりが、一つの限界を感じさせるものと言えなくもありません。
 今後のヒューマンは、組織としての自立を果たすための財政的な基盤づくりと、安定したサービスや社会活動を行っていくための専従体制による組織化の課題を残しています。

(やましたこうじ ヒューマンネットワーク・熊本)