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文学にみる障害者像 46

ビクトル・ユーゴー著
『巴里ノートル・ダム寺院』

中島虎彦

 この小説は通称「ノートルダムのせむし男」と呼ばれているが、原題は『Notre Dame de Paris』(パリ ノートル・ダム)となっている。どうしてそういう通称が定着したのかは分からない。出版社の売らんがための「映画邦題」のようなものだったのだろうか。
 私はこれを、産業革命による安い労働力として子どものとき酷使されたためせむしとなった浮浪者の話、と長らく思いこんでいた。しかし『レ・ミゼラブル』などヒューマニズムの巨匠ユーゴーによって書かれたのは1831年だが、小説の舞台になっているのは1482年のパリである。
 当時のフランスはルイ十一世の治世で、宗教改革やルネサンス以前の爛熟・退廃したキリスト教会の下、魔女や練金術というような言葉が生きていた時代であった。

 主人公がクァッモド祭(復活祭の次の日曜)の朝、ノートルダム寺院の入り口に捨てられているのを見つけた通行人たちは、「出来損じの狒狒だわ」「この小つちやな悪魔を板なんかより焚火の上に置くほうがいいだろうと思いますがね」などと語りあう。その赤ん坊は片眼、駝背、跛足であった。駱駝の瘤のようだから「駝背」という字があてられているが、「背虫」や「傴僂病」とも書かれている。背虫が寄生して起こるという迷信からきている。「傴僂病」とは日光とビタミンDの不足から起こる骨軟化症ともいう。それゆえイギリスの話と勘違いしたのである。ずいぶん昔からあったらしい。
 さて、捨て子は寺院の牧師フロロに拾われ、クァッモドと名づけられ厳しく温かく養育されるうち、絶対の恭順を示すようになる。物心ついた頃から寺院のさまざまな「鐘を愛し、鐘を撫ぜ、鐘と語り、鐘を解し」ついには鐘をつくことを天職とわきまえるようになるが、その直下の大音量のため16歳の頃には耳も聞こえなくなり、身ぶり手ぶりで会話しなければならなかった。
 街の住民からは「赤つちやけた髪におおわれた頭、瘤の隆起した肩、並外れて曲つて、ただ膝の処で触れる丈の、丁度正面から見ると、草刈鎌を二挺柄のところで結んだやうな股と脚、奇妙な化け物のやうな手(中略)それは破壊されて又不器用に修繕された巨人のやうに見えた。(中略)幾分か不平の種を持つて居ない人は、恐らく一人もないであらう」と毛嫌いされていた。そのため、彼のほうもいつしか「漸次成長するに従って、自分の周囲には憎悪以外の何物もないことを悟った(中略)そして結局、彼は心ならずも、人間に背を向けたのである」。
 そんな彼も道化の記念祭に、裁判所で行われる劇の開始が遅れ、見物人たちの騒動が起きたとき、道化の行列の法王役に祭り上げられて「かつて享楽したことのない自己愛着の感じ(中略)聾ではあるけれど彼は真の法王のやうに嬉しかつた」。しかし、フロロにたちまち連れ戻されたりする。
 劇の作者で宿なし詩人のグランゴアルは逃げ出し、路地裏の「奇跡の広場」(みぢめな胴、人間の顔をした爬虫類のやうなもの、跛足、松葉杖と木の義足、盲人、それに片手の男、片眼の男、爛れた癩病の男、乞食、ジプシー、破戒僧、放埒な学生、各国のやくざ者、ならず者、強盗、淫売などのたまり場)へ迷い込み、私刑に遭うところを、ボヘミア人のジプシーの舞姫エスメラルダに救われる。
 このように数多くの障害者が出てくるが、「胴の男は自分の足ですつくと突つ立ち、盲人は燃えるやうな巨眼を瞠つて、グランゴァルの顔をぢつと睨んだ」とあるように、身過ぎ世過ぎのための偽物も混じって、路地裏のしたたかさはボッシュやブリューゲルの絵を連想させる。
 ヒロインのエスメラルダはさらわれた娘で、男に触れてはいけないという護符を首にかけている。絶世の美女で「殊に踊り、足には眼に見えぬ翼を持つて渦巻きの中に何時までも住んでいる蜂のやうなもの」と畏怖されていた。天使のような心でクァッモドの危機を救ったりもするが、住民からは「子供を盗んだり、財布を取ったり、人肉を食ったりする」「魔法も疑ふ余地がない」と噂されていた。

 一方、フロロは信仰一途な勉学者だったが、エスメラルダをひと目見たときから横恋慕し、クァッモドに命じて誘拐しようとするが、騎馬の士官に阻まれる。救ってくれたフェッビュをエスメラルダは恋い慕うが、裏切られる。のみならずその後もフロロの執拗なストーカーぶりに悩まされる。フロロは嫉妬のあまりフェッビュを切りつける。その傷害の犯人と濡れ衣を着せられたエスメラルダが絞刑になりそうなところへ、ついに我らがクァッモドが立ちはだかる。
 「彼は忽ち廊下の欄干をするするとすべり下りて、(中略)いきなり助手2人に駆け寄ると見る間に、大きな拳を固めて撲り倒し、子供が人形を抱く恰好で、矢庭に女を片手に引つ抱へながら一躍して寺院に飛び込んだ。『聖場!』と、彼は女を頭上高く捧げながら雷のやうな声を挙げて叫んだ」
 全篇中、思わず喝釆をあげたくなるところだ。当時のノートルダムは「寺院内にあつては、死刑囚をも犯すことが出来ないのである。寺院は一種の避難所と認められて居た。凡て一時的、人間的の裁断は、寺院の閾を越えると同時に、その権力を失ふ」とされていた。日本でいう「駆け込み寺」のようなものであろう。そこで2人のはかない蜜月が始まるが、彼の異形のためエスメラルダはなかなか受け入れきれず、クァッモドの苦悩が始まる。
 「今程、俺も俺の不具を知つたことはねえ。お前様と比べて見ると、俺といふ人間は何といふ、可哀さうな者だか、情ねえ化物だ! お前様、俺を見て獣だと思つただろう。言つて貰ひてえ、お前様はお日様だ、露だ、小鳥の唄だ。それに俺は、何か人間でねえ、恐ろしい物だ」
 あまりのギャップのため恋情を抱くことさえはばかられるという、このせめぎあいは後世の「美女と野獣」などの元型となっていく。
 しかし高等裁判所は、特例としてエスメラルダを逮捕して絞刑にするというので、浮浪者仲間たちが大挙して救いに押しかける。そのため国王が鎮圧命令を出す。そこへ再びフロロが現われ「絞台か、俺か、どちらかを選べ」と迫るが、それを放蕩者の弟ジウアンが金もうけのため横取りしたりと、話は二転三転していく。
 「誰かが女を盗み出したとクァッモドが気付いて(中略)彼は狂つたやうに寝床の上に身を投げ掛けて、まだ暖かみの残つて居るエスメラルダの眠つた場所に烈しく接吻して、その上を転がり回つた」というあたりは、最も哀れさを誘う。結局、エスメラルダは理不尽な運命に疲れて捕まり処刑される。クァッモドは行方をくらますが、「事件から1年半か2年くらいも経つた頃(中略)洞穴を探つたが、その時に、多くの不気味な首に交つて、相抱いて居る2個の骸骨があつた」と、どこまでも理不尽な終わり方である。
 前半は難解さと博識ぶりで読みづらいが、後半はストーリー展開に慌ただしく、安っぽい読み物になってしまっている。むしろ、フロロの狂気じみたストーカーぶりが現代性を示唆している。解説は「クァッモドが舞姫エスメラルダに対する至純の愛」「ユーゴーはこの不具な体に崇高至純な魂を吹き込んだ」と、ロマンチシズムやヒューマニティをあげつらっているが、障害者への眼差しは、19世紀ヨーロッパ人の限界として酷薄である。

(なかじまとらひこ 自営業)

【引用文献】
 ビクトル・ユーゴー全集第5巻、冬夏社内ユーゴー全集刊行会、1920