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ケアについての一考察 第4回

支え、支えられる立場から
-精神障害者のホームヘルプについて-

加藤真規子

 私自身、発病してから30年の歳月がたつ。病名は非定型精神病だが、私自身が一番ピッタリくる病名は神経衰弱だ。
 「顔」。隠すことのできない顔にいっぱいウミをもったニキビが広がったのが中学生。それまでも「出っ歯」で悩んできたものだからすっかりまいってしまった。同級生のいじめはすさまじかった。「汚い!」「みにくい!」「お化け!」。小学生の時は、成績が優秀で、いつも級長だったから、いじめは押さえることができたが、中学生になると平凡な成績だったので、都会の中学生の恰好のえじきになった。私はつい最近まで、中学生に出会うと、避けて通った。
 10年間自閉して、薄皮がはがれるように元気になり、大検を受けて進学し、社会人となり、結婚し、離婚、仕事をやり続け、再び大学院に進学し…。そう、私は元気であり続けた。「元気な仲間」の周囲には、豊かな「人間関係」が必ずある。私も人にはたいへん恵まれてきた。
 再発したのは、5年前の阪神・淡路大震災の年だった。私は完全に「女らしさ」の病に陥っていた。最大の原因は、子ども時代から言われてきた「怒り方を覚えてこなかったんだね」という言葉どおりの「怒らない生き方」が底をついた。辛い3年間だったが、底をつけば、あとは少しずつ浮上してくるものだ。
 私は現在、セルフ・ヘルプ活動や障害者運動をしているが、率直に言ってかなり仲間から傷つけられもしてきた。それは彼らが人間関係から疎外されていたり、自分のことで精一杯であるからなのだろうが、「正直」という名のもとに、人が嫌がることを明らさまに言ったり、したりすることを見せつけられてきた。「傷つきやすい」ためにくる緊張感は伝染し、疲れることもある。しかし、私は、他にも進む道はあったのに、この20年、今日の私に出会うために、コツコツと生きてきたのだから、仲間の魅力はとても大きかったのだろう。
 20年近く前、共同住居で暮らしていた頃は、デイケアや作業所がほとんどない時代だった。みんな手さぐりで、就職し、住居をみつけ、生活の仕方も覚えていった。K市で一緒に二つの作業所をつくった仲間たちは、行政の福祉サービスや治療機関の可能性も限界もよく知っていた。
 本格的にオルタナティブ「ハピネス野川」や「全精連」にかかわってからは、嫌な面もお互いに見せあったが、みんなで助けあって、たくましく、朗らかに、時々あっけらかんとけんかしながら生きていくことを教えてもらった。精神障害者は、「こわい人」「弱い人」というより、どちらかというと落語の「熊さん」「八さん」に近い。「みんな違って、みんないい」という「おでんの味」をお互いに醸し出している。ていねいに付き合えば元気になっていく率がぐっと上がることは確実だ。
 身辺介護、家事援助、話し相手というホームヘルプの役割をみると、一番行政が認めていない「話し相手」「安心感の送り手」という役割が、実はキーワードだ。次が家事援助だ。身辺介護は、高齢者や身体障害者とは違い、一方的にしてあげるのではなく、他の病を併発した時には、みんなで看病したり、病院に同行したり、同性ならば一緒に銭湯に行くこともある。
 私たちは日本の福祉や医療のマンパワーが少ないことをよく知っている。これが当たり前だとして、ホームヘルプも安い人件費で、多くのニーズをこなそうとすると、基本的な「安心できる人間関係」が利用する人・支える人の双方につくれず、効果が上がらないのではないかと危惧している。またこの頃よく聞く「障害者の方の言うとおり」と何でも受容しようとする関係も、嘘であり、無理な関係だと思う。支える人にも「ポリシー」がほしい。そしてこの20年間、私は専門職と呼ばれる人の中に、その人自身の中の「トラウマ」を見つめることができず、利用者との「共依存」に陥る人を少なからず見てきた。「共依存」は利用者の生きる力を奪っていくものであり、戒めてほしい。
 利用する側としては安く、支える側としては安心してこの仕事に専心できるだけの給料を保証できる予算を、自治体は確保してほしい。障害者がそうありたいように、支える側にもさまざまな人々と付き合い、さまざまな経験をしてきた幅の広い人間性を望みたい。そして、支える人もリフレッシュできる場をもっていてほしい。利用する人も、支える人も、「限界」と「可能性」を明示しあって、「契約」していく力を身につけたい。

(かとうまきこ 全国精神障害者団体連合会事務局長)