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文学に見る障害者像 48

トーマス・ベルンハルト著
『ボリスの祝宴』

-小さな宇宙(ミクロ・コスモス)の罠-

高橋くみこ

 ウィーン北駅を降りると、そこからは、プラター公園がドナウの流れに従って広がっており、ここに、映画『第三の男』によって日本でも早くから知られる大観覧車はあります。オーストリアを嫌悪し、他方この国からは愛された作家トーマス・ベルンハルトの作品のイメージを、この大観覧車に重ねる人は少なくありません。空に一定の円を描いてロマンティックに回り続ける観覧車。それは、外から眺めたり時々乗ってみたりするのには確かに魅力的な乗り物でしょう。けれども、もしも、延々と際限もなくこれに乗り続けることになるとしたらどうでしょうか。
 『ボリスの祝宴』は、ベルンハルトの最初の本格的な舞台脚本であり、1970年、ドイツのハンブルクで初演されました。今からちょうど30年前のことです。
 主人公の善女はかつての事故で、夫と、そして両脚を失っており、それ以来付き添いの仕事をする女性と共に暮らしてきました(厳密には、この言い方は少し違います。主人公の気分を正確に描写すると、こうなります。善女は、付き添いの召使いを雇い、家に住まわせて自分の世話をさせながら暮らしてきました)。この3年ほどは、ヨハンナという女性がこの仕事に就いています。善女は、近くの施設から、まだ若いボリスを「夫」として「引き取って」います。そして、火曜日に当たるボリスの誕生日に、彼女は、その施設から13人の障害者を招いてお祝いのパーティーを開くのです。
 この戯曲の登場人物は、そのほとんどが身体障害者です。善女、ボリス、そしてパーティーに招かれた13人の障害者たちはみな、両脚を失うという経験をしています。ヨハンナ、施設の看護人2人、及びパーティーの給仕をする2人の召使いは身体的障害をもちませんが、この5人の中で主要な登場人物と言えるのはヨハンナだけです。
 『ボリスの祝宴』がそうであるように、障害者が重要な役柄で登場してくる文学作品はそれほど珍しいわけではありません。けれどもこの作品は、障害者を描いたものとしては、少なくとも現在のところは異色であると言えます。ここでは、主人公善女が身体障害者であることについて、作者が幸不幸の判断をすることはありません。また、彼女が障害者であることやその障害の種類に、特別な社会的・精神的意味が担わされることもありません。世に逆境は数多あり、それぞれの内容は、社会的なもの、経済的なものから私的な心の問題にいたるまで一様ではありません。彼女が人生の半ばで両脚を失ったというそのこと自体は、障害に限らない、こうしたさまざまな「通常の」逆境の一つとして描かれます(「逆境」という言葉については、この作品においてそのようなとらえ方がなされている、ということですから、ここでは議論を避けます)。主人公は、逆境を生き延びようとする者の、一つの不幸な典型をみせていきます。
 彼女は、最初の夫と両脚を失って以来、自分が社会的に無価値になったように感じています。自らの社会的価値を確認しようとするかのように、意見書を書いたり、慈善パーティーに出席したりしますが、結局、注目されることはありません。彼女は、自分を中心にして思い通りに人を配置した状態をつくり、それを支配しようとします。都合よく作り上げた自分のための世界へと入り込んでいくのです。これから生きていく新しい世界を、自らが言わば創造主となって形作ろうとしたところに、彼女の不幸はあります。
 この作品において、固有名詞で表記されるのは、基本的に、ボリスとヨハンナの2人だけです。主人公は「善女」、他の登場人物は、「障害者」「看護人」「召使い」と表記されます。登場人物のこうした呼び方は、主人公の住まいする小さな宇宙において、それぞれの人物が彼女にとってどのような存在であるのかを表していると考えられます。彼女の宇宙において彼女が意図するのは、「善女」という名が暗示しているように、慈善に生きることです。ドイツ語でdie Guteというこの呼び名は、どこかしらお伽ばなしめいて、また、いわゆるゴッド・マザー的ニュアンスをもちます。パーティーに招いた13人の障害者たちは、彼女にとって、あくまでも慈善の対象として存在意義をもつわけですから、固有の名は不要です。看護人と召使いも、彼女の世界を成り立たせるための仕事をする存在以上のものではないので、名前はありません。一方、やはり慈善の対象ではあっても、彼女によって夫として「選ばれた」ボリスには名前があります。ところで、この文脈でいけば名前は必要ないことになりそうなヨハンナですが、彼女はこの「ヨハンナ」というれっきとした名前をもって描かれています。善女には、彼女の力を無視しきれない忌々しい理由があるのです。善女は、ボリスの生活を一応は支配しており、ボリスが彼女に逆らうことは全くありません。けれども、こうして表面的には完全に彼を支配していても、その心まで支配することが善女にはできていません。ボリスは、善女ではなくヨハンナを頼り、呼ぶのはいつもヨハンナの名前です。ヨハンナは善女が築き上げたはずの理想的世界を脅かす存在、というわけです。
 火曜日に、善女はボリスの誕生パーティーを主催します(ちなみに、火曜日Dienstagは、奉仕Dienstと発音が似ています)。ボリスは贈られたティンパニーを何度も鳴らし、パーティーは順調に進みますが、パーティーがお開きになろうかという頃、突然異変が起きます。だれも気づかぬうちに、ボリスが死んでいたのです。善女は、自らが調えた世界を、支配者として楽しんでいました。そこでは常に、彼女の考えにあることだけが起きるはずでした。それなのに、彼女の予想や意図に反して、何の断りもなくボリスは死んでしまったのです。ボリスにはボリスの命があり、それはだれかの力の及ぶところではありません。この単純な事実によって、善女の作り上げた世界は、急に終わってしまいました。彼女はしばらく沈黙します。が、それから突如として高笑いを始め、ここで幕が下ります。予定外、予想外のこの現実を彼女は拒み、したがってショックを受けることも、悲しむことも、拒みます。このとき、自分自身の内なる世界と向き合う機会は一瞬の泡のように消えてしまい、彼女がこれからもまた、自らの価値を外に求めながら同じような繰り返しをしていくであろうことが暗示されます。この笑いによって、観る者は、幕が下りると同時に終わるはずだった物語が、また前と同じようにして始まってしまったことを知るのです。
 心が、すべてが、崩れそうに感じられるときはだれの人生にも多分あるのでしょう(体験というのは、そこから学び合うことはできても、それ自体を交換し合える性質のものではありませんから、悲しみの量を比較するのは難しいことです)。善女はこのようなときに、慈善を志しました。動機が何であれ、それによって新しい喜びの在処を知ることができたなら、以前は知らなかった新しい世界を受け取ることができたなら、彼女は自分では意識しない間に逆境を脱するという経験をしたことでしょう。けれども、『ボリスの祝宴』において、自らの手で他者を「用いて」新しい世界を作り上げようとした善女の行為は、幕が下りるまで(そして幕が下りてからも)、自分自身の価値を確認するための手段以上のものにはなっていません。このとき善女は自分への評価を他者に貪欲に求める者でしかなく、彼女がいかに多くの物を寄付しようと、与える行為であるはずの慈善は不成功のままです。そして、これが成功しない以上、彼女の心の現状は続くのです。善女は、崇高な人物などでは全然なく、かと言って人生に背を向けているわけでもありません。この戯曲が描く彼女の軌跡は、外へと価値を求めるときにだれもが陥る徒労の道筋を示していると言えます。
 さて、このような『ボリスの祝宴』ですが、不思議なことに、観客はむしろ軽やかな心持ちでこの舞台を楽しむことができます。ベルンハルトの戯曲は、日常的とは言い難い、言葉遊びのような、人工的な会話の運びに一つの特徴があり、この非日常性によって、観客は舞台上の物語に呑み込まれることなく、皮肉な気持ちにもならずに、安全な距離を保ってそれを眺めることができるのです。ベルンハルト・マジックとでも呼びたい鮮やかな手並みです。
 観客に軽妙な笑いを生む舞台上の世界も、その当事者、つまり登場人物にとってはまた異なる在り方をもち、それは時に、終わりのない悪しき夢です。善女は次の「ボリス」を擁し、また祝宴を催すでしょう。ウィーンの空に変わらぬ円を描き続けるあの観覧車のように人を魅しながら、その作品世界は新たに、そして変わらず、続いていくのです。

(たかはしくみこ 早稲田大学大学院生)