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北米における権利擁護とサービスの質に関するシステム 連載12

アメリカにおける重度障害者が
地域で暮らす権利

-ADAに基づく裁判例の検討-

北野誠一

1 はじめに

 この連載の第6回(1999年8月号)で、その年の6月にアメリカ連邦最高裁が、障害者に対する不必要な施設入所は「障害をもつアメリカ人法」(ADA)に違反するとの裁定を下したことを書いた。この裁判の結果は、各州に大きな波紋を投げ掛けたようである。今回はこの裁判の結果とそれがもたらしうる可能性について、検討してみたいと思う。
 実は私がこの裁判に強く関心をもったのは、次のような理由からである。
 私がチーフを務めた兵庫県西宮市社会福祉協議会の運営する重度の障害者通所施設「青葉園」に関する研究プロジェクト(注1)で、一つの大きな問題提起がなされたからである。それは、重度障害者、とりわけ知的障害と身体障害を重複する障害者や重度の知的障害者が、地域で当たり前に生活することの権利性は、どのようにすれば保障されるのかである。本人の自己決定権・自己選択権の保障だけでは、この権利は保障されにくい。というのは、その本人の自己決定・自己選択の可能性が法的に認められる者、つまり本人の意思能力が認められる者は、今後日本の法制度が欧米レベルに近づけば、本人の意思に反する施設入所などというものはなくなるだろうが、では、その能力がないと見なされている重度の障害者の場合はどうなっているのかが、今回の研究プロジェクトで問われたからである。
 私たちはこの研究プロジェクトで、重度の障害者が地域で暮らすことの意味と権利性を考察したわけだが、残念ながら、それを阻む要因のほうがはるかに分析しやすかったことも事実である。つまりは、重い障害をもつ人は、その人たちの生命と安全を考えれば、施設や病院で暮らすほうが、より望ましいと考える人が多いからである。医療的ケアを多く必要とする人たちに対する支援のビジョンが、どうしても病院や重症心身障害児者施設となってしまうのはなぜであろうか。
 そこには二つのステレオタイプな見方がある。
 一つは医療行為は医療専門家でなければ分からないし、できないので、医療専門家が常駐し、すぐに対応が可能な病院等にいる必要があると思われていることである。青葉園の実践は、それが漠とした不安と無知からくるものであることを教えてくれる。確かに青葉園には、何かあればすぐに対応できる提携医もいれば、それぞれ本人の主治医も地域に存在している。しかし重度心身障害者の親ならだれでも知っているが、その本人の状態をよく知らなければ、医療行為はできないし、逆に本人の状態をよく知る者は、一定の知識があれば一定の医療ケアの対応が可能となる。青葉園のスタッフが本人の健康面での支援をよくこなしているのはそのためである。もちろんそのためには、綿密な研修と実践によるトレーニングがスタッフに課されているのは言うまでもない。
 さらに重度心身障害者を病院や施設に追いやるのは、そのほうが安全で高い質のケアが保障されているからだという誤解があるためである。実際には、施設や病院のほうが障害者に安全で質の高いケアを保障しているというのはうそである。一般的な市民生活から隔離分断され、一般市民の目の届かない所で、日中も夜間も同じ所で暮らすことの危険性は、明白である。そこでは医療関係者や福祉関係者が、利用者に尽くす善意の人であることが前提となっている。医療関係者も福祉関係者も豊かで楽な生活を望む普通の市民なのだから、そんなことはこちらの願望に過ぎず、現に施設や病院はさまざまな人権侵害を犯しているのが現実である。
 だとすれば、私たちは青葉園の実践のように、どのように重い障害をもつ人も、地域の中で当たり前に暮らすことをこそ求めていくべきである。
 私たちはここで、本人の意思や自己決定・自己選択を前提としなくとも、つまり本人がそれを選択することができないとみなされたとしても、そのことが施設や病院入所の正当性とはならない権利性を生み出すべきである。
 この権利性をわが国で確立するために、他の国々の法律を検討してみたいと思う。まずはノーマライゼーションの発祥の地であり、そのことに先進的に取り組んでいる北欧の法律を検討し、次にアメリカの裁判例を検討してみよう。

2 スウェーデン、デンマークにおける重度障害者が地域で暮らす権利について

 最初はスウェーデンである。スウェーデンの新社会サービス法(1996年)(注2)によれば、
第3条 「社会サービスは、社会全体、集団および地域、個人の各レベルに応じて、コミューンにおける、良好な生活水準、良好な生活環境の実現を促進するものでなければならない。社会サービスは、その際、以下の事項をめざして実施されなければならない。」その1~3省略。その4「身体的、精神的、またはその他の原因によって、生活上、相当の困難を抱えている人々は、共同社会に参画し、他の人々と同様に生活することができる。」
第4条 「社会サービスの内容は、次のとおりである。」その1「地域社会での生活という考えを一般化すること。」その2以下省略。
第5条 第1項「コミューンは、当該コミューンに居住するものが必要とする援助を得るにあたって、究極的な責任を負う。」
 ここではノーマライゼーションの原理に基づいて、障害者が地域の中で他の市民と同じような生活をする権利性がうたわれている。また、そのために必要な支援の究極的な責任を行政に課しているということは、障害者には地域の中で他の市民と同様の生活をするために必要なサービスの受給権が保障されていると言えよう。
 次にデンマークを見てみよう。デンマークの生活支援法(1987年)によれば、
第1条 「公的機関は……介助、特別な治療、もしくは教育的な援助を必要とするすべての者に対して援助を行う義務を有する。」
第14条 第5項「児童・青少年および重度身体障害または精神障害を有する成人の昼夜を通じての収容のための施設における保護……の手段の使用は……当該処置を絶対的に必要とする状況が認められるときに限り、これを行うことができる。」
第48条 身体もしくは精神に重度の障害を有する者であって、自分で生活しているものは、当該障害によって生ずる生計維持のために必要な増加支出の補填を受ける権利を有する。」
第50条 「自治体議会は当該自治体内にホームヘルプ制度を整備し、その職業に従事するための訓練を受けたホームヘルパーによって、家庭内での実際的な援助を行うことができるように保障する責務を有する。」
第51条 「長期のホームヘルプを行うときは、費用の負担を要しない。」
 つまりデンマークは介助を必要とする重度障害者は、ノーマライゼーションの原理に基づいて、地域で当たり前に生活することが原則とされており、そのために必要な介助サービスの保障が自治体に義務付けられている。
 ここで問題は、第14条の5で表現されている、「収容施設における保護の絶対的必要性」をどう考えるべきかである。
 それは「共同社会に参画し、他の人々と同様に生活することができる」「地域社会での生活という考え方を一般化すること」をうたうスウェーデンの新社会サービス法と、どんな関係にあるのか。さらにスウェーデン、デンマークにおいて、重度心身障害者と言われる人たちはどこで生活しているのか。彼らは病院や施設ではなく、地域で当たり前に暮らしているのか。デンマークの障害者団体評議会会長のジョン・ミュラーによれば、実態は以下のようである。
 「障害者という特別なグループについての特別法はすべて廃止された。現在では包括的な生活支援法(社会援助法)が特別なニーズをもつ人々に関する条項をすべて定めているので、障害者にも非障害者にも、同じ規則が適用されているが、特別なニーズをもつ人々に対しては特別な権利が与えられている。……精神や知的に障害のある人のためのサービスに関する特別法の廃止から生じた重要な成果は、精神や知的な障害を理由に人を施設に拘束できなくなったことである。サービスはすべて完全に自発的意思によって受けるものである。施設に拘束できるのは、犯罪を犯して、そのために裁判所による有罪宣告を受けたものだけである。精神や知的な障害のある者で、施設収容を宣告されている者はごくわずかである」(注3)。つまり本人の自由意思あるいは犯罪による宣告以外には施設収容はないことになる。
 スウェーデンにおいても、2000年3月において、入所施設はすべてその役割を終えて解体したと言われている。
 カナダのブリティッシュコロンビア州においても、三つの州立施設はすべて解体され、グループホームとアパート暮らし等になっていた。
 あえて問うとすれば、自発的意思が無視されがちな、重度の心身障害者において、後見人や代理権者や後見裁判所が本人の病院入所や施設入所に同意することも許される場合のあることが問題であろう。ノーマライゼーションの原理に基づいて、障害者の権利として、どのように障害が重くとも「共同社会に参画し、他の人々と同様に生活する権利」が、本人の意志の有無にかかわらず、そして後見人や代理権者や後見裁判所の判断と関係なく、保障されるべきである。

3 アメリカにおける重度障害者が地域で暮らす権利について

 次にアメリカで最近(1999年6月)連邦最高裁で判決が下されたOlmsteadv L. C.(98-536)を見ておきたいと思う。
 この裁判は、知的障害と精神障害を併せもつ障害者(L・C)が、地域生活が可能であり、本人もそれを求めているのに、本人を不当に収容しつづけているとして、アトランタのジョージア州立病院を、ADA違反で訴えたものである。連邦最高裁の判決は、「最も統合された環境(the most integrated setting)で、本人が利用するプログラムを提供しなければならない」としたADAの施行規則(23CFR §35. 130d)に基づいて、「精神障害のない人は、そのような犠牲を払う必要がないのに、精神障害のある人は、必要な治療を受けるという理由で、合理的配慮によって十分に楽しむことのできる地域生活への参加を諦めねばならない。」「不必要な施設入所は、家族との関係、社会との関係、労働関係、さらなる教育、豊かな文化的楽しみといった日常生活の諸活動から障害者を切り離してしまうがゆえに、それは障害者に対する差別とみなされる。」と述べている。
 ここで問題となるのは、「不必要な施設入所とは何か」である。最高裁は、「地域生活が可能で、そこから利益を得ることができる人でかつ、本人が地域生活に反対しない人に対する施設入所」が「不必要な施設入所」であり、ADA上の差別であると述べている。
 この判決のもつ意味は大きい。確かに、地域生活が可能でそこから利益を得ることができる人とはどのような人なのかを判断することが、特定の専門職に独占されてしまえば、その専門職の自由裁量によって権利性を弱める可能性もある。この判決でも、裁判を起こした障害者の地域生活が可能なことを、その州立病院の医師によって認められていることが、判決のよりどころとされている。Bazelon精神保健法センターも、この判決について次のように述べている。「裁判所によれば、州は一般に州の専門家による“合理的なアセスメント”に基づくべきことが示されているが、しかし州の専門家による地域生活の適切性の決定が合理的でない場合もありうる。この裁判では、訴えた障害者の治療専門家によるアセスメントに基づいているが、第三者によるアセスメントも同様に有効である」(注4)。
 地域生活が不可能でそこから利益を得ることができないことを、つまり「もっとも統合され、制約の少ない環境」以外の環境で生活することの必要性を、措置する側の立証責任とするべきだと思われる。
 この判決でむしろ大切なのは「本人が地域社会での生活を希望していること」を条件とするのか、それとも「本人が地域社会での生活を拒否していないこと」を条件にするのかである。判決はADA施行規則(28CFR §35. 130e-1)に基づいて、「本人が地域生活を希望していない者に、地域生活を強制するものでない」と述べている。このことは、本人が地域生活を希望しようとしまいと、それを拒否しなければ、本人が地域生活が可能で、そこから利益を得ることができるとみなされる人はすべて、地域生活をする権利が保障されていると解釈できるように思われる。
 ちなみにADA施行規則(28CFR §36. 130e-2)には、「この規則は、障害者の法定代理人や後見人が、食事・水・医療・介助等を減らすことを認めるものではない」としているが、法定代理人や後見人が、その本人の最善の利益(best interest)の名で、本人を施設や病院に収容することを差別として否定するところまではいっていないように思われる。
 この判決の中で、脱施設化を進める人たちが特に注目しているのが次の部分である。「たとえば、もし、州が資格を有する障害者がより制限の少ない環境(less restrictive settings)に移行するにあたって、包括的で効果的な実行計画を示し、その実行計画が州の施設の定数を満たそうとする試みに縛られることなく、施設から地域で生活する人が、合理的なペースで地域に移行する待機リストを示すことができれば、それはADAによるところの合理的な配慮の基準を満たしているものと見なされる。……そのような状況においては、裁判所は裁判に訴えた者がいるからといって、その者を地域移行計画でより優先順位の高い者と取り替えることを保障することはできないであろう。」
 訴訟の国アメリカにおいて、この勝訴によって各州で裁判に訴える障害者が現れる可能性が高いために、州はこぞってこの「包括的で効果的な地域へ移行する実行計画」に取りかかるものとみなされている。アメリカの運動団体がそこに目をつけるのも当然だといえよう。
 この判決部分は非常に注目すべきであり、それは次のことを意味している。
 一つは、この「包括的で効果的な地域移行計画」での待機リストに、地域生活に移行する人たちの希望とニーズに基づく優先順位が存在するということは、それは、施設利用者全員に対して、一人ひとりの「本人自立生活支援計画(IPP)」がきちんと作成されていることを意味している。だれが地域移行の希望やニーズが高いか、またそのために必要な支援計画が作られ、実行されているかが分からなければ、そのような優先順位のある待機リストが立てられようもないからである。
 もう一つ注目すべき点は、「合理的なペース」という表現である。判決および連邦保健福祉省の通達は、「サービスの有無にあわせてアセスメントするのではなく、あくまで本人の希望とニーズに基づいてアセスメントすること」を求めながら、一方で「希望やニーズがあるからといって、サービスがないのに地域に戻してはならない」としている。つまりは、予算を可能な最大限のペースで地域支援にシフトすることによって、決して施設入所者が、地域支援なく地域に戻されることがないようにすることが求められているのである。
 この判決が、精神障害と知的障害の二つの診断を受けた人に対するものであり、この判決によって影響を受ける人たちが知的障害者だけでなく、精神障害者をも含むがゆえに、1980年代の精神病院縮小・解体によって、一部の精神障害者がホームレスになったと言われているあの轍を踏まないように、細心の注意が必要である。
 ADA制定10周年の2000年7月26日までに、この包括的で効果的な実行計画の作成と、その実行を開始しなければならないとされている。
 最後に、この判決を受けて、連邦保健福祉省が2000年1月14日付で各州のメディケイド局長当てに出した通達文には、次のようにある。
 『連邦保健福祉省は、包括的で効果的な実行計画の構想・展開・実行は、障害当事者とその代理人が参画(active involvement)することによってこそ、最もよく達成されをと考える。』(注5)。アメリカにおいては、障害当事者の参画が既成事実化、普遍化していることが分かる。
 日本においても、重度の障害者が地域で当たり前に暮らす権利を保障する法を、ぜひとも成立させたいものである。

(きたのせいいち 桃山学院大学)


(注1)あおば福祉会編集・発行『重度障害者が地域で暮らす方法-重度障害者の地域生活支援システムの構築をめざして』〈平成11年度社会福祉・医療事業頼助成事業〉2000。
(注2)スウェーデンの「新社会サービス法」は二文字理明編訳『スウェーデンの障害者政策』(現代書館1998)による。現時点では「社会サービス法」にかわって施行されたかどうかの確認は取れていない。
(注3)「重度な障害をもつ人々の地域生活に関する比較セミナー」(1992)のジョン・ミュラーの資料「北欧のノーマライゼーションと統合」より。
(注4)Bazelon:Center for Mental Health Law “Under Court Order;The Supreme Court Ruling in Olmstead v L. C.”, p.6, 1999.
(注5)DHHS “Developing Comprehensive, Effectively Working Plans” Letter to State Medicaid Directors,2000.