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昔あった、連なりの魅力

川口謙造

1970年代前後の障害者運動とボランティア

-障害者とボランティアの関係性を振り返る-

 ここに『「連」という楽園』というエッセイがあります。ご存知の方もあるかと思いますが、筆者は田中優子さんという日本近世史文化の研究者で、江戸文化に関する著作を多数書いておられます。
 これによると、連は、「連句」-五七五七七の韻律を、五七五の部分と七七の部分とに分けて、複数の人間で次々と付けていく文芸-における人間関係(句と句の関係)を基本モデルとし、前の句のイメージに似すぎると、「付き過ぎ」と非難され、前の句を無視して飛躍すると「離れ過ぎ」と注意されるということで、それは江戸時代の「人間関係」の距離感そのものだということです。
 そして、「連句」は個性なしでは成り立たないもので、己を知り、他者の個性を認めてはじめて、かかわりも距離もつくることができ、またそのような「個性」は人間関係の中でこそ磨かれるもので、相当に努力をしないといけないし、手間もかかる。しかし、その絶妙な表現に向かう緊張感と、他者とのつながりをはっきり感じる瞬間こそ、「楽園」の名にふさわしい快楽だろうと言っています。
 そして、そのように「手間がかかり」「時間がかかる」楽園は、近代人には、「煩わしい」ものでしかないだろうが、今の私たちが求める「楽園」(=人間関係)は、本当に楽園としてふさわしいのか、といった問題提起として読み取れます。
 私は、1970年代にあった市民運動における障害者とボランティアの関係と、田中さんが教えてくれる「連句」という楽園が、なんだか符合するように思えるのです。

 1970年代と言えば、障害者運動にとって非常に重要な時期と言われます。いわゆる「障害者解放運動」が、脳性マヒ者が集まる「神奈川青い芝の会」を中心に展開され、その運動の過程で1976年には「全国障害者連絡会議」(以下、全障連)が発足しています(障害者問題にかかわる初の全国組織は、1967年の全国障害者問題研究会)。その後、1979年に「神奈川青い芝の会」は全障連から脱退するのですが、その「問題解決の道は選ばない」とする徹底した「告発型」の運動は、さまざまな事件(?)がマスコミに取り上げられたこともあって、当時の社会に大きなインパクトを与えたということです。
 また、時期を同じくして、そのような「過激な」当事者運動に距離をおく形で、車いすに乗る障害者を中心とした「街に出よう」運動が始まっています(1973年に第1回「車いす市民全国交流集会」が仙台で開催)。そこには、このころから「車いす」が入手しやすくなったこと、そして「青い芝の会」などの動きに障害者自身が刺激されたこと、そして本稿のテーマであるボランティア活動の活性化という時代背景がありました。
 ここで、当時のボランティア活動啓発・推進の動きを福祉活動の領域で振り返ってみますと、まず日本で最も古いボランティアセンターのひとつ、大阪ボランティア協会が1965年に発足しています。それは、当時、大阪の地で活動をしていたボランティアグループが集い、ボランティアとしての自立性を尊重し合い、そのような個人が、活動への共感でつながっていける場がほしいという思いから生まれました。これは行政に依存しない自立したNPO誕生の先駆けのひとつといえます。
 そして、1975年以降、全国的にボランティアセンターの整備が進むなど、この頃から少数派としての活動家としてではなく、広く市民が社会参加するための土壌が少しずつ生まれていきます。
 また、前後しますが、1973年には関西公共広告機構(現・公共広告機構)の協賛で、テレビでボランティア活動啓発のキャンペーン実施がなされ、大阪ボランティア協会にも前例のない多くの市民からのアクセスがあったということです。そして、1976年の第31回国連総会にて、1981年を「国際障害者年」とすることが決議され、マスコミや全国各地でさまざまな行事が繰りひろげられたことは、社会への障害者問題の啓発とともに、そういった問題へ市民が関心をもち、参加していく契機のひとつとなりました。

交流と議論の場

-サロン・ド・ボランティア、1972年-

 以上、非常に大ざっぱですが、1970年代前後の障害者運動とボランティアの動きを見てきました。そして、このような動きのなか、大阪で、ボランティアそして障害者が集う場、サロン・ド・ボランティア(以下、「サロン」)が1972年に発足したのです。「サロン」は、大阪ボランティア協会が実施した日本で最初のボランティア講座「初級スクール」の受講生による同窓会から発展し、市民が自由に集える交流の場として生み出されました。
 『5年のあゆみ』(以下、記念誌)の中で(自分たちの活動をきっちりと記録し、点検されているのはすごい!)、世話役の方が、「サロン」は「同窓生だけではなく、協会に集まってくる他の人や街ゆく人たちとも気軽に話し合える場があってもいいのでは」という発想から始まり、1年を経過する中で、「いろんな人が交流すること自体に意義を見出すが、一方で何のために集まるのか、なぜ参加するのか」について、多種多様な議論があったとしています。それは、ただ集まるだけではなく「皆で何か具体的な活動をしよう」という意見と、「個々の思いの多様性を尊重し、自由に思いのまま振る舞ってもらおう」という意見の対立に象徴されます。
 そして3年目あたりから、「障害者(記念誌では「ハンディある人たち」と表現)との交流を積極的に進めるようになり、サロンヘ参加してもらうまでになった」とあります。しかし、「車いすに触れたことがない人、障害者に接したことがない人がほとんどだったサロンであるために、長い間、違和感があった」、そして障害者との関係においては、「不必要なまでに親切にする人、避ける人、遠まきに眺めている人と不自然な空気が漂っていた」が、「少数の勇気ある人たちの努力があり」、他の参加者も時間をかけ、場を共有する中で、「少しずつ話ができるようになった」と記されています。
 そして、サロンへの障害者の参加がどんどん増えてき、「そのことは逆に、それだけ外出の機会が少ない現実を知らされることとなった」とあります。
 この「サロン」の気付きが、その後、1976年に「だれでも乗れる地下鉄をつくる会」が、京都と連携する形で大阪でも発足される原動力となりました。その後の動きは、紙幅の都合であまり詳しくは書けませんが、家から地下鉄までの障害者の「足」を確保するというさらなる課題解決への運動につながり、1979年の「おおさか行動する障害者応援センター」発足へとつながっていきます。

時間と場所を共有し、あくまでも「かかわる」姿勢で

 以上の「サロン」についての意義を、記念誌の中で、岡本栄一(大阪ボランティア協会理事長)は、「障害者の『交流権』保障運動としての位置付けをもっている」と言っています。この「サロン」の動きは、いわば「告発型」の当事者運動から、交流を原動力とした障害者とボランティアによる「協働型」運動への展開を示す重要な事例と言えるでしょう。
 ここで言いたいことは、「サロン」という小さな空間においてではありますが、障害者の「交流権」が保障されることにより、それまでの「援助する側」(ボランティア)と「援助を受ける側」(障害者)との一方向的な関係性から、両者が「市民」として融合する場となりえたということです。そして、それは「文芸」と「運動」の違いこそあれ、江戸時代の「連句」に通じるものではないかと思うのです。「付き過ぎず」「離れ過ぎず」という関係の距離は、自立を探求していた障害者と応援を探求していたボランティアとの関係の距離と合致するような気がしてなりません。そして「協働による創造性」-。
 1980年代から現在に至るまで、障害者を取り巻く環境も大きく変わりました。「ノーマライゼーション」という福祉理念の普及、公的介護サービスの整備や企業、NPOによる有償サービスの台頭です。1970年代当時にくらべれば、サービスの選択肢も増えて、それだけ障害者の自立生活が身近なものとなったと言えるでしょう。またインターネットなど情報システムの普及は、コミュニケーション手段として、就労への道具として、障害者の生活にも大きな影響を与えています。
 現在では、あの「サロン」のような空間はもう必要がないのかもしれません。確かに、「手間がかかり」「時間がかかり」、そして「煩わしい」人間関係は、そこには無用なものなのかもしれません。もっとプラグマティックな関係が求められるのかもしれません。
 しかし、「記念誌」の時間と場を共有している空間から聞こえる息遣いに触れて-そのエネルギーは、決して「過去」のものではなく、これからの新しい市民運動の中で、再生されるべきものではないかと思えるのです。

(かわぐちけんぞう 社会福祉法人大阪ボランティア協会事務局主幹)


<参考資料、文献>
1 田中優子「『連』という楽園」、『楽園計画』第4号
2 牧口一二「障害者問題とのかかわり」、『ボランティアの理論と実践』(中央法規出版)
3 『コーヒーをのみながら…サロン・ド・ボランティア5年のあゆみ』大阪ボランティア協会
4 『発足10周年記念3653日』おおさか・行動する障害者応援センター