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北米における権利擁護とサービスの質に関するシステム

ADA(障害をもつアメリカ人法)10年の歩みと、
日本における障害者権利法(JDA)の方向性(その2)

 北野誠一

ADAはいかに勝ち取られたのか

 今回は、私自身のささやかなエピソードから始めたいと思う。私は前回も述べたように、家族と共に1990年の夏から1991年の春にかけて、サンフランシスコで研究員としての生活を送っていた。週に1、2度は、当時エド・ロバーツが所長で、ジュディー・ヒューマンが副所長をしていたWID(世界障害者問題研究所)に足を運ぶのが日課であった。私はジュディーのおかげで、WIDのさまざまな委員会やプロジェクトに自由に出席させてもらっていた。
 当時WIDは、連邦教育省・リハビリテーション局から補助金を得て、次代の障害者運動を担うリーダーシップトレーニングプログラム作りや、ADAの次の最大のテーマである介助(Personal Assistance Services)に関する各州のプログラムの収集・分析と、連邦法案の準備、そしてADAの施行規則(regulations)に関する戦略会議等を行っていた。そのどれも実に興味深いものであったが、特にADAに関する会議はエキサイティングであり、私はある時思いきってジュディーに、「ADAをアメリカの障害者がどのように勝ち取ったのかは、これからこのような障害者の権利法を獲得していこうとする世界の障害者運動にとって、とても重要なので、どうかその戦いの記録をシステムアドボカシー(権利形成・獲得アドボカシー)のモデルとして残してほしい」と話したことがある。ジュディーはあっさりと「私たちは日々戦っている。私たちにはそんな時間はない。それは研究者の仕事だ」と言って、私にWIDにあるADAに関する資料を自由に使うことを許可してくれたのだが、いかんせん私の能力では、そんなことはとてもかなわぬことだった。今でもその一部をコピーして日本に持ち帰った資料がダンボールに眠っているが、その多くは全米レベルや州レベルの障害者団体から送られてきたADA獲得に向けた戦略に関するものだったので、アメリカの障害者団体のことなどほとんど何も知らなかった私にはお手上げだったのだ。
 それでもADAが全米の草の根の障害者団体の血と汗の結晶であることだけは実感できた。10年近い月日が流れてもはやすっかり「ADAはアメリカ障害者運動によっていかに勝ち取られたのか」は歴史に葬られたのかと思っていたのだが、ありがたいことにNCD(全米障害者評議会)が、「機会平等-ADAの獲得の歴史」(注1)(1997)を残してくれていたことを知った。
 ジョセフ・シャピロの『哀れみはいらない』(1993)の日本語訳(注2)が出版されたこともあり、私たちにも少しはアメリカの障害者運動によるADA獲得の歴史が残されたわけである。以下の記述は、特に注釈がなければこの二つの著作、特に前者の記述によることが多い。ただし前者の記述の明らかな間違いを指摘することはできないが、それはNCDやワシントンからものを見る傾向が強く、何度も言うように、それが全米の草の根運動の血と汗の結晶であることへの表現に欠けている。
 また当時、カリフォルニアに住んでいた時の雰囲気から言えば、NCDの役割については批判的なものが多かったように思われるし、その役割はごく一部のように感じられた。それはNCDが独立機関とはいえ、大統領の指命による国家機関であり、レーガン、ブッシュという共和党の大統領に仕える、どちらかと言えば規制緩和・障害者予算縮小路線であり、主に民主党を支持するカリフォルニアの障害者団体とは肌が合わなかったこともあろう。またそのことがADAそのものに影響を与えていることも事実である。特にADAが介助や日常生活用具等、障害者が他の市民と同様に機会を獲得し、社会参加するために必要不可欠な仕組みの保障を欠いていることは、そのことと無関係ではない。
 ここではADAの獲得史を、
1 1960年代から1988年のADA原案の作成以前のプロセス
2 1988年から1990年にかけての主に議会を中心とするプロセスに分けて見ていくことにする。

1 ADA原案成立以前のプロセス

1 1964年の市民的権利法(Civil Rights Act of 1964)とADA

 ADAは何よりも1964年の市民的権利法を基盤としている。つまりは障害者に対する差別を禁止する法律としてある。1964年の市民的権利法の救済の対象に障害者が含まれていなかったこともあり、障害者運動は1970年代から80年代にかけて、障害者の市民的権利法としてのADA獲得をめざしたのである。そのために障害者運動勢力は、黒人運動勢力や女性運動勢力から同じ市民的権利をめざす勢力(force)として認知されるためのさまざまな活動と共働の取り組みを行ってきた。
 特に有名なのは、レーガン政権による規制緩和と福祉予算や人権予算の削減に対する戦いである。レーガン政権は、リハビリテーション法504条と全障害児教育法を、その最初の切り崩しのターゲットにしてきた。それは、障害者運動は最も結束力が弱いゆえに、組みしやすいとあなどられていたからであり、人権規則と人権予算の切り崩しの尖兵と考えられたからである。
 障害者運動が大同団結し、市民的権利運動の先頭に立って、その阻止のために戦ったことが、次第に他の市民的権利運動団体から仲間として受け入れられる素地を生んだのである。
 さて、障害者運動は1964年の市民的権利法をADAのモデルとしてきた。ここではその四つの側面を見ておきたいと思う。

1.運動形態のモデルとして

 市民的権利法の獲得のためのデモンストレーションや座り込み、占拠方法は、多く黒人運動等から障害者運動が学んだものである。

2.差別の行為基準のモデルとして

 この2は少し説明がいる。
 差別(discrimination)とは、「人種・性別・年齢・宗教・障害の有無等の違いを理由に、法の権利によって定められた生活分野や場面(雇用・教育・住宅・移動交通・投票・公共サービス・市民施設の利用等)で、一定の行為基準に基づいて平等に扱うことをしないこと」を意味する。
 ADAでは生活の特定の分野として、第1章雇用、第2章公共サービス、第3章民間サービス、第4章電話通話サービスを取り上げている。市民的権利法に含まれている教育の分野では、IDEA(障害者教育法、1975年の全障害児教育法が改正されたもの)、住宅の分野ではFair Housing Amendments Act(公正住宅法)がそれぞれADA獲得以前に成立していたからである。また、航空機サービスの分野は、Air Carrier Access Act(航空機アクセス法)、入所施設サービスの分野における人権侵害については、公立施設における、Civil Rights of Institutionalized Persons Act(施設入所者の市民的権利法)がADA第2章と共働で受け持っている。
 このそれぞれの分野における差別の行為基準のモデルがなければ、たとえば「遅刻を繰り返して、そのために職場の部局の業務をしばしば滞らせてしまう、ある障害をもつ人を、ある会社がそのことを理由に解雇することが、差別に当たるかどうか」を判断することは不可能である。ADAでは、市民的権利法が雇用なら雇用の分野でどのような行為基準に基づいてその人を扱うことをしないことを差別というかを学び、それを障害者の場面にもモデルとして当てはめたわけである。
 ADAは、その第1章雇用の102条(a)差別の一般規定において、「この法律の適応を受ける職場が、就業応募手続き、被用者の採用、昇格または解雇、雇用保険、ジョブトレーニング、その他雇用に関する期間や条件等に関して、その個人が障害をもつという理由で適格な障害者を差別してはならない」としている。
 またその適格な障害者については、101条(8)で、適格な障害者(qualified individual with a disability)を「合理的な配慮(reasonable accommodation)の有無にかかわらず、その個人が保持する、あるいは希望する職場のポジションに必須な職務(essential functions)を遂行できる障害者」としている。
 ADAがその最初の第3条で一般的な障害と障害者の定義を、
(A)その個人の主要な生活活動の1または2以上を実質的に制限する身体的または精神的障害(をもつ人)
(B)そのような障害の記録(をもつ人)
(C)そのような障害をもっていると見なされている(人)
という形で行っていながら、各章ごとに生活の特定の分野の中で、その対象者を定義しているのは、まさにその特定の分野における差別とは何かを規定する必要があるからである。
 最初の事例に戻れば、本人がその職場のポジションに必須の職務を遂行するのに必要な合理的な配慮を、その職場が怠っていなかったかどうか、また本人の職場までの通勤のプロセスに合理的配慮を怠っていなかったかどうかが、問われることになる。

3.差別に対する不服申し立て、及び調査と救済システムのモデルとして

 私たちが最も学ぶべき点は、実はこの不服申し立てと救済システムである。つまり強制力のある実施(enforcement)が、それぞれの生活の特定の分野ごと、ADAでは各章ごとに、不服申し立ての手続きと救済の機関の方法と権限が明確にされている。
 特に第1章雇用においては、107条で1964年市民的権利法と同じEEOC(平等雇用機会委員会)が不服申し立てを受け付け、調査権限を持ち、和解調停の権限と、それがうまくいかない場合には裁判を起こす権限を持っていることを明記している。ちなみにEEOCのADA10周年のハイライトによれば(注3)、これまで和解調停及び第三者調停及び裁判等で支援した人は、20,622人で、賠償金や懲罰的賠償金を含めて3億ドル、1人平均14,000ドルを不服申し立て者にもたらしただけでなく、10,706人に金銭以外の合理的配慮を獲得させている。
 また第3章民間サービスにおいては、308条(a)で、新築、改築の市民施設(Public Accommodation:多数の市民が利用する民間施設)が障害者が利用できることを怠った場合及び既存の市民施設が容易に実現可能(readily achievable)であるのに、障壁を取り除かない場合には、法務省が差止命令による救済を行うことができる。(b)においては、法務長官は法が遵守されているかどうかについて、定期的に調査を行うと共に、差別が一般化していると思われる場合や、一般的に市民にとって重要だと思われる場合には裁判を起こし、金銭的損害賠償を含む救済を求めると共に、公共の利益を促進するために、10万ドル以下の罰金を科することができるとされている。

4.法律の獲得とその法律を使って、当事者により有利な判例を積み上げていく裁判闘争のモデルとして

 先の解雇を求められた障害者のケースにしても、これまでそのようなケースに対して、どのような判例が存在しているのかが重要である。つまり、合理的配慮義務違反にもかかわらず、本人の訴えがなかった場合、あるいは受理されなかった場合等さまざまな判例があり得る。
 雇用における判例については、102条の(a)の差別の一般規定が(b)の解釈の中で規定され、さらにregulation(施行規則)で細かく規定されていき、さらにまた判例の中で具体的な差別の規定を形作っていくことになる。その時に、障害当事者により有利な判例か、雇用者側により有利な判例かは、後々の障害者全体の雇用差別にも影響を与えるがゆえに、一つひとつの裁判闘争に心血が注がれるわけである。
 さて次に、ADAのもう一つの基盤であるリハビリテーション法を見てみよう。

2 リハビリテーション法とADA

 ADAは市民的権利法をモデルとして生まれてきたわけだが、他の市民的権利法とは異なるユニークな側面を持たざるを得なかった。逆に言えば、そのことが一般的な市民的権利法に障害者が組み込まれることが阻まれていた理由だとも言える。
 それは障害者が市民社会に実質的に参加するためには、生活分野ごとの差別を事後的に禁止するだけでなく、その生活分野のシステムの基本構造を事前にバリアフリーにするための合理的配慮(reasonable accommodation)がどうしても必要だからである。そしてそのためには自治体や民間のサービス機関に、それ相応の負担が必要であり、それが過剰な負担(undue hardship)であるかどうかの問題がそこから派生してくる。
 ADAはそれらの概念をリハビリテーション法504条とその施行規則から学んだ。もう一つは障害者の一般的定義であるが、これもADAはリハビリテーション法を受け継いだ。
 リハビリテーション法504条は、連邦政府とその補助金の受領機関のみを規制するものだったが、ADAはより包括的な市民生活全体の差別を規制するものとなった。さらに504条や全障害児教育法や発達障害者支援と権利に関する法から受け継いだ大きな概念は、the least restrictive environment(最も制約の少ない環境)とthe most integrated setting(最も統合された環境)である。
 実は障害者支援のモデルを医療(治療)モデルから自立生活(権利擁護)モデルへと展開させたのは、重度障害者による自立生活運動であった。重度の障害者による自立生活運動は、まず何よりも入所施設や病院ではなく、最も統合された環境である地域で当たり前に暮らす運動であり、そのために必要なバリアフリーシステムと介助等のサービスを専門家にコントロールされることなく、自分たちでコンシューマーコントロールする運動であった。
 専門家による医療やリハビリを中心とする医療モデルは、何よりも問題を患者としての障害者本人に押しつけてきたし、また診断や教育、訓練、治療という形で生活全体に対する専門家の介入、干渉、支配が続いていた。一方的に押しつけられた問題を社会環境や、サービスを提供する側や差別する側に投げ返した自立生活運動の意義は、計り知れないほど大きなものであった。つまりは初めて障害者自身が、自分の生活の主人公としてエンパワメントすることができる生き方と運動を手に入れたのである。
 1980年代は権利運動にとって非常に重苦しい時代であったが、障害者運動は選挙へのアクセス権として1984年のVoting Accessibility for the Elderly and handicapped Act(高齢者・障害者選挙アクセス法)を他の市民的権利運動団体と共に勝ち取り、ADAに向けてますます市民的権利運動団体との関係を深めていった。
 また1988年にはFair Housing amendments Act of 1988(公正住宅法)を勝ち取った。その時、HIVのメンバーとの連帯が後にADAで活かされた。公正住宅法はすべての障害者に対する民間セクターをも含む住宅差別を禁止する画期的な法律であり、ADA勝利の前触れとなった。
 自立生活運動は1980年代、各地に自立生活センターをつくり出し、それは障害者の権利運動の地域拠点として機能した。特にアクセス運動の拠点として多くの障害者を巻き込み、ADA獲得の草の根の大同団結を築いていった。
 自立生活運動の全国組織である全米自立生活センター協議会(NCIL)は、1970年代後半のリハビリテーション法504条の施行規則の実施を戦い取ったACCD(アメリカ障害者市民連合)の役割を引き継いで、ADA獲得運動の中心となりつつあった。特にNCILは各地のCILとインターネットでつながれ、その情報クリアリングハウスとして、ワシントンの権利擁護運動と全米各地の権利擁護運動をリンクさせた。
 それはまた、自分たちの福祉サービスの獲得だけに固執する古い障害者運動ではなく、新しい法律の知識と幅広い情報を駆使する障害者世代の誕生をも意味した。

(きたのせいいち 桃山学院大学)


(注1)“Equal of Opportunity”The Making of American with Disabilities Act,NCD,1997
(注2)ジョセフ・シャピロ著(秋山愛子訳)『哀れみはいらない-全米障害者運動の軌跡』現代書館、1999
(注3)Highlights of EEOC Enforcement of the Americans with Disabilities Act,EEOC,2000