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まちづくりから交通アクセスへ
当事者運動の流れ

大須賀郁夫

1 車いすがまちへ出てきた

 障害者の側からまちづくり運動が始まったのは、一九七〇年代初頭からと言ってよいだろう。「まちへ出よう!」と声を上げ始めた障害者や応援するボランティアたちがまちの点検活動を始め、段差解消やスロープ化、車いすトイレの設置などを求める活動が各地で展開されるようになった。
 一九七三年仙台で開催され、その後二年ごとに開催されてきた「車いす市民全国交流集会」は、そうした運動の先駆けとなった。
 一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけて、プライバシーや自由が制限され、非人間的対応がまかり通る施設での生活、大人になっても一人前に扱われず家族の厄介者として暮らす在宅の生活、憐れみと恩恵の福祉、そうした状況に対して、障害者の自立と人権の確立を求める運動がふつふつとわき上がり、日本での自立生活運動の流れと「まちへ出よう」という行動を生み出す背景となっていた。
 一九七四年、町田市は全国で初めて「福祉のまちづくり環境整備要綱」を制定、厚生省では一九七三年「身体障害者福祉モデル都市事業」を開始、建設省も歩車道の段差切り下げや誘導ブロック設置の指針を策定し、「福祉のまちづくり」推進の動きが始まった。
 交通では、リフト付きバンによる車いす使用者のための移送サービスが開始され、リフト付きタクシーも数年後から走り始めた。これらはドアツードアの便利さがある反面、車両台数や移動範囲等に制限があり、自由な移動を保障するものではなかった。
 車いすでの鉄道利用はまだ少ない時代であったが、一九七一年に小田急線梅ヶ丘駅での乗車拒否をめぐって地域での抗議運動が広がり、小田急電鉄は車いすの単独乗車を認めるようになった。
 一九七三年、運輸省は鉄道での車いす単独乗車を認め、新幹線に身障者用座席やトイレを設置、荷物用エレベーターを使っての利用が可能となったが、生活に身近な電車や地下鉄、バスの改善は顧みられてはいなかった。
 京都、大阪で「だれもが乗れる地下鉄」をめざす会が結成され、新設される地下鉄を利用できるようエレベーターの設置を求める運動が始まった。
 一九七三年高田馬場駅で、一九七六年大阪環状線福島駅で、視覚障害者がホームから転落し死亡、ないし重傷という重大事故が起きたのをきっかけに、ホームでの安全性の確保が問われ、点字ブロックの敷設へとつながっていった。
 一九七八年に川崎市で車いすの障害者がバスに乗ろうとして乗車拒否され、バスの前に座り込む抗議行動が起きた。この後、運輸省は「車いす利用者の乗合バス乗車について」の通達を出したが、介護人の同伴を義務づけるなど、実際には車いすの利用を阻むものに変わりなく、その撤回を求める運動が以降長く続くこととなる(この通達が撤廃されるのは一九九九年までかかった)。

2 国際障害者年と自立生活運動

 一九八一年からスタートした国際障害者年の「完全参加と平等」は、自立と社会参加をめざす障害者を勇気づけるとともに、社会全体にまちづくりへの関心を高めることとなった。
 アメリカのバークレーに始まった自立生活(CIL)運動の思想と行動が、アメリカへの留学や障害者日米交流セミナーを通じて日本に伝わり日本の自立生活運動が始まった。施設や親元から出てまちで生活を始めたり、普及し始めた電動車いすを使ってまちへ出て、公共交通を利用する障害者が増えてきた。ノーマライゼーションの理念に基づき、障害者の移動の自由は特殊な手段によるのでなく、電車やバスなどの公共交通機関によって保障されるべきであるという考え方が広がってきた。
 しかし、現実には自由に利用できる駅は数えるほどしかなく、八〇年代になって、さらに各地で乗車をめぐってのトラブルが多発し、駅設備の改善を求める運動、エレベーター設置を要求する運動、正当な乗客として認めさせる運動などが各地で起こった。階段での昇降については、介助者同伴や通行人への依頼ではなく、事業者側の業務の一環として行うことを一九八五年に初めて国鉄が認めた。
 一九八八年に東京で開かれたリハビリテーション・インターナショナル(RI)世界会議に来日した各国の障害者と共に、「RⅠを機に行動する障害者委員会」が結成され、交通アクセスの行動が始まった。その後「だれもが使える交通機関を求める全国行動実行委員会」が結成され、今日まで毎年、各地で鉄道やバスでの交通アクセスを実現する行動が取り組まれてきた。

3 制度的な設備から交通バリアフリー法へ

 九〇年代に入ると、八○年代の鉄道・バスをめぐる行動の高まりに応じて、ようやく公共交通の改善に運輸省、交通事業者が腰を上げるようになってきた。
 折りしも一九九〇年「ADA(障害をもつアメリカ人法)」の成立は、障害者に大きな衝撃をもたらした。ADAでは、差別禁止の思想から公共交通はすべての駅舎やターミナル施設、鉄道・バス車両をアクセシブルにすることが義務づけられており、このような法律を日本でも作ろうと、個々の鉄道駅舎やバスの改善にとどまらず、交通アクセス法体系の成立を求める運動へと変化が始まった。
 まちづくりにおいては、一九九二年兵庫県、大阪府のまちづくり条例を皮切りに、各地でまちづくり条例が制定され、国では一九九四年に「高齢者、障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」(通称ハートビル法)が制定され、公共的な建築物はアクセシビリティの確保が義務づけられるようになった。
 ソフト面からも各業界で接客マニュアルが作成されたり、視覚・聴覚障害者など情報面で制約をもつ人への対応も考慮されるようになってきた。
 一九九一年に、JR高崎線熊谷駅で、開閉ボタンに手が届かずエレベーター内に十四時間にわたり閉じ込められるという事故が起き、特別扱いの交通機関の利用でなく、「だれもが自由に利用できる」交通機関を求める声はいっそう強まった。
 一九九〇年に横浜市、神奈川県が鉄道のエレベーター設置補助制度をスタートさせた。一九九三年には、一日の乗降客が五○○○人以上で、新しくつくられる駅や大改造が行われる駅には、エレベーターの設置を規定した「エレベーター整備指針」が運輸省から出された。
 バスにおいては、一九九一年大阪や東京など主要都市でリフト付きバスの運行が始まった。しかし、リフト付きバスは高額なうえ、車いすの利用にしか対応できない欠点があり、普及の速度は限られていた。
 そんな中で、熊本の障害者たちは、ヨーロッパで主流となりつつあるノンステップバスに注目し、その普及をめざして市民を巻き込んだ地道な活動を積み重ねていた。ノンステップバスはだれにも利用しやすく、環境問題の面からも着目されるようになっていた。この熊本の活動が全国に波及し、バスの改善はノンステップ化という方向が次第に固まってきた。
 この他、運輸省は一九九四年「公共交通ターミナルにおける高齢者・障害者のための施設整備ガイドライン」「みんなに使いやすい空港旅客施設新整備指針」などを整備、また、「交通エコロジー・モビリティ財団」を設立し、鉄道駅舎でのエレベーター・エスカレーターの設置や、ノンステップバス等の運行を促進するための助成制度を始めた。
 このように三十年にわたるまちづくりや公共交通のバリアフリー化への長い道のりの一つの到達点として、昨年より通称「交通バリアフリー法」成立に向けての動きが一気に加速し、ついに本年成立をみることができた。
 まちや駅は何十年、何百年とかかってつくられてきたものであり、バリアフリーとなるには今後、かなり長期の時間を必要とする。そうであるからこそ、しっかりとしたまちづくりの思想や法的整備が必要で、交通における差別禁止という人権思想、計画や設計段階からの当事者の参画、移動の連続性や地域全体をトータルにとらえたまちづくりの取り組みなどが、これからの大きな課題として残されている。

(おおすがいくお わかこま自立生活情報室)