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アジアで交通バリアフリーを求める動き
ータイの例を中心に-

高嶺豊

 日本では、さる五月に交通バリアフリー法が成立し、本格的な交通バリアフリーへの動きが始まっている。建築物や交通機関へのアクセスを求める障害者の運動は、先進国でも長い、熾烈な活動を強いられてきた。アクセスを求める運動は、障害者の人権を求める運動を体現している。物理的なバリアは、社会の障害者に対する偏見や差別を端的に表わしているものである。そのバリアを取り除くことが、障害者の社会活動への参加をいっそう広げると同時に、社会の偏見や差別が取り除かれることへとつながっていく。
 アジア地域では、一九九〇年代前半の経済発展を反映して、社会インフラの整備が急速に進んでいった。高層ビルが林立し、車の数が急速に増え、車優先の都市が出現した。その結果、歩行者が不都合を強いられるようになる。排気ガスが増え大気汚染が広がる。一方、通行が増え、横断歩道が少なくなり、歩道橋が設置され、道路を渡ることが困難になる。高速道路が延びてくるが、それでも都市の交通渋滞は解消しない。渋滞解消のために、ようやく、バスや電車などの大量公共交通機関の整備、建設が始められるようになった。
 このような中で、アジア太平洋障害者の十年を契機に、建造物や歩道、公園などの公共物への障害者や高齢者のアクセスを求める動きが始まった。特に公共交通機関の建設の際に、障害者や高齢者の利用に十分な配慮を求める要望が障害者団体から出されるようになった。莫大な資金を投入して建設される公共交通機関は、その使用耐久年数が半世紀を超え、また、建設後に改造することはほとんど不可能であることから、運動の緊急性が高く、先進国が犯した過ちを二度と犯すことのないように、との危機感が運動に反映していった。
 さて、目まぐるしく変化する途上国の都市環境の中で、障害者はどのように、通学、通勤し、生活しているのであろうか。タイの例を通じて、障害者の交通アクセスを求める動きを見てみたい。

タイの障害者の移動手段

 下肢障害者の場合であるが、室内では、車いすがあれば車いすを使っているか、車いすがなければ、這って移動することになる。外出する時には、近距離であれば、四輪の車いすを手でこいで行く。それでも、歩道の段差が切られていないので、車道を行くことになる。遠距離であれば、タクシーを利用する。電動車いすはほとんど見かけない。または、交通の流れの激しい道路で車の間を縫って、手動の三輪の車いすをこいでいる人もよく見かけられる。二輪のオートバイを三輪に改造して、乗っている障害者もいる。
 車の運転は、これまで障害者には許されておらず、障害者はそれでも無免許で運転していたが、障害者運動の成果で、最近ようやく、運転免許証が得られるようになった。車を運転する障害者も少しずつ増えてきているが、まだまだ一般の障害者の手には届かない。
 バスは、普通の人でも気をつけないと乗り遅れたり、振り落とされたりする危険性がある。いつも混んでいて、渋滞の時などは、道路のど真ん中で客が乗り降りしている光景が見られる。下肢障害者が利用するには勇気が必要である。リフト付きの路線バスが四台バンコク内で走るようになったが、まだ、実用段階ではなく、シンボル的な試みでしかない。リフト付きのバスやバンは、バンコクには数台しかなく、障害者の送迎サービスは存在しない。鉄道も車いす使用者には利用不可能である。ドアが狭く、トイレは使えず、通路も通れない。
 このような厳しい移動環境に途上国の障害者は曝されている。下肢障害者でも、歩行可能な障害者は、どうにかバスなどの公共交通機関を利用しているが、車いす利用者の移動ははるかに制限されている。そのため、公共交通機関のアクセス問題は、移動障害者にとって深刻な問題である。また、移動問題は、社会のインフラの発展に緊密に関係しているので、長期に根気よく、組織的に取り組む必要があり、人権問題に目覚めた障害指導者の存在が必要となっている。

タイの交通アクセス運動ハイライト

 バンコクでは、一九九九年の十二月に高架式電車スカイトレインが開通した。この交通機関へのアクセス導入をめぐって障害者団体は、スカイトレインの運営会社、市当局、政府と交渉を続けてきた。この交渉経過を紹介して、タイの交通バリアフリーを求める運動の状況を考察したい。
 一九九〇年代に入って、タイの首都であるバンコクは、日増しに悪化する交通渋滞解消のために高架式大量交通機関の建設に踏み切った。この企画を知って、すべての障害種別団体から構成されるタイ国障害者協議会は、一九九二年にバンコク知事宛に、大量交通機関に障害者のアクセスを保障するよう要請書を提出した。知事は、この新たな交通システムが障害者を含むすべての市民が利用できることを約束した。知事はその後、この公約を多くの場で表明した。そして、一九九四年に建設が始まった。
 一九九五年七月に、外国のアクセス専門家から、スカイトレインには障害者のアクセスが含まれていない可能性があるから、建設を注意深くモニタリングする必要があるとの情報が障害者団体に届いた。この警告に従って、協議会は知事へ公約を守るようにとの書簡を直ちに送った。その書簡に、知事は、この交通機関はすでに設計済みで、障害者のアクセスには将来対応する、との返事であった。その解答を不服として、この交通機関が開通時には障害者が利用できるようにするとの知事の公約を遵守させるための運動が始まった。
 協議会はもし肯定的な返事がなければ、実力行使に出るとの警告を知事に出した。しかし、知事からなんの反応もなかった。そのため、協議会の代表者会議が開かれ、アクセス要求対策室を設置することを決定した。この対策室には、各加盟団体とのコミュニケーション、広報、人的サポートの確保、全体的な調整を担当する部門ができた。実力行使の日が、一九九五年十一月二十七日早朝と決定された。
 この日に向けて、準備が着々と進められた。デモ参加者の結集手段、プラカードの製作、国内外の団体への支援要請、マスコミに対応する人材の選定、プレスリリースの配布などが整った。地方の障害者にも参加の要請が行き、野宿覚悟で参加する者が大勢バンコクに結集してきた。
 二十七日午前五時、盲人、ろう者、肢体障害者、その仲間四五〇人が、民主記念塔の前に結集した。そのため、早朝のラッシュアワー時の交通渋滞が悪化した。ボランティアがデモの説明書を一般の通行者に配って理解を求めた。午前八時、一行は近くのバンコク市庁舎に向かった。盲人が車いすの後ろを押し、ろう者がプラカードを持ち、ゆっくりとデモは進んでいった。
 市庁舎に到着した一行は、市の役人代表に交通機関のアクセス要請書を手渡した。第一回の交渉は、七人の障害者代表と市の理事の間でもたれた。市代表が障害者のアクセスにはすぐには対応できないとの主張を繰り返し、第一回交渉は物別れに終わった。第二回の交渉が午後にもたれたが、その時も交渉は成立することなく決裂した。障害者の代表は、外で待つ障害者仲間と相談し、状況を検討した結果、首相に直訴する以外に方法はないとの結論にいたった。
 デモの一行は、八キロ先の首相公邸をめざして、交通渋滞の激しい中を行進した。一行の行く手にはピンカオ橋があった。この橋は、車の通行用で、橋桁が高く、車いすの障害者や、歩行障害者にとっては、渡ることが困難であった。それでも、盲人やろう者、ボランティアの手助けで無事全員が橋を渡った。橋を渡り終えたところには、五〇〇人を超えるデモ隊制圧の警察隊が待ち構えていた。首相官邸の五〇〇メートル前まで来て、デモ隊は止められ、グループ代表が官邸前で首相官邸の高官と話し合いが始まった。首相は不在で、障害者の要求は、十二月一日に改めて要求受け入れの会議を開くことで合意し、障害者のデモはその場で解散した。十二月の会議で以下の項目が合意された。

  1. エレベータは主要五駅に設置する。
  2. 電車の床と駅のプラットホームの高さを同等にして、障害者の乗り降りを容易にする。
  3. ろう者のために電車の発着のアナウンスを電光掲示板でも行う。
  4. 障害者の接し方に関する訓練を駅の係員に実施する。
  5. 障害者が開始日から電車を利用できるようにする。

 しかし、障害者の闘いはここで終わることにならなかった。
 その後、新しいバンコク知事が誕生したが、その知事も資金がないとの理由で、エレベータの設置を反故にする意向を示した。数十の要望書、交渉会議が継続された。デモの実施で自信を得た障害者の代表は、さらに情報の収集力がつき、市庁の役人のリップサービスやごまかしでは、もはや対処できない力に成長していた。新知事になって、さらに障害者の大衆行動が展開された。その結果、エレベータはほぼ予定通り設置され、障害者の利用が可能になった。
 開発途上国の交通アクセスを求める運動は、すでに始められており、タイやマレーシアで成果を上げている。途上国においても、障害者の権利擁護活動は着実な歩みを始めており、その動きが、一般市民の生活環境の改善に貢献する日もそれほど遠いことではない。

(たかみねゆたか ESCAP社会開発部障害者プロジェクト専門官)

※タイの障害者のデモの状況は、未発表の英訳報告書に基づく。

(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
2000年11月号(第20巻 通巻232号)