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さらば、「障害者」ブランド
高村光太郎著『智恵子抄』

倉本智明

 何年か前、ある盲人アマチュア・バンドがちょっとした注目を集めたことがある。テレビのドキュメンタリー番組をはじめ、マスコミで幾度となく取り上げられ、各地で催される福祉イベントなどでも引っ張りだこだったようだ。私も一度演奏を聴いたことがある。アマチュアであることを思えば、まぁ、下手ではない。けれど、このくらいのバンドなら、その辺のライヴハウスや学園祭をのぞけばゴロゴロしている。その程度のバンドだ。
 にもかかわらず、どうして彼らはかくも評判を呼んだのか。一つには、当初、あるプロのシンガーがこのバンドをバックアップし、コンサートを企画したり、メディアに紹介したりしたという事情がある。しかし、何よりも大きかったのは、彼らが障害者であったという事実だろう。でなければ、この歌手とて、月並みなアマチュア・バンドの後押しをするような酔狂なまねはしなかったはずだ。
 このバンドの例に限らず、障害者の創作活動・表現活動をめぐっては、かなりの確率でこうした現象が認められる。表現それ自体より、むしろ、演者や作者が何者であるかが問題とされるのだ。ふだん、美術館に足を向けることなどほとんどないのに、口に筆をくわえキャンバスに向かう障害者画家の個展には出かける人、一般的な陶芸作品の良しあしも分からないのに、知的障害者の焼いた器には特別な美を見い出せる人、こういった人間が実に多い。 
 確かに、健常者と異なるそのからだにのみ許される独特な表現や、独自な経験から生まれるオリジナリティーといったものも存在する。それらを核に、「障害者芸術」とでも呼ぶべき独自なジャンルやスタイルが生み出されることもあろう。しかし、この場合にも、評価されるべきはあくまで作品として結実されたそれであり、演者・作者の属性や経験そのものではない。
 障害者の創作活動・表現活動に対する人々の現在の態度は、ブランド名にばかり気をとられ、商品それ自体の良しあしについての判断を中止してしまうあまり賢くない消費者のそれのようである。福祉や障害者問題への関心が高い人ほど、この傾向が強いようにも思える。一体これは、何を意味するのだろうか。

(くらもとともあき 聖和大学非常勤講師)

<文学にみる障害者像 54>

花田春兆

 ウオーミングアップ不足のピンチヒッターである。しかもバットは傷だらけの半分しかない代物だ。これでは同じアナを開けるにしても、試合放棄したほうが、醜態をさらけ出さずに済む点で、プレイヤーとして観客への礼儀であるうとは思う。しかし、すでに審判にコールしてしまった以上、打席に立たないわけにはいかないのだ。
 というのは、事実上この欄の企画を担当している私が他事にかまけていて、気が付いた時にはしかるべき人に依頼するだけの時間的余裕を失っていた。
 で、「私が何とかしましょう」と安請合いしたのが悪かった。     

* * *

 詩集『智恵子抄』なら若き日の愛読書だったのだし、どこの図書館にもあるだろうし、参考文献も豊富なはず、とたかを括ったのが間違いのもと。
 いよいよ切羽詰まって駆け付けた近くの図書館のパソコン画面にはあるのだが、「盗まれたのでしょうね。現物は見つかりません」との係員の答え。
 やむなく春秋社版の『高村光太郎選集』の一冊を借り出してきたのだが、ここでまたミスとハプニングによる不運を重ねてしまった。
 その一冊には『智恵子抄』の後半が収録されているだけだったし、しかも信じられないことに解説文のその智恵子に関する数ページが、ものの見事に切り取られていたのだ。
 だがそれは逆から見れば、文庫本の紛失も、解説文の切り取りも、出版後六十年になろうとしているこの詩集が、今なお熱烈な読者を持つことの証明に違いないのだし、智恵子に精神障害が現れたのは死に至る数年間のことだから、障害者としての智恵子を見るだけならば、『智恵子抄』は後半だけで十分ということにもなる。
 もちろんそれだけでは余りにも哀しく、詩集としての価値・内容の厚みも幅も激減してしまうのだが・・・。

* * *

 そう、この詩集はその人の死後三年を経て、夫・光太郎が亡き妻・智恵子に捧げた、二人の出会いから高揚した新婚生活を経て、智恵子の精神病の発病、そして止めようもない悪化の一途をたどっての死、荒涼たる遺された者の生活の中に生き続ける面影に至るまでの、まさに深く純粋な愛の軌跡の結晶なのだ。
 〈樹下の二人〉に高らかに歌い上げられているように、智恵子はみちのくの山河に育てられた自然の申し子だったのだ。〈あどけない話〉で有名な〝東京には空が無い〟のセリフも、その大自然から引き離された者の嘆きだ。
 そうした生命の根から遠ざけられてしまった嘆きのうえに、今でいうストレスは大きく重なり合うのだった。
 村でも屈指の裕福な家庭に何不自由なく育った彼女が、いきなり定収入の無いくせに、意外な出費の多い芸術家の貧困な家庭を背負わなければならなくなったのだ。詩人・彫刻家・美術評論家、そして何より芸術家である夫を、第一の理解者として支えながら、しかも自分自身でも一個の芸術観を持って、実作に励む一人の作家でもあり続けようとしたのだ。
 二人を結びつけた洋画(光太郎も一時期洋画に熱中していた)は、家事(家計?)との関係で断念せざるを得なくなったのだが、その後も彼女は糸を自ら染めて織物を試みたり、病状が進んで入院生活になってからも、色紙を重ね合わせての切り絵によって、自分の美的感覚を形として示し続けて止まなかったのだ。
 そしてその切り絵こそ、変わらぬ愛を注ぎ続ける夫へ応える愛の言葉であり、彼女からの愛の詩だった。

* * *

 芸術と実生活、高揚と貧困、夫への支持と自己の充実、それらのせめぎ合いの狭間の中で、彼女の精神は止めどなく一つの方向へ進んで行くよりなかったのだ。
 自分を、〝精神の頽廃〟から救ってくれたその人。その人が確実な足取りで〝狂って〟いくのを、手の施しようもなく見守るしかない夫。耐えるにはあまりに酷しいが、耐えなければならない煉獄。しかも、詩人は詩によって現実を昇華し、煉獄の詩を歌い上げねばならなかった。宿命なのだろうか。
 〈風にのる智恵子〉〈千鳥と遊ぶ智恵子〉などは絶唱と呼ぶに相応しい。

尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることを
やめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は
絶好の散歩場
智恵子飛ぶ
       (風にのる智恵子)
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ
ちい、ちい、ちい、ちい、ちいー
人間商売さらりとやめて
もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽くす。
      (千鳥と遊ぶ智恵子)

 千葉県九十九里浜に転地療養して、人間界のしがらみを解き放って、大自然の中に還ってしまおうとしている智恵子。それを人間界に留まって見守り見送るしかない光太郎。しかも意識のある時は訪れる光太郎をひたすら待ち焦がれる智恵子なのだ。
 二人の愛の証は、今も詩碑となって九十九里の砂浜に語り継がれている。
 それは、狂い行く妻のうしろ姿を見守っていた夫のそれのように、いつまでも立ち尽くすのだ。

* * *

 海に臨んだ大自然の中での療養生活は、半年あまりで幕を閉じる。
 症状が進み医療の必要性が増して、東京に戻らざるを得なくなったのだろうが、智恵子自身が離れ住むことへの不安・不満を、強く訴えた結果だとも想像できよう。
 家事と看病を引き受けての自宅療養。それも、感情の起伏の波はますます強く激しく、時に凶暴性さえ示しはじめて目が離せなくなった人との生活である。さすがの光太郎も、仕事どころでなくなった苦悩を漏らしている。詩作も激減せざるを得なかった。
 ついに智恵子は病院に入院する。
 そして憧れ続けた自宅へは戻れずに瞑目する。夫の言を借りれば〝あまりに純粋過ぎたゆえの狂気〟に倒れたのである。
 死後、その病室から千数百枚に及ぶ切り絵が、自宅の台所からは醇成された梅酒が発見された。
 いずれも夫・光太郎への贈り物だった。

(はなだしゅんちょう 俳人)


<列島縦断ネットワーキング>

東京 「ロービジョンまつり」レポート

本多和弘

 去る九月十日(日)、東京都飯田橋のセントラルプラザにて「ロービジョンまつり」が開催され、弱視者の当事者はもとより、弱視児をもつ父母やリハビリテーション関係者、またバリアフリー製品に取り組んでいる各種メーカーの方々など、首都圏を中心に約一五〇組の参加者で大いににぎわい、成功裏に終了することができました。
 今回のイベントは、「できないをできるに変える道具との出会い」をメインテーマに据え、「弱視の人が企画し、弱視の人たちが集まれるイベント」をコンセプトとして準備を進めました。そもそもこの「できないをできるに変える…」というテーマは、昨年八月に発行した「見えない見えにくい人の便利グッズカタログ」(弱視者問題研究会編)の中で提唱されたものです。
 世の中には目が見えなくても視力が弱くても、それを補うさまざまな道具があり、それを有効に活用すれば日常生活を豊かにすることができる、でもまだまだこのような道具に出会っていない弱視者や弱視の子どもたちがたくさんいるのではないか…と考え、その出会いの場を作ろうという提案を、カタログの出版元である株式会社大活字の担当者の方からいただきました。
 イベントの準備は五月末から実行委員会形式でスタートしました。内容を検討する中でさまざまなディスカッションを行い、「便利な道具を体験できる常設展示コーナー」と「弱視者の、人の情報を伝えるための座談会」を大きな柱とし、展示メーカーの選定や座談会のメンバーの選出を行いました。
 これまで各地で行われている視覚障害者向けの機器展示会は、拡大読書器やパソコン用音声ソフト、拡大ソフト等、メーカー主導で「製品を展示する」という傾向が強く、利用者本位ではない部分があったように思われます。それを教訓として、「弱視者や視覚障害者が日常生活で何をするためにどのような道具が必要か」に焦点をあて、展示や座談会の内容を検討しました。たとえば弱視者や視覚障害者は、自分の書いている文字が見づらいため、往々にして字が汚くなったり、行が曲がってしまうことがあります。「手紙をまっすぐにきれいな字で書きたい」という目的を達成するために、何が必要かという観点で、音声ソフトや拡大ソフトを導入したパソコンとプリンターを用意し、簡単に体験できるように準備しました。
 また座談会については、「弱視者本人が自分の体験を語ることそのものが日常生活を豊かにするうえでのヒントになる」という考え方で、「拡大読書器であなたも読める、書ける」「ロービジョンのためのパソコン入門」「弱視君、弱視さんの学校生活Q&A」「生活の知恵、大技小技大公開」という四つのテーマを選び、これを語るにふさわしいメンバーを選定し準備を進めました。
 イベント前日まで準備に追われて、何とか開催当日を迎えることができました。常設展示は「大活字本」「ユニバーサルデザインを目指して」「ためしてみよう便利グッズ」「パソコンに触ってみよう」という四つのコーナーを設けましたが、どのコーナーも手にとって体験することができ、おおむね好評でした。
 特に「ユニバーサルデザインを目指して」のコーナーでは、ダイヤルを合わせて施錠する方式のものを、ボタン式に変更したタイプの郵便ポストや、給湯のスタートや温度設定の変更を音声で知らせるタイプのガス給湯器など、住宅関連の製品が数多く展示されており、バリアフリーの視点がさまざまなジャンルで浸透しつつあることを実感しました。
 座談会で印象に残ったのは、「生活の知恵、大技小技大公開」でした。スーパーでの買い物の時、どこに何があるかわからない場合は、近くの主婦を捕まえて目を借りてしまう二十代前半の独身男性の話、駅で運賃表が見えない時やホームが分からない時、駅員を捕まえてすべてを教えてもらう三十代半ばの三児の母親の話、マークシート式の馬券購入チケットに苦労しながら、喧騒の中で競馬を楽しむ三十代半ばの男性の話など、日常生活のあらゆる場面でどんな点に苦労し、どう克服しているかについて、それぞれ軽やかに語っていたのが印象的でした。
 今回のイベントの企画から準備、そして開催当日を通して印象に残ったのは、私たち弱視者を取り巻く状況が、想像以上に大きく変化していることです。「バリアフリー」「ユニバーサルデザイン」という言葉が社会に浸透しつつある中で、メーカー各社が真剣にこれに取り組んでいる姿勢を感じ取ることができました。また高齢化社会が進むことにより、ロービジョンの範疇に「高齢者」が加わりつつあることも実感しました。さらに、情報があふれていると思われていた東京でも、弱視に関する情報を求めてこれだけ多くの方々が集まってくる現実を踏まえ、弱視者、視覚障害者に対する情報提供について、改めて考える必要があると思います。
 今回のイベントを開催するにあたって、団体、企業、個人の枠を超えて多くの方々のご協力をいただきました。当日参加された皆さんと併せて、厚くお礼申し上げます。また時期や場所は未定ですが、来年以降もこのような企画をぜひ開催したいと思っていますので、ご意見等ありましたらぜひご連絡ください。

(ほんだかずひろ 弱視者問題研究会)

弱視者問題研究会
〒135-0015 江東区千石3-1-24-522
TEL/FAX 03-5665-6658
E‐mail z-honda@nifty.com

<二次障害考(2)>

二次障害なんて怖くない

玉井明

♪ひとつ山越しゃホンダララホイホイ
もひとつ山越しやホンダララホイホイ
越しても越してもホンダララホイホイ
どうせ、この世はホンダララホイホイ
だからみんなでホンダララホイホイ♪

 六〇年代当時クレージーキャッツの植木等が唄い、青島幸男が作詞した『ホンダララ行進曲』は、まさに障害者の二次障害の悲哀を端的に歌っている。私たち障害者の人生そのものが、幾度かの山を乗り越えて、現在の自立生活を勝ち取って、やっと得られたものだと思う。そのことは、重度障害者だけのことではなく、障害をもっている人全般に言えることでもある。
 私たちは時には頑張り、時には挫折を感じながら生きてきた。しかし、四十歳も過ぎるとその頑張りが、アダとなり、療護施設入居者がある日突然死んでしまう、いわゆる突然死が諸先輩方を襲ったことも少なくはない。一般的に全身性障害者及び中途障害者(脳性マヒ者を含まない頸髄損傷者や脳血管障害者など)の医療的なケアは確立され、どこの病院に行っても、それほど変わりがない治療が行われている。ところが、脳性マヒ者だけが、歳をとればとるほど医療から離れていってしまうのが現状だ。
 私のまわりの脳性マヒ者には、加齢とともに二次障害と思える障害、頸椎や腰椎がアテトーゼの緊張により変形する症状が出てきている。今まであまり注目されていないが、一九八六年日本社会事業大学の佐藤久夫先生が『脳性マヒ者の身体機能低下と健康問題に関する調査報告書』を出した。
 神奈川県においては、横浜市立大学の安藤徳彦先生と共同作業所全国連絡会との共同研究で、いわゆる環境や社会的要因を視野に入れた分析を行い、地域作業所の脳性マヒ者や療護施設の脳性マヒ者、また一般就労している脳性マヒ者の健康調査を行った。その結果、環境要因や社会的環境までを取り入れたリハビリテーションや医療的ケアが必要とされることが分かり、現在でも大きな課題となっている。しかし障害当事者も医療関係者も、あまりその問題には触れたくない、怖い問題とされ、あまり世に出てこない。実に困ったものである。
 私に頸椎症らしき症状が出たのが二十七歳。初期症状としては時々腕の付け根がピクピクしたり、すり傷のようなピリピリとした痛みを感じた。そして本当に変だなと気が付いたのは、三十歳位の働き盛りの頃で、職場でキャッチボールをやっていたところ、グローブに球が確かに入っているのに、ポロリと落ちてしまう。つまり握力低下が起こったのである。そして肩甲骨と脊髄の間あたりの肩こりがひどく、子どもの頃入園していた、元「県立ゆうかり園(療護施設)」で初めてレントゲンを撮り、診断を受けた。すると、頸椎の間が変形して、狭くなったと言われ、何も告げられず、痛み止めと緊張を抑える薬をもらった。
 その後三十五歳位になって、空を見上げたり、粉薬を飲む時に、痛くて上を向けない状態になった。朝起きると首が痛く、電気が走るような独特の痛みになってきた。我慢できず地域の開業医のところへ行き、ホットパックやけん引、さらに痛みのひどい時は局部注射を打ってごまかしながら、仕方なく仕事をしていた。四十歳になって急に足のつま先が上がらなくなり、地面につっかかってころびやすくなり、手も上がらなくなる神経症状が起きてしまい、神奈川の諸先輩方と同じ入院オペというコースをたどった(ちなみに私は、脳性マヒ者の頸椎症のオペのゴッドハンドと呼ばれている横浜南共済病院の大成克弘ドクターの七十七番目のオペの患者である)。
 私の場合、七本ある頸椎の三番から六番までが悪く、前方固定術で、後方は圧迫された神経を緩めるための手術を行い、針金を頸部に埋め込んで固定し、緊張を抑える治療を行った。つらい術後を耐え、リハビリを経て、一年後に職場復帰した。
 手術をしてみて思ったことは、完全にはよくはならないが、進行は抑えられたということだ。かつて、療護施設などで突然死してしまった人々は、頸椎の一番と二番辺りの神経が圧迫され、呼吸中枢に異常をきたして亡くなってしまったと大成ドクターは言っていた。
 今年の二月、腰椎の神経を圧迫している脊椎の変形を削るオペ(IPPP)をした。術後八か月になるが、頸椎の時のような固定術ではないので、いつどうなるかわからないが、頑張って仕事や地域生活をしている。
 結論として、医療や施設関係者は、脳性マヒ者の実態を把握しきれていない。ここに根本的な問題がある。トータルな人生を考えて、三十歳になったら医療チェックを義務付ける必要性を痛感している。そして、児童期のPT、OT、養護学校教師、親に、私たちの現実を把握したうえでのリハビリテーションを捉えてほしいと思っている。
 松坂大輔が果たしていつまで一五五キロというスピードのある球を投げられるか、それに近いものが脳性マヒ者にもあると思う。

(たまいあきら 厚木市障害者生活支援センター代表)


<ケアについての一考察 第12回>

振り子の落ち着き先を見極める時

鈴木徳子

 障害の状況、程度にかかわらず障害者が地域で生活するということは、何らかの形で「介護」を必要とします。自分の「介護像」を見つめ、私にとってのケア=介護とはどういうものかを考えてみたいと思います。
 私は、四歳の時に交通事故で胸椎の五番を受傷し、鳩尾から下が完全にマヒして、日常的には手動車いす(自走用)を使用している、いわゆる脊髄損傷者です。でも胸から上の機能は人一倍元気で、女性とは思えない逞しい肩幅、胸板(!?)、腕力を持ち合わせている女性です。
 ふだんの生活は民間のアパートを借り、玄関・風呂・トイレ・ベランダなどを改造し、一人暮らしをしています。収入は給料(週三日のパート勤務)+障害基礎年金一級+都と市の手当(二種)で、それですべてをまかなっています。問題の介護は、主に現在一日三時間、週六日の早朝ヘルパー派遣と外出時の不定期な介護を自薦の介護者に依頼しています。
 ここまでである程度、わたしの生活と介護のイメージをつくっていただくことができたでしょうか。
 それでは「介護」という視点で、これまでの私の生活を簡単に振りかえってみたいと思います。
 四歳の時に受傷し、それから二十三歳で家を出るまでの十九年間はドップリ「家族介護」に漬かっていました。風呂、トイレ、車いすからの移乗など、車いすに乗って平地を走っている以外はすべて何らかの介護を受けていました。旧式の和式風呂への入浴については、介護者の体力的な問題で家を出る前日まで父親が担っていました。
 自立しようと決めて三か月ほどのADLのトレーニングに入りました。それによってそれまで「自分一人ではできないと思い込んでいたこと」「本当にできないこと」「できること」「状況が整っていればできること」「いかなる状況であっても危ういこと」など、生活の一コマ一コマを分類・整理することができました。自分にとって曖昧かつボンヤリとした「介護像」からハッキリと色分けされた「介護像」が見えてきたのです。これは自分の介護を公的化する際のガイドラインを決める作業にとても役立ちました。
 そして、二十三歳から現在までの六年間は、さまざまなタイプの介護サービスを利用しながら自分の身体状況、生活パターンの変化(激動ともいえる流れ)を体験しました。それは、自分の「介護像」をそれぞれ具体的に実証するとても恵まれた環境とも言えました(まだまだ「~ing」の現在進行形ですが)。
 私にとってこの激動の中で「介護量」と直結するものは「身体状況」だけではなく、生活の中で多くの時間が費やされ、かつ社会的な自分の存在意味・生活の維持そのものがかかる「仕事」とのバランス関係でした。時にはこのバランス関係の中に、その時々の住宅環境、家族・友人をはじめとする人間関係が微妙に入り込み、振り子が揺れることはありますが、やはり、振り子が落ち着く場所に生活形態を持っていかなければ、「身体状況」が悪化する結果になるのでした。このように、いつもバランス関係を保つことに主軸を置く私の「介護」の決め方は、「振り子がどこで落ち着くのか見極める作業」の繰り返しでした。
 「自立生活センター」という障害当事者が運営しサービスを行う団体のスタッフとして働いている私の周りには、二十四時間全介護が必要+二人の介護が必要+技術的に固定の介護者(専従的)が必要な人など、「介護量」の視点からみると最重度の人が主体的な生活を創りだしています。こういう人は、振り切ってしまっている振り子をいかに中心に持ってくるかを考え、「介護」を決めることが最優先事項かと思います。
 では、最重度ではないけれど地域生活を成り立たせるうえで介護を必要とする人間にとっての最優先事項は?と考えると、いつも微妙に揺れている振り子をどこで落ち着かせるか、そのためには現状把握、状況判断力をつけることが何より大切だと思います。ただ、この判断力をつけることはマニュアルで学べることではなく、自分の体験によってしか得られない体験学習の積み重ねです。
 私たちに必要なことは、その体験が得られる介護のキャパシティーの確保をシステムとして存在、存続させることが一番必要であると思います。

(すずきのりこ CIL立川)


<ハイテクばんざい!>

ベンチレーターは、呼吸障害をもつ人の「生活道具」

安岡菊之進

1 ベンチレーター(人工呼吸器)とは・・・

 ベンチレーターとは、肺に空気を送り込む機械、つまり道具です。
自発呼吸のできない人、または夜間、あるいは昼間に補助呼吸の必要な人が使用するものです。
  ベンチレーターを使用する人は障害の種別を問いません。ALS、筋ジストロフィー、ポリオ、高位頸髄損傷、脳性マヒ、側わん、脳血栓、肺胞低換気症候群、睡眠時無呼吸症候群など、さまざまな障害をもつ人が使用しています。米国の最新の情報では、ぜんそくの人たちにもベンチレーターの使用が有効であることがわかり、その人数も増えてきています。
 まさに、歩けない人が電動車いすを使用するのと同じように、障害者のための便利な道具なのです。ベンチレーター使用者は、けっして「患者」ではないのです。
 ベンチレーター、人工呼吸器と聞くと、まだまだ「生命維持装置」というイメージばかりが先行してしまいがちですが、呼吸障害をもつ人のための「生活道具」なのです。電動車いすとちょっとだけ違うのは、ベンチレーターのしくみや呼吸に関する専門知識が少しばかり必要なだけです。
 ベンチレーターは健康保険の診療報酬によりリース(一台のみ)ができるようになっています。

2 ベンチレーターの種類としくみ

 日本では一九七〇年代まで、冷蔵庫ほどもあるような大きなベンチレーターしかありませんでしたが、八〇年代後半から小型のベンチレーターが在宅生活向けに販売されるようになりました。現在では以下の四種類に大別できます。

◎ボリュームベンチレーター(従量式陽圧人工呼吸器)

 これは、一回に送り込む空気の量(以下、換気量)を設定して決めて、その換気量分を肺に送り込むものです。在宅人工呼吸の主流です。

◎バイレベル従圧式陽圧人工呼吸器(BiPAP) 

 一回の換気量を決めて送り込まれるボリュームベンチレーターとは違って、これは、肺に空気を送り込んだ時の圧力によって、呼吸量が決められます。バイレベルですから、二段階の圧力設定ができるベンチレーターです。主に夜間の補助呼吸に使用されます。

◎持続性従圧式陽圧人工呼吸器 (CPAP)

 持続的に一定の陽圧を肺に与えることで、気道がふさがるのを防いだり、自発呼吸を補助するためのベンチレーターです。主に、睡眠時無呼吸症候群などの呼吸補助に使われます。

◎胸郭外陰圧式人工呼吸器

 前述の三つは陽圧のベンチレーターですが、これは肺に対して陰圧をかけて、呼吸させるものです。米国の「自立生活運動の父」と呼ばれる故エド・ロバーツ氏は、このタイプのベンチレーターを使っていました。「鉄の肺」とも呼ばれ、体全体や胸の部分を器具で覆って陰圧をかけます。
 これらのベンチレーターの中から、それぞれの呼吸障害に合わせてできるだけマッチしたものをドクターと相談し、設定値を決めていきます。たとえば、自発呼吸のない障害者が使う場合の主流である従量式陽圧ベンチレーターを例にしてみましょう。設定のポイントがいくつかあります。最終的には、本人がもっとも快適な呼吸であればよいわけです。

(1)一回換気量と呼吸回数

 一回に肺に送り込む空気の量と一分間の呼吸回数です。在宅人工呼吸療法の知識に乏しいドクターの中には、体重一○kgに対し一○○cc、分当たり一五回程度と杓子定規に設定するドクターがいますが、これは在宅でのベンチレーターを「生命維持装置」としてしかとらえていない設定値です。
 発声をしたり、社会参加をしているベンチレーター使用者の場合は、もっとたくさんの換気量が必要です。換気量、呼吸回数を低く設定してしまうと体力が衰え(もちろん過換気になってはいけませんが)、風邪などの病気への抵抗力も少なくなってしまいます。

(2)流速

 これは、吸気と呼気のバランスです。健常者が空気を吸って吐き出すときに、その状況に応じてさまざまなバランスがあるのと同じことです。ベンチレーターから送り込まれる時間を長くとったり、吐き出される時間を短くしたりなどの設定は、一○○人いれば一○○通りあります。

3 インターフェイス

 ベンチレーターから送り込まれる空気を取り入れる気道の部位と器具を、「インターフェイス」と言います。日本語に訳すと「換気連結器具」とでもなるのでしょうか。どこから空気を取り込むかは、その呼吸障害の状況によって、気管(気管切開)、口腔、鼻腔となります。気管切開には、気管カニューレ、口腔には、マウスピースやマスク、鼻腔にはネイザルマスクやネイザルピローというものを使います。どのインターフェイスにするかは、それぞれの呼吸障害と換気方法ととても密接な関係があります。

4 ベンチレーターを付ける時期

 呼吸が足りないということは、一日中、マラソンをしているような状態ですので、肺炎になって生きるか死ぬかの状態でベンチレーターを付けるよりは、できるだけ早めに、できるだけ体力のあるうちに付けるべきです。二酸化炭素の血中濃度の正常値は通常三五~四〇mmHgですが、これを超えたり、オキシメーターで測った血中酸素濃度(正常値は九五~九九%)が九〇%を下回るようでしたら、ベンチレーターの使用を考えなければなりません。専門病院で呼吸検査を受けるとよいでしょう。自覚症状としては次のようなものがあげられます。
◎肩で呼吸をしている
◎長く話すと頭が酸素不足でボーッとする
◎夜中に頭痛がして目が覚める
◎朝起きた時や午前中に頭痛がする
◎イビキがひどい
◎眠っている時に呼吸が止まる
◎極度にやせている
◎以前よりも風邪をひきやすくなった

5 「ベンチレーター=気管切開=声が出せない」という神話

 ベンチレーターを付けるというイメージは、気管に穴をあけベッドの上で一生機械につながれて生きるというイメージが先行します。が、自発呼吸があり補助呼吸だけでよい場合や、夜間のみの使用の場合は、多くは気管切開をしなくても鼻マスクからの呼吸ですみます。この場合、もちろん声を出すことは可能です。
 また、気管切開をしても、声帯を震わせたり□を動かしたりできない障害のある人を除いて、発声が可能なカニューレやバルブを使うことで、ほとんどの人が声を出すことができます。

6 外部バッテリーで外出が可能

 電動車いすなどに使用するバッテリーを外部バッテリーとして使用することで、ベンチレーターを付けても自由に外出できます。バッテリーの容量や機種によっては、二十四時間の作動が可能です。
 ベンチレーターを使用していても、どんどん社会に出て、自立生活をする仲間が増えています。

(やすおかきくのしん ベンチレーター使用者ネットワーク事務局長)