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ケアについての一考察 第12回

振り子の落ち着き先を見極める時

鈴木徳子

 障害の状況、程度にかかわらず障害者が地域で生活するということは、何らかの形で「介護」を必要とします。自分の「介護像」を見つめ、私にとってのケア=介護とはどういうものかを考えてみたいと思います。
 私は、四歳の時に交通事故で胸椎の五番を受傷し、鳩尾から下が完全にマヒして、日常的には手動車いす(自走用)を使用している、いわゆる脊髄損傷者です。でも胸から上の機能は人一倍元気で、女性とは思えない逞しい肩幅、胸板(!?)、腕力を持ち合わせている女性です。
 ふだんの生活は民間のアパートを借り、玄関・風呂・トイレ・ベランダなどを改造し、一人暮らしをしています。収入は給料(週三日のパート勤務)+障害基礎年金一級+都と市の手当(二種)で、それですべてをまかなっています。問題の介護は、主に現在一日三時間、週六日の早朝ヘルパー派遣と外出時の不定期な介護を自薦の介護者に依頼しています。
 ここまでである程度、わたしの生活と介護のイメージをつくっていただくことができたでしょうか。
 それでは「介護」という視点で、これまでの私の生活を簡単に振りかえってみたいと思います。
 四歳の時に受傷し、それから二十三歳で家を出るまでの十九年間はドップリ「家族介護」に漬かっていました。風呂、トイレ、車いすからの移乗など、車いすに乗って平地を走っている以外はすべて何らかの介護を受けていました。旧式の和式風呂への入浴については、介護者の体力的な問題で家を出る前日まで父親が担っていました。
 自立しようと決めて三か月ほどのADLのトレーニングに入りました。それによってそれまで「自分一人ではできないと思い込んでいたこと」「本当にできないこと」「できること」「状況が整っていればできること」「いかなる状況であっても危ういこと」など、生活の一コマ一コマを分類・整理することができました。自分にとって曖昧かつボンヤリとした「介護像」からハッキリと色分けされた「介護像」が見えてきたのです。これは自分の介護を公的化する際のガイドラインを決める作業にとても役立ちました。
 そして、二十三歳から現在までの六年間は、さまざまなタイプの介護サービスを利用しながら自分の身体状況、生活パターンの変化(激動ともいえる流れ)を体験しました。それは、自分の「介護像」をそれぞれ具体的に実証するとても恵まれた環境とも言えました(まだまだ「~ing」の現在進行形ですが)。
 私にとってこの激動の中で「介護量」と直結するものは「身体状況」だけではなく、生活の中で多くの時間が費やされ、かつ社会的な自分の存在意味・生活の維持そのものがかかる「仕事」とのバランス関係でした。時にはこのバランス関係の中に、その時々の住宅環境、家族・友人をはじめとする人間関係が微妙に入り込み、振り子が揺れることはありますが、やはり、振り子が落ち着く場所に生活形態を持っていかなければ、「身体状況」が悪化する結果になるのでした。このように、いつもバランス関係を保つことに主軸を置く私の「介護」の決め方は、「振り子がどこで落ち着くのか見極める作業」の繰り返しでした。
 「自立生活センター」という障害当事者が運営しサービスを行う団体のスタッフとして働いている私の周りには、二十四時間全介護が必要+二人の介護が必要+技術的に固定の介護者(専従的)が必要な人など、「介護量」の視点からみると最重度の人が主体的な生活を創りだしています。こういう人は、振り切ってしまっている振り子をいかに中心に持ってくるかを考え、「介護」を決めることが最優先事項かと思います。
 では、最重度ではないけれど地域生活を成り立たせるうえで介護を必要とする人間にとっての最優先事項は?と考えると、いつも微妙に揺れている振り子をどこで落ち着かせるか、そのためには現状把握、状況判断力をつけることが何より大切だと思います。ただ、この判断力をつけることはマニュアルで学べることではなく、自分の体験によってしか得られない体験学習の積み重ねです。
 私たちに必要なことは、その体験が得られる介護のキャパシティーの確保をシステムとして存在、存続させることが一番必要であると思います。

(すずきのりこ CIL立川)