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北米における権利擁護とサービスの質に関するシステム

ADA(障害をもつアメリカ人法)10年の歩みと、日本における障害者権利法(JDA)の方向性(その4)

北野誠一

議会を中心とするADA成立のプロセス

 ADAの原案が、〝Americans with Disabilities Act of 1988〟という形で法案となったとき以来、ADAの成立をめざす障害当事者団体とそれを支援する団体の連帯システムとしての〝障害者市民連合(CCD)〟と、その内部委員会である〝市民的権利対策委員会(Civil Rights Task Force)〟の中心的役割は、1.議員の啓発、啓蒙、ロビー活動、2.議員にプレッシャーをかけるための全米の草の根システムの動員、3.法案の分析とそのレベルアップであった。ADAを勝ち取るために全米の草の根団体が連帯して行動することが生み出したものは、ある意味でADAの獲得以上にすばらしいものであったと言われている。それは次の三点である。
 1 それは何より自らの差別された体験を語ることによって、内なる抑制、抑圧を解き放ち、ひとりぼっちで我慢することではなく、多くの同じ差別を体験した仲間と連帯して戦うことによるエンパワメントを獲得したことである。
 2 そしてもう一つは、他の種別の障害者の悩みや困難を知ることによって、障害者同士の差別意識や偏見の壁が徐々に取り崩されて、真の理解と連帯が築かれたことである。
 3 さらにそのようなエンパワメントされた障害者が多くの議員や国会関係者や関係市民と出会うことによって、彼らをこれまでの固定された無力で依存的な障害者像から解き放ち、障害者とその支援者との間に真の連帯が生まれたことである。
 一九八八年法案は、結局審議未了で廃案となってしまうのだが、その審議の中でいくつかの問題が持ち上がり、それをクリアした形で、一九八九年法案が作成されることとなった。
 一九八八年法案の問題点とされたのは、以下の三点であった。
 1 法案が両院を通過するためには、障害者勢力だけでなく、ビジネス界のサポートが必要不可欠であり、そのためには全面的なアクセシビリティーをすぐに求めるのではなく、次世代における完成をめざして、実行可能な時間差を設ける。
 2 障害者の定義等について、既存の法律(リハビリテーション法)との整合性が必要である。定義等が曖昧であると、裁判が多発し、そのことによってビジネス界はもちろん、障害者勢力も無駄な時間と出費を強いられる可能性が高い。
 3 障害者の場合、機会の平等は黒人や女性のようにドアを開けばよいだけでなく、時にはドアそのものを広げて取り替えなければならないゆえに、そのコスト負担について、既存の建造物についてはバリアフリーではなく、“容易に達成可能な改造(Readily Achievable Modification)”という概念を用いることによって、ビジネス界の高負担感を和らげる。
 次に一九八九年法案が、一九九〇年七月二十六日に正式に法律となるまでの経過を追ってみよう。
 1 ADAの共同発議者や積極的推進派議員には、障害当事者や家族に障害者をもつ議員が多かったことは、つとに有名である。考えれば、アメリカ国民の一七%である四三〇〇万人が障害者だとすれば、家族や友人に障害者のいない人など存在するはずもなく、そのことがこのADAを積極的に支援するまではいかなくとも、反対できない要因の一つであった。当時のブッシュ大統領もまた障害児の父親であった。国会において次々と自分自身や両親、兄弟・子どもの障害について語る議員の議会録を見ると、文化の違いもさることながら、障害者運動がADAの支援者・支持者を求めて、少しでも障害と関係のある議員を探し出したその熱意には、執念を感じざるを得ない。
 2 一九八八年法案の問題点を修正した一九八九年法案はまず上院に提出された。というのは、上院は一つの委員会を通過すればよく、下院のように各種委員会が選挙民の利害の調整と妥協の場となることなく、それなりに市民権の理念について議論が可能なためであった。上院はケネディ議員等の尽力でほとんど変更なく通過した。
 3 下院は予想通り、各委員会でさまざまな修正案が続出した。問題は一定以上の妥協が行われれば、今度は障害者勢力がADAそのものを見放してしまう危険性もあり、どこまで妥協するかが問われることとなった。
 4 下院で大きな修正がなされないように、障害者勢力は全米の草の根団体を動員して、地元選出議員にプレッシャーをかけた。面会、電話、ファックス、手紙等はものすごい量に及んだようである。下院のドゥレイ議員は、その反対演説で、「そのすさまじいロビー活動には恐怖さえを覚える」と述べているほどである。地域性の強い下院議員にとっては、地元での強い要望は無視しがたいものであり、ADAの勝利の基盤もそこにあった。
 5 結局、法案の第二章、第三章で既存の電車やバス等については、ビジネス界の状況等に応じて段階的にアクセスが求められることとなったが、新規購入物については、すべてアクセシブルであることが貫かれた。
 6 また移動交通に関しては、リハビリテーション法五〇四条項が解釈自由だったこともあり、できる限り厳密な表現がとられることとなった(そのためかなりADAは長文の法案となった)。
 7 住居とサービス機関を結ぶパラトランジットの移動サービスは、応益負担が無理で、予算に限界があるが、固定路線は利用者全体としてバリアフリーに対する費用負担が可能である。そのことも踏まえて、固定路線をメインとし、それが困難な場合に補助的にパラトランジットを使う方式とした。
 8 ビジネス界も大統領も反対した、法律違反に対する一般的な損害賠償以外に懲罰的損害賠償(Punitive damages)を付け加える問題については、民主党が障害者団体と共に見事な戦略を講じた。つまり、市民的権利法と連動することによって、市民的権利法で規定された以上の賠償を求めないことを確約しておいて、ADA法案が通過すると同時に、懲罰的賠償の条項を組み込んだ〝Civil Rights Act of 1991〟を勝ち取ることによって、悪質な差別については懲罰的損害賠償への道を開いたのである。ADAのような差別を禁止する法律では、金銭的損害賠償の強制力が不可欠である。そのことによって、法を破ることは法を守るよりも金がかかることが周知徹底されるからである。
 9 下院の修正案と上院の案が最後まで折り合いがつかなかったのが、下院のチャンプマン議員の修正案である。チャンプマン修正案は、エイズに対する無知と偏見に基づく提案であり、エイズ等の感染症者を食品を取り扱う部署から外すことができるという修正案であった。この修正案は下院を通過した。障害者団体はこの修正案に対して徹底的な反対キャンペーンを行った。この問題で、障害者団体の結束が崩れることはなかった。もし崩れていれば、次々と修正案が提出されて、精神障害者等がADAから排除されてしまう可能性すらあったのである。障害者団体は、反差別法に公然と差別と偏見が持ち込まれることの危険性を敏感に感じ取り、それを許さなかったのである。障害者団体の強い圧力のもと、結局両院協議会において、チャンプマン修正案は否決された。
 10 そして、一九九〇年七月二十六日に、当時のブッシュ大統領が署名することによって、正式にADAは成立することとなるのだが、その時の大統領の演説の一部を引用することとしたい。
 「この歴史的な法律は、障害をもつ人々の平等に関する世界で初めての包括的な宣言であります。この法律が作られたことによって、我が国は人権問題に関する国際的リーダーとしての位置を確立しました。そして既に、スウェーデン、日本、EECの一二か国を含む他国のリーダー達は、同様な法律を作りたいとの意向を表明しております。…この法律が制定されることによって、すべてのアメリカ人が、生命、自由、幸福の追求に関して基本的な保障を奪い取られることのない日が目前に近づいているのです。」(注1)

ADA制定後十年間の歩み

 これまではADA制定に至るプロセスを見てきた。次に、ADA制定後の十年間に、ADAがアメリカ社会にもたらした成果と残された問題を見ていきたいと思う。
 ADA十周年を記念して、次々とADA十年間の成果と問題点をまとめた報告書が出されている。この章では主に、次の三つの機関の報告書を取り上げてみたいと思う。

1 全米障害者評議会(NCD)による報告書

 〝守られるべき約束―連邦政府によるADA施行の十年〟(注2)
 これは五〇〇ページを超える問題提起の書であり、ADA施行上の問題点についても厳しく言及している。

2 平等雇用機会委員会(EEOC)による報告書

 〝EEOCによるADA施行のハイライト〟(注3)
 EEOCはこれ以外にもADAに関するさまざまな報告書を出している が、特に方針についての手引き書(Policy guidance)(注4)は重要である。

3 連邦法務省(DOJ)による報告書

〝ADAの施行-十年間の進歩を振り返って〟(注5)
 これは法務省版ということもあって自画自賛の感は否めない。カラー写真入りの楽しい報告書である。DOJはADA施行の中心機関であり、そのために年に四回、ADAの施行についての詳細な報告書(Enforcing the ADA)を出している。

EEOCにおけるADA第一章施行十年の歩み

 ADA第一章「雇用」に関する障害者差別の問題に対応する機関は、EEOCであるので、まずEEOCの取り組みについてみてみたい。

(1)EEOCの歩み

 実はEEOCは今年創立三十五周年にあたり、これまたさまざまな記念式典等が行われている。三十五周年を記念してEEOCが出した〝機会平等への約束の実行に向けた三十五年間〟(注6)は、EEOCの歴史が映像と音声を含めて概観できる楽しい報告書である。
 ADAの基礎となった一九六四年の市民的権利法に基づいて、一九六五年に創立されたEEOCは、その初期においては、調停が失敗した場合に、相手を裁判に訴える強制力を持たないがゆえに、〝牙のない虎(Toothless Tiger)〟と呼ばれていたという。
 その後一九七二年、平等雇用機会法(Equal Emplayment Opportunity Act of 1972)で、EEOCは調停が失敗した場合に、相手を裁判に訴える権限を得ただけでなく、不服申し立てがなくとも悪質なケースは調査等を行う権限も得た。さらに連邦政府、州政府、自治体における雇用差別についても、その管轄となっただけでなく、雇用者数が二五人以上から一五人以上の事業所がその対象となった(ADAもまた、一九九二年から一五人以上雇用者のいる事業所に適応されている)。一九六○年代の〝牙なき虎〟は、その牙を得て雇用における人種差別・宗教差別・女性差別と戦うこととなった。
 EEOCは一九八〇年代後半の最高裁における揺り戻しを経て、一九九〇年にはADA、一九九一年には〝一九九一年の市民的権利法〟(Civil Rights Act of 1991)という形で障害者の雇用差別を組み入れ、また五〇〇人以上を雇用する事業所においては、故意の悪質な差別に対して三〇万ドル以下の懲罰的損害賠償を科することができることとなった。
 一九九〇年代はそのこともあって、不服申し立て件数が増大し、一九八九年の五万九〇〇〇件が、一九九四年には九万一〇〇〇件に達し、不服申し立てが受理されてから一応の解決を見るのに平均一年近くを必要とする事態となった(ちなみに年間不服申し立て件数の約二割が障害者に関する雇用問題である)。そこでEEOCは、新しい実行計画(Nation Enforcement Plan;NEP)(注7)を立て、その効率性を図ることとなった。

(2)NEPの基本的戦略

 NEPの戦略は、以下の三段階を基本としている。
 1 まず当事者である事業所と被雇用者に対する教育・啓発・技術的アドバイス等によって問題発生を予防する。EEOCがさまざまな方針についての手引き書(Policy Guidance)を出しているのはそのためであり、当事者は事前の学習やアドバイスによって、トラブルを防ぐことができるからである。
 2 次に、当事者間の問題解決に向けた自発的な取り組みを支援する。その際にEEOC自体が調停に乗り出すプログラムだけでなく、民間の第三者調停サービスによる仲裁(Mediation)プログラムを選択肢として導入する。
 3 最後に、自発的問題解決に向けた取り組みが失敗した場合には、裁判を中心としたより強制力のある手段をとる。裁判の有効性は、そのケースにおける障害者の救済のみならず、それが事業所一般に強いプレッシャーとなる点である。また裁判による強制力を保持することによって、事前に自発的に調停に応じるケースも増えるわけである。

(3)不服申し立てからさまざまな解決に至るプロセス

 障害者が、事業所への就労申し込みから昇進や解雇といった雇用にまつわるすべての問題に対して、それが障害者差別によるものだとの認識のもとに、EEOCに不服申し立てを行った場合は、それは図のフローチャートのいずれかの解決の道筋をたどることとなる。ここではこの図の各項目について、少し解説しておく(ただしこの図は民間事業所及び自治体の障害者雇用には適用されるが、連邦政府の障害者雇用には適用されない)(注9)。
1 不服申し立て
 基本的には障害者個人または集団による不服申し立てが要件であるが、不服申し立てがなくとも、EEOCコミッショナーによるコミッショナー不服申し立て(Commissioner Charge)が可能である。
2 インテイク
 インテイクは一九九五年のNEPと 一九九九年の包括的実行プログラム(Comprehensive Enforcement Program;CEP)によって、しかるべき専門職によってなされることで、効率的かつ効果的に次のプロセスに移行することが期待されている。
3 EEOC介入プログラム
 EEOCの専門調査官が介入する一連のプロセスである。NEPとCEPにおいては、特に調査官と弁護士等の法律専門家の連携の強化が強調されている。
4 メディエイションプログラム(第三者仲裁プログラム)
 一九九七年に始められた民間の代替的問題解決プログラム(Alternative Dispute Resolution Program)を使った、不服申し立てに対する仲裁プログラムである。これはEEOCが委託した中立的なメディエイター(仲裁者)による双方合意のうえでの仲裁であり、行政上の介入とは異なる、代替的問題解決プログラムである。
 これまで二〇〇〇ケースがメディエイションプログラムにかけられて、六割が成功している。メディエイションプログラムのメリットは、その解決プログラムの迅速さであり、行政介入プログラムの約半分の一五〇日である。
5 合理的根拠なし
 調査の中で明らかになった証拠に基づいて、差別が起こっていると信ずるに足る合理的根拠がないとEEOCが決定したケースである。
6 私的訴訟
 EEOCの決定に対して、不服申し立て者は個人的に訴訟を起こす権利を行使することもできる。
7 合理的根拠あり
 調査の中で明らかになった証拠に基づいて、差別が起こっていると信ずるに足る合理的根拠があると決定したケースである。合理的根拠に基づいて、以下のさまざまな解決のパターンがあり得る。
8 EEOC介入打ち切り
 何らかの理由で不服申し立て者がEEOC介入に協力しなかったり、途中で取りやめるケースである。
9 協定書付き和解
 文章化された協定書によって、訴えた障害者の側の利益が保障されたケースである。一般にセツルメントのある和解は、広くインターネット上で検索可能であり、他の類似したケースの参考例となる(注10)。
10 成功調停
 調停において、不服申し立てをした障害者の側に実質的な利益がもたらされるケースである。
11 不成功調停
 差別の合理的根拠がありながら、調停がうまくいかず、不服申し立て者に利益をもたらさなかったケースである。EEOCの方針に基づいて、裁判を起こすかどうかが検討される。
12 利益を伴う不服申し立ての取り消し
 不服申し立て障害者の側が、好ましい利益を得ることを相手側から約束されて、不服申し立てを引っ込めるケースである。
13 訴訟
 不成功調停において、EEOCの方針に基づいて社会的関心が高く、そして雇用のバリアをなくすためにも重要なケースは、裁判を起こすこととなる。訴訟を起こしたケースにおいては、その九割が不服申し立て者に利益をもたらしている。
 利益をもたらす方法は二つある。一つは、裁判上の和解(consent decree)による利益であり、もう一つは裁判の判決(judgement)や評決(verdict)による利益である。

(きたのせいいち 桃山学院大学)

図 EEOCの障害者の雇用差別に対するから
   さまざまな解決にいたるフローチャート(注8)

図 フローチャート

(注)数字は1999年度の障害者の雇用差別に対する
EEOC介入プログラムの件数とその解決された内訳の件数と割合である。

(注1)大統領の演説については翻訳が出ている。中野善達・藤田和弘・田島裕「障害をもつアメリカ人に関する法律・翻訳・原文・資料」(湘南出版社、一九九一)。ほぼこの訳文を使わせていただいた。ADA本文の訳も参考にさせていただいた。
(注2)“Promices to Keep:A Decade of Federal Enforcement of ADA”(NCD 2000)
(注3)“Highlights of EEOC Enforcement of the ADA”(EEOC 2000)
(注4)Policy Guidanceの中で“Enforcement Guidance:Reasonabie Accommodation and Undue Hardship under the ADA”(EEOC1999)は重要である。
(注5)“Enforcing the ADA:Looking Back on the Decade of Prpgress”(DOJ 2000)
(注6)“35 Yers of Ensuring the Promise of Opportunity”(EEOC 2000)
(注7)“US EEOC National Enforcement Plan”(EEOC 1997)
(注8)図を作成するにあたって、EEOCの“ADA Charge Date 1992‐1999”や“EEOC Enforcement Activities”等を参照した。
(注9)連邦政府の雇用差別については一九九九年に新しいマニュアルが作成され実施されている。
EEOC Management Direction 110(EEOC MD110)(EEOC 1999)
(注10)EEOCのセツルメントの例や裁判上の和解や判例等は、EEOCのホームページ(www.eeoc.gov)で検索できる。