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文学にみる障害者像

『松葉杖をつく少女』
素木しづ著

佐々木正子

 「素木しづ」(しらきしづ)、現在の私たちにとってはなじみの無い名前ですが、近代文学史をひもとくと、宮本百合子と並ぶ程の才ある女流作家として評価され、作品もこの処女作『松葉杖をつく女』をはじめ『三十三の死』『青白き夢』『晩秋』『美しき牢獄』ほか40本近い作品を世に送り出しているのです。ところが活躍できた期間がわずか5年。しかも18歳からの5年間だけでこの世を去ってしまった「素木しづ」。
 彼女はどのような女性だったのか、作者自身以外の何ものでもない主人公水枝の登場する『松葉杖をつく女』を検証してみようと思います。そこからおのずと彼女の障害の捉え方、彼女にたいする家族の接し方、またその時代が障害者をどのように見ていたのか、そして何より彼女がどのような人生を全うしたのかが、分かるだろうとおもいます。
 小説は水枝という18歳の少女が結核性の関節炎によって右足を膝上から切断するという運命に遭い、希望にふくらむ未来が、すべて自分の前から永遠に消えたような喪失感に襲われる。そんな水枝がもう一度生きてみようという気持ちになるまでの半年間の心の変化を、飾らない素直な表現で書かれている作品です。書き出しは主人公水枝が足の切断手術を終え、退院日を間近にひかえた病院の情景からはじまります。

 「何処がお悪くいらっしゃいますか。」
 隣室の人等がつれづれに来て訪ふ時、水枝は淋しそうに微笑んだ。そして何か胸が踊るようにいらいらした。
 「足ですの」
 「あのリュウマチでも」
 「いいえ」水枝は毛布の上に手を重ねてヂッと見て居る。けれどもその人は容易に言ひあてさうもないので、苛立たし相に、その人の驚きを予期する様な瞳を据えて、「切断したんです」さう言った時の相手の人の表情と言葉とを、どんなに暗やかな復讐的な瞳で眺めやったか、解らない。こんな事が幾度あったろう。

 障害を受容するには、幼児期に障害を負った場合には比較的スムーズに受容がおこなわれますが、しづのように思春期のただ中で障害を担わなければならない時は精神的葛藤が大きいのです。その葛藤の揺れがこの小説のあちこちに見られます。

 水枝は人に片輪になったのが悲しいから泣くと思われるのが何より厭だった。片輪になったなんて何でもありはしない。丈夫になって帰って来たのが、自分が生きて居るのが、之から生きて行くと云ふのが悲しいんだ! 自分の涙も悲しみも皆生きていく事にあるのだ。

 水枝はここではっきりと「障害者として生きるのが悲しい」というのです。つまり水枝は、自分に与えられた障害を受け入れて生きるのではなく、障害者となった自分を徹底して否定すること。そのエネルギーを原動力として激しく短く死に急ぐ生き方を決意するのです。

 どんな些細な仕事でも、または大きな仕事でも水枝は忽ち死をかけた。それが此上もない尊いことの様に、けっしてけっして廃人とは言われたくない、自分は何でも出来ると云ふ考へが深く根ざした。
 どんな事があっても必ず縫って見せる。死んでも 水枝はこんな事にでも死をかけると云ふ勢いであった。

 障害を受容するのは、本人はいうに及ばずその家族にとっても大きな心の変化となって現れます。それは水枝の最も理解者であった兄の言動に見られます。水枝が兄に地味なものでいいからリボンを買ってきてと頼むのですが、結果は、「リボンなんて掛けるのは可笑しいよ。お前はなにも掛けずにそうしていた方が一番いいんだよ。お前には解るまいが…」
そして母にいたっては

 「お前、そのまま尼になったらどうだい。」
 水枝の髪が剣の様な冷たさに慄へて、首筋にぴたりと巻きついた。
 「どこか大きな尼寺にでも入って 髪を洗った時、そのままそり落として」
 鐘は絶えず鳴って居た。母子は暗黒な部屋に枕をならべて娘の眼は大きく開き、母は夢見る様に安らかに閉じて居た。水枝は暫く首に巻きついた髪を手でよけながらほっとして、
 「阿母さん」と呼んだ。

 家族の対応は水枝の考える以上に自分を特別な存在として見ていたのです。控えめに他人の着物でも縫って生きていこうと決めたのに、周りはそれ以上に惨めな屈辱的な人生を考えていたのです。水枝にとっては驚愕でした。片足を切断したというだけなのに、なぜここまで歩んできた人生と全く違う人生を歩まなければならないのか。
 いまから80年以上も前の大正時代のこと、何の福祉的配慮も無かった時代ですから、家族が世間体をはばかってしまうのも無理からぬことでした。しかし素木しづは『松葉杖をつく女』の終わりにこう書きます。

 「水枝はその頃からすべてに反抗する様な、そして自分は偉くなって、すべての人を見返してやらなければならない様な気がして、ある大きな仕事に手がつかない様にそはそはして居た。…」

 女学校時代から小説を書くことが好きだった素木しづは文学の道に入っていきます。筆力もあり、内容がセンセーショナルなこともあってすぐに文芸雑誌が取り上げたのです。さらに彼女は文学だけでなく絵画の創作にも打ち込み、画家の上野清貢と恋愛のすえ結婚、一児をもうけます。そして5年の間に40本以上の作品を書き上げます。
 何事にも死をかけてやりとげた素木しづの人生は、障害者となった自分をこの世から消し去るように短く燃焼し尽くしたのです。水枝が語る次のような言葉にその思いの片鱗が見られます。

 「健康な不具者!何という浅ましい言葉であろう。病は尊いものである。美しいものである。優しいものである。」

(ささきまさこ しののめ編集長)


〈文献〉

『日本近代文学大系48』大正短篇集、角川書店、1972年