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2002年の「アジア太平洋障害者の十年」
最終年は日本で

松尾榮

はじめに

 1999年マレーシア大会の総会の席上、私は日本の代表としてあいさつするよう指示をされた。「いつもこの大会に車いすで出席されていた八代英太国会議員は、日本の障害者が熱望していた郵政大臣に就任されました。八代大臣から『今回は出席できませんのでアジア各国の皆様にくれぐれもよろしく』との伝言がありました」と申し上げると、アジア各国の皆様からどっと大きな拍手があり、感動した。
 審議に入り、2002年の最終年記念フォーラムについて、私は早速手をあげ、2002年はぜひとも日本で開催していただくよう提案した。その提案理由は三つある。

1、いまあいさつで申し上げたように、八代英太郵政大臣が誕生した。また、橋本龍太郎元総理大臣は障害者の福祉については大変理解があり、日本の政府に理解が得やすい唯一のチャンスである。今日は、障害者の代表である堀利和参議院議員にも出席していただいている。きっとこの雰囲気を肌で感じていらっしゃるので、応援してくださるだろう。
2、国際障害者年の記念施設として、大阪府に障害者国際センター(仮称)ができ上がる。そのこけら落としとして2002年の大会を開きたい。
3、日本の障害者500万人は、日本での開催を強く望んでいる。また、日本の国民も皆様のお越しを待っている。

 以上三つの理由を申し上げたところ、2002年の大会は日本で開催することに、各国の皆様一斉に拍手で賛同していただいた。

いままでの大会に参加して

 韓国大会では、各国の障害者団体代表による実情報告があり、私は日本代表として報告をした。同時通訳でなかったので大変な時間がかかった。その時に、今後の課題として、各国の福祉の実情をまとめたものがほしいとお願いをした。いまでも必要だと思っている。
 マレーシア大会の研究部会の時、私はマレーシア団体の実情と活動を質問したが、生活するのが先であり、働く場を求めることで手一杯という返事であった。

107項目の質問について

 それぞれの障害者団体から答えるように指示されたが、中味を見て驚いたことが二つあった。
 その一つは「勧告」という表現を使用していたことである。私は団体の代表であっても勧告はできないと異議を申し立てた。原語の直訳だからあまり気にするなとのアドバイスもあったが、私がこだわったら、最終的には「目標」になっていてホッとした。
 もう一つは、この評価は日本を代表するものであるとの考え方を示されたことである。私は日本を代表するものであれば、中央障害者施策推進協議会等での結論であるべきとの申し出をして、結果的には、日本の障害者団体の評価であることになり、安堵している。
 この評価は大変なバラツキがあり、それぞれの見方の差が出ていて、この評価が一人歩きしないことを願っている。

バンコク会議に出席

 日本身体障害者団体からの参加者の意見は、次のとおりである。

○会議は、その国の慣行もあるが、日程時間帯どおりに進行してほしい。
○日本から170人も参加していたが、資料は英語ばかりで十分な理解ができなかった。
○分科会では、一部しか日本語の通訳がなく、限られた分科会にしか参加できなかった。全分科会に同時通訳が必要である。
○発言者は自国語で発言するのがよい。

終わりに

 2002年の最終年記念フォーラムを日本で開催するため、組織委員会・実行委員会・国会議員連盟等を組織して、着々と準備を進めているが、最終年にふさわしく参加者が納得でき、満足できるものであってほしいと願っている。
 アジア太平洋障害者の十年の締めくくりとして、きちんとした成果が出ることが望まれる。そのためには、各国の障害者団体の代表者による発言が必要であろうと考える。
 各国の福祉実情がよく分かる資料を前もって配布し、研究討論の参考としたい。今までの分科会の発表者がどういう経過で選任されているか、よく分からない面があるが、少なくとも障害者団体の代表、もしくは団体から推薦される者であるべきではないだろうか。
 各国から多くの参加者があるので、通訳について特段の配慮が必要で、会議のほか、観光への案内にも十分気配りをして、日本の文化を理解していただくチャンスだと思う。
 参加者への記念品は全国の障害者授産所の製品を配布したいものである。また、作品の展示販売にも力を入れていきたい。
 これからのアジア太平洋障害者の十年の目標をどのように決めていくか、具体的に行動計画を打ち立てる必要があると思う。

(まつおさかえ 社会福祉法人 日本身体障害者団体連合会会長)