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会議

第7回ピープルファースト大会
in 東京

本田明夫

 2000年という大きな年に、「第7回ピープルファースト大会in東京」が千葉県幕張のOVTA(オブタ)で開催されました。私はこれまでに「育成会全国大会」や「全障連大会」に参加したことはありましたが、「ピープルファースト大会」への参加は初めてでした。ピープルファースト大会は、全国各地から知的障害当事者が集結し、当事者が実行委員会を作り、企画をし、行う大会でした。
 1日目の全体会1.では10分間スピーチ「全国のなかまのはなしをきく」、2.では「厚生省にきこう」が行われました。
 知的障害当事者たちの10分間スピーチは、全国から募集をして今回は5人の人が発表しました。その中で、東京日野市から来ていた当事者の方が、次のようなことを発表していました。「僕は施設に入っています。3日前までは、施設の園長にオブタで行われるピープルファースト大会へ行ってはダメだと言われました。その理由は、僕はカイセンという病気をもっているから、園長や職員全員は人に迷惑をかけてはいけないと言いました。ピープルファーストはなし合おう会の皆さんのおかげで、今日この会場へやっと来られたわけです」。
 私は会場の席から彼の話を聞いている時、いまだに古い体制の施設があるのかと思いました。施設にしろ、当事者の気持ちを職員は汲み取ることが大切だと感じ、とても印象深く残りました。
 「厚生省にきこう」で私は舞台に上がり、厚生省の人に質問をするチャンスをもらいました。「措置制度」から「契約制度」に切り替わることが知的障害当事者になにも知らされず行われる恐れがあるので、学識経験者や行政で決めず、知的障害当事者を審議会に加えてもらうことを要望しました。厚生省の人は「検討させてもらいます」との答えでした。具体的な話しが聞けずに残念だったことは、措置から契約へ変わる時、当事者へしわ寄せがこないのか、「選ぶ」ことのむずかしい重度の障害をもつ人たちに対して、国や厚生省はどういった対策をもち、責任をもってくれるのかということです。また、措置から契約へ変わることは、施設だけではなく、作業所や通所施設、ヘルパー制度にもかかわってくることです。私はこのことを個々の問題としてではなく、みんなの問題として力を合わせて取り組むべきことだと考えています。
 全体会と夜の交流会の間の休憩時間には、情報コーナーが開かれていました。情報コーナーでは、本を売っているところや作業所で作っているものを売っているところがありました。私も情報コーナーを見て回りましたが、どこも本の販売が多く見られました。新潟県佐渡島から来ていたお店は、柿を売っていました。そのほかには、お化粧コーナーがありました。お化粧コーナーに行った人は、資生堂の人にお化粧をしてもらって大変うれしそうでした。
 また情報コーナーでは、似顔絵コーナーもありました。一緒に行った仲間の女性の人は、ピープルファーストはなし合おう会代表の大澤たみさんに似顔絵を書いてもらっていました。二人の楽しそうにニコニコしている姿が、今でも印象深く残っています。私は、友達同士いいもんだなあと思いました。
 夜は、何といっても交流会で盛り上がりました。交流会は、「であいのへや」と「ダンスパーティ」の二つに分かれて行われました。私は、「であいのへや」に参加しました。独身の当事者たちが、友だちや彼氏、彼女を求めて多く参加していました。でも、彼女を求めている男性が多く、女性の方が少なかったようでした。それでも彼氏、彼女になってほしいと考えている人がたくさんいました。
 私がいいなあと思った人は、大阪の人でなんと…18歳の女性でした。楽しい会話が少しでもできてよかったと思います。その後、私は「ダンスパーティ」にも少し顔を出しました。ここは熱気がすごく、一緒に行った仲間は2時間も踊りっぱなしと言っていました。生演奏で、まるでディスコ会場の六本木かお台場ではないかと思うぐらい、アンコール、アンコールの声まで飛び出て、とても盛り上がっていました。アンコールの曲が、聞いた曲だと思うのですが、なかなか曲名が浮かばず、ラジオで聞いたような曲だなあと70年代を思い出しました。
 2日目午前は分科会でした。分科会は「グループホーム」「自立」「友達と趣味」「仕事とお金」など14の分科会があり、私はその中の「ガイドヘルパーについて」を選び、参加しました。司会進行と事例発表は、ピープルファースト北海道の人が行いました。市から「通院の時しかガイドヘルパーさんを使えないと言われた」という話や、利用する当事者の収入に応じて、市が利用料を負担しくれるという話も出ました。2001年には札幌でガイドヘルパー制度ができるそうです。札幌の予算が聞きたかったのですが、くわしく教えてもらえずに残念でした。
 ガイドヘルパー制度は、一人での外出がむずかしい人や、限られたなかでの生活を過ごしてきた人が、外出でき、視野が広がるいい制度なので、ぜひ全国的に実施してほしいと思います。そして、知的障害の人たちだけでなく、必要な人にはこの制度が使えるようになることも望んでいます。
 分科会が終わり、閉会式になりました。閉会式では、大会のスローガンをみんなで言いました。私が今でも印象に残っているスローガンは、「もっとヘルパーをふやせるようにしよう!」です。私は、これは当事者一人ひとりの課題として取り組んでいかなければならないと思いました。もう一つ「職員はえらそうにするな!」というスローガンは、職員の意識を変えていくために必要だと思いました。やってあげているとか、やっているんだからではなく、職員は当事者の目線に立って、良き支援者や良き相談者にならなくてはなりません。職員は、忙しいから当事者の話を聞くのは後でというのは、事務的に対応しているようで、当事者を一人の人間として見ていないと思うからです。会場のみんなと声をあげて言う時、私は緊張してなかなか声を出して言う勇気が出ませんでしたが、後から少しずつ声を上げていきました。声に出して何かすっきりしたような感じがしました。
 私は今回、ピープルファースト大会に、立川市で行っている知的障害当事者活動「みんなのわ」の仲間と参加しました。「みんなのわ」は1998年10月3日に自立生活センター・立川の呼びかけで、立川市内の知的障害をもつ人たち6人で始まりました。現在、メンバーは17人になりました。
 活動内容は、自立をめざしての調理を行う「食事会」、手づくり新聞「わくわくだより」の編集及び発行、思いの話をみんなに聞いてもらう「おしゃべり会」、「外出」です。定例会で話し合って決めます。1年で一番大きな行事は12月に行う「クリスマス&忘年会」です。後で一人ひとりに感想を聞いたところ、「楽しかった」「また参加したい」という声がありました。私が聞いて勝手にランキングをつけると、第1位ダンスパーティ、第2位は厚生省の人の話が聞けてよかった、分科会は勉強になった、第3位はお化粧コーナーとであいのへやです。それぞれに、いろいろ感想があるようでした。来年も大会に出たいをいう声も出ていますが、札幌までの費用がかなりかかるので、各自が積み立てをしてという案も出ています。
 立川市では、知的障害者のガイドヘルパー派遣制度があります。この大会に参加するのに、ヘルパーさんをお願いした人もいました。私もガイドヘルパーさんと一緒にこの大会に参加しましたが、やはりこのような大きな大会や旅行の時に、ヘルパーさんと一緒だと安心感があります。私はお金の計算が苦手なので、ヘルパーさんにいくらお金を使ったか、計算を手伝ってもらいました。「みんなのわ」の女性のメンバーの一人は、「私もヘルパーさんと一緒に来ればよかった。みんなにはヘルパーさんがついていて、私にはついていない。慣れているところは一人でも出かけられるけど、遠くの知らない場所に行くときはよくわからないから、今度からヘルパーさんをお願いして困っていることを助けてほしい」と、話をしてくれました。これからもっといろんな人が、ガイドヘルパーを使えるようになればいいと思います。
 大会に参加して、感じたことは、参加者の明るさ、実行委員のやる気でした。これまでの会は、支援者が目立って見えました。しかし、この会は、当事者が主体的に進めていることがとてもよくわかりました。お客様扱いや子ども扱いがされていなくて、育成会全国大会の本人部会のような別枠でやっているというような感じはしませんでした。「障害を区別する前に一人の人間です」とピープルファースト宣言でも言っているように、一人ひとりが大切にされていて平等で、当事者がこの大会の主役になっていると感じました。
 ピープルファースト大会も幕を閉じる時間になりました。それぞれの参加者が各地域へ戻り、大会で話し合われたことを持ち帰り、それぞれの地域で当事者の人たちが制度を変えていったり、どんどん活躍していくといいと思います。

(ほんだあきお みんなのわ)