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107項目の策定に参加して

中西由起子

はじめに

 1992年末の北京でのDPIアジア太平洋ブロック総会と同時期に開催された国連・障害者の十年(1983-1992)最終年評価会議は、その年のESCAP総会で「1993-2002年アジア太平洋障害者の十年」が採択されたのを受けて、次の10年の戦略の検討が中心となった。そして、12問題分野からなる「アジア大平洋障害者の十年のためのアジェンダ・フォア・アクション(行動課題)」が採択された。
 国連・障害者の十年の基盤となった「障害者に関する世界行動計画」は、障害者のイニシアチブでつくられ、障害者の自己決定を中心概念として明確化した。アジェンダは、ESCAP事務局が独自に用意した草案に広くNGOまでを含めた各層からの意見を募って作成したため、行動計画と比べると広範囲に問題を取り上げているが、焦点が一本化していない弱点があった。
 107項目の目標は、いわばその弱点を補うかたちで優先課題として定められたものである。筆者が参加の機会を得たESCAPの十年に関する過去3回の検討会議において、いかに107項目がつくられるに至ったか、その流れを考察してみたい。

第1回十年推進状況検討会議

 1995年6月にタイ・バンコクで開催された第1回十年推進状況検討会議において、107項目の基盤となる73項目が採択された。
 24か国の政府に対して、DPIを初めとする障害当事者の団体はもちろん、サービス提供団体のCBMやHIなど44ものNGOが出席した。モルディブやフィジー、ネパール、インドなどの政府代表団にも障害者が入っていたことは、障害をもつ人たちのニードは障害者自身が一番よく知っているとの主張が認識され、当事者主体の時代への変化を感じさせた。なお日本政府は現地大使館員を出席させただけで、厚生省等関係官庁からの派遣はなかった。
 ESCAPは過去2年間の実践に関して、各国政府や関係NGOに配布したアンケートに基づいての報告を用意した。タイの1991年の「障害者リハビリテーション法」や、1992年のフィリピンの「障害者マグナカルタ法」が成立した流れを受けて、アジア太平洋障害者の十年開始後2年間で、もう政府はさまざまなことに着手していた。
 やるべきことが多すぎるなか、いかに成果を上げていくのか。そのため参加者は12分野各々の優先的到達目標73項目を作成した。さらに、それぞれの実施責任機関・団体と到達年を定めた。このように、厳格に目標を設定したことはESCAPとして初めてのことであり、筆者を初め参加したNGOは、ESCAP担当者のなみなみならぬ意欲に大いに感激した。自分たちが関与してできたものだけに、厳しいと思いつつも政府代表も反対しなかった。
 サービスや施策の統合化と、障害者の政策決定への参加という二つの傾向が、これらの項目では顕著であった。国内調整委員会の設置や障害者の権利を守る法の制定、社会保障制度の導入、公共建築物や公共交通機関のアクセス化、自助具購入のための補助金、雇用に貢献した人の表彰など、日本ではすでに着手しているものも数多くあった。統合教育に関しては、実施のための時間的枠組みが示されず、国際的に遅れをとっているとの印象を受けた。
 同年9月に北京での第4回世界女性会議を控えて、会議直前には女性障害者のトレーニング・ワークショップも開かれた。そこからの12分野にわたる勧告は、検討会議で73項目の中に含められ、かつまた重要な別個の文書としてアジェンダと同等に扱われている。

第2回検討会議

 第2回検討会議は、1997年9月に韓国・ソウルで「ソウル国際障害会議」の一部として「アジア太平洋障害者の十年キャンペーン97」とともに開催された。日本人だけでも300人という多くの参加者は、ESCAPの73項目の実施に直接的影響を行使できなかった。
 アジェンダでは2年ごとの評価会議の開催が決められている。第1回評価会議からの進展が少なく、ソウルでの評価に気乗りしない政府もあったと聞いた。そのため評価会議の名称は使われず、中間年の会議として位置付けられ、採択された「提言」では「十年」終了時の評価についてしか触れていない。
 この会議は英語のみが使用された会議であり、NGOは事前に登録できた代表者に制限されたこともあり、ひっそりと行われた。24か国、国連の1団体、国連事務局1部署、オブザーバーとしての28NGOが集まった。マカオやトルクメニスタンなど初めてこの種の会議で顔を合わせる国もあった。
 参加国の中でタイが代表団に障害者を参加させていた唯一の国であった。日本は総理府障害者施策推進本部、厚生省障害保健福祉部、文部省初等中等教育局、労働省職業安定局、外務省アジア局、駐タイ大使館から計九人という最多の代表団を送っていた。太平洋からはオーストラリアとパプア・ニュー・ギニアのみであった。NGOは多数が登録を認められていたが、キャンペーンに力を削がれ、筆者の団体以外はほとんど顔を見せなかった。
 実質3日間の会議は、1日半が各国の報告、半日が国連の団体とNGOの発表に費やされた。どの国も報告は実績中心となり、障害者の生活の質まで想像するのは難しかった。NGOは最後まで発表の時間が与えられるのかどうか不明であったため、準備不足で発言の場に臨んだところが多く、全体的に迫力に乏しかった。
 最終日にはESCAP事務局作成の「十年後半への提言案」が討議された。12分野にわたる決議文では73項目を取り上げず、個別のことはきりがないので、全般的な事項でまとめるという方針が貫かれていた。

第3回検討会議

 1999年11月にバンコクで開催された第3回会議は、ESCAPの意欲が十分に汲み取れる「アジア太平洋障害者の十年到達点の達成とESCAP地区での障害者の機会の均等化」という名称となった。
 障害問題には熱心とされるバングラデシュ、中国、インド、韓国、日本、フィリピン、マレーシア、タイなどの常連を含めた20か国、WHOなど7国際機関、25のNGO、企業の代表、および政策とアクセス、法律、教育の顧問として6個人が顔を合わせた。障害者の参加は少なく、DPI以外ではインド盲人団体代表や法律顧問として盲人が2人、アクセス顧問としてシンガポールの車いすの女性のみであった。日本は厚生省と総理府からそれぞれ2人の代表を送った。
 各国の発表は、1995年以降の進展に制限されていたものの、多くの成果が報告された。フィリピンは優等生ぶりを発揮し、ほとんどの到達目標を到達年までに実施したと述べた。
 参加者は会議後半で、「国内調整、法律」「情報、啓発、自助団体」「アクセスと福祉機器」「リハビリテーション、雇用と訓練、障害原因の予防」に分かれ、73目標を強化するための見直しを行い、残り3年間での実現を期する107項目が採択された。
 バングラデシュなどからは、いくつかの項目に到達は難しいとの意見もあった。政府代表にはよく勉強して専門的知識をもつ人が多く、手話の意義や自立生活運動の定義について、NGO代表と議論できていた。

終わりに

 73項目はESCAPの十年前半での姿勢が揺れ動いたために、アジア太平洋地域ではあまり浸透しなかった。最終年近くになり脚光を浴びるようになり、遅きに逸した観もあるが、手後れということはない。
 日本は過去3回、まるですべての項目が達成されたかのような優等生としての発表を行ってきた。ここ7、8年の間に新規の施策が数多く策定されてきたことは否定しない。それはアジアの他の国々に関しても言えることである。多くの国で当事者はメニューをそろえる段階から、今、質を問う段階に運動を移そうとしている。
 2002年の最終年の会議では、各国ごとに達成度がさらに厳しくチェックされるのはまちがいない。もちろん、政府だけでなく、国連の諸機関やNGOもそれぞれの関連分野で責任を追求されるはずである。

(なかにしゆきこ アジア・ディスアビリティ・インスティテート(ADI)、本誌編集委員)


【参考文献】

・高嶺豊『アジア太平洋の障害者の十年、途上国にとっての意義』、第12回アジア障害者問題研究会での報告、1992年6月6日
・中西由起子「世界の障害者施策(1)アジア太平洋障害者の十年」『月刊福祉』2000年3月、全国社会福祉協議会
・中西由起子「連載 アジアの障害者2 障害をもつ女性たち」『福祉労働』88号、現代書館
・ESCAP. Asian and Pacific Decade of Disabled Persons, 1993-2002: The Starting Point, 1993, United Nations, New York
・ESCAP. Asian and Pacific Decade of Disabled Persons: Mid-point ? Country Perspective. 1999, United Nations, New York