音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

障害の経済学 第18回

障害(ディスアビリティ)の経済的意味

京極高宣

はじめに

 前回は、通常の経済学において「生産的」なるものと障害者福祉において「生産的」なるものの相違に関して、いくつか論じてみました。そこで今回は、そもそも「障害」(ディスアビリティ)の経済的意味について考えてみることにしましょう。

1 障害の起源

 まず、障害とは、性別や年齢とは区別された概念です。今日の障害は社会的には何らかのハンディキャップ(社会的不利)を負うことを意味しています。歴史的に必ずしも定かではありませんが、わが国では戦前までは、「廃疾者」という意味でも使われていました。また従来のイギリスでは、「無能力者」(ノン・エイブルボディド・プア non-ablebodied poor)が障害者を広く意味していました。ここでは、主として心身上の原因から日常生活に支障のある状態を当然含むものとされていますが、最も本質的な問題は、アビリティという概念が労働能力の欠如(欠陥)を経済的には意味していたということです。
 したがって、明治期の恤(じゅっ)救規則でもエリザベス救貧法においても、特別な対象と考えられており、その後においては、労働能力のある貧困者は救貧院(プア・ハウス poor house)で保護され、障害者の生活のみが特別に保護されるようになったのです。
 その後、近年に至るまで、障害の概念には労働能力の欠如という経済的意味がつきまとっていました。今日ではもちろん、機能障害(impairment)、能力障害(disability)、社会的不利(handicap)という3層からなるWHOの障害構造の捉え方によって、最初から障害者を労働不能者ととらえる見方は克服されています。ただ気になる点は、この障害の構造においても、能力障害という概念には依然として、陰のように労働能力の欠如というイメージが絡んでいることです。

2 労働能力と動作能力の区別

 言うまでもなく、労働とは、何らかの効用(使用価値)を創造する人間の能動的行為です。その意味で、労働能力は人間行為の総合的能力で、個々の動作能力(行動能力)とは当然異なっています。しかし、近代工業社会においては、多くの労働者たちはしばしば個別的な動作能力の欠如が労働能力の低下を招き、また労働する機会を奪われ、それが決定的な意味をもってきたことなどから、労働能力と動作能力は混同されるようになりました。しかし、個別的な動作能力に欠如があっても優秀な労働能力のある人の事例には事欠かないのです。
 そのように考えていくと、ディスアビリティを労働不能とみる考えを改めるだけでなく、そもそも障害の骨格にディスアビリティという概念を使うことを避ける必要も生じてきます。
 当該分野の権威・佐藤久夫氏(日本社会事業大学教授)によれば、新しい障害の構造の捉え方には旧来のWHOの三層より進歩して、機能障害のかわりに、構造/機能(structure/function)を、能力障害のかわりに動作活動(activity)を、社会的不利のかわりに参加(participation)をもって説明しようという国際的動向(図参照)があるということです。

図 新しい障害の構造概念

図 新しい障害の構造概念

 私は、こうした動向は大変優れたものと認識している者の一人ですが、特にアビリティ(労働能力)とアクティビティ(動作能力)を区別する今日的意義を高く評価しています。ちなみにADLの評価は、あくまで日常動作能力に関するもので、労働能力をうんぬんするものではないことは明らかです。それと同様に、個々の動作能力に劣った者においても、それを補うほかの能力と環境上の条件が存在すれば、それなりの労働能力を発揮できることを否定できません。まして社会的条件で、個々の動作能力を欠如した者(あるいは個々の動作能力に欠陥のある者)を、労働能力の劣った「障害者」と決めつけるべきではないと思います。

むすびにかえて

 以上、ごく概観しただけですので、重要な結論を軽々と引き出すわけではありませんが、英語でいう障害者(the disability)には少なくとも、以上からの理由からも私なりに抵抗があり、ハンディキャップに関しても議論があることは承知していますが、私としては障害者(the handicapped)のほうが、何か率直に納得させられるものがあります。

(きょうごくたかのぶ 日本社会事業大学学長)