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文学にみる障害者像

『白鯨』と『宝島』
―エイハブ船長とシルヴァー船長―

高橋正雄

 『白鯨』のエイハブ船長と『宝島』のシルヴァー船長は、いずれも一読忘れることのできない強烈な印象を与える片脚の船長である。本稿では、世界文学史上に名高いこの二人の船長について、その人物像を比較検討してみたい。

1.『白鯨』のエイハブ船長

 1851年に発売されたメルヴィルの『白鯨』(阿部知二訳、筑波書房)では、物語の冒頭、エイハブ船長が正体不明の人物として登場する。エイハブは「丈が高くかつ幅広」の体格をしていたが、その「片脚はマッコウ鯨の下顎骨を磨いて造りつけたもの」だった。かつてエイハブは、ホーン岬の近くで白鯨と闘って片脚を失い、何日もハンモックの中で激痛に苛(さいな)まれるという体験をしていたのである。
 そんなエイハブの人柄については、「唐変木だ-とかいうやつもあるが、-いい人物じゃ」「立派な罰当たりのしかも神々しい人」「人食いの中にも入れば、大学校の門もくぐった人」など、複雑で矛盾に満ちた存在として紹介される。彼は、海の上では「独裁者」や「帝王」と呼ばれるが、家庭には「可愛らしい娘のような妻がいて子供もいる」といった人間らしさも持ち合わせているのである。
 こうしたエイハブの矛盾や複雑性は、彼が白鯨との闘いで片脚を失ったことと深い関係がある。エイハブの中の相矛盾する要素は、片脚を失う前の彼と失ってからの彼の対立・矛盾そのものであり、彼の内なる善良性と異常性の混在を象徴しているのである。
 実際、エイハブは、白鯨に片足を奪われてからというもの、「わしはあいつを追って、喜望峰だろうとホーン岬だろうとノルウェイの大渦の縁だろうと、いや地獄の火の縁だろうと、やめはせぬぞ」と、経済的利害など度外視して、この世の果てまで白鯨を追い求める。いわばエイハブは、自らを遍歴の騎士と思い定めて冒険の旅に出る妄想患者のドン・キホーテにも似て、障害あるがゆえに幾多の困難に立ち向かうことのできる人物として描かれている(『白鯨』には、「人間の偉大さとは病いにすぎぬ」「悲劇的に偉大な人物とはすべて一種病的なものを持つことによって成り立っている」といった病跡学的な認識も示されている)。「天上なるものに対してさえ民主主義者」である彼は、白鯨を通じて不当な仕打ちをした運命に闘いを挑み、最後は白鯨とともに海底深く沈んで行くのである。

2.『宝島』のシルヴァー船長

 『白鯨』に遅れること32年の1883年に発表されたスティーヴンソンの『宝島』(佐々木直次郎・稲沢秀夫訳、新潮社)に登場する海賊シルヴァーも、片脚の船長である。
 シルヴァーは最初、「たいそう背が高くがんじょうな男」として登場するが、「左の脚がほとんど股のつけ根のところから切断されていて、左の脇の下に松葉杖をはさんでいた」。彼はかつて、ホール提督の下、国家のために闘った海戦で片脚を失ったのだが、そのことを格別嘆くわけでもなく、松葉杖を驚くほど器用に使いこなして片脚であることの不自由さをほとんど感じさせない人物である。
 そんな彼は、黒人の妻をもつ財産家として紹介され、その性格も最初は「さっぱりした快活な気性」「こんないい男はまたとあるまいと思った」などと評価される。実際、航海を始めたばかりの頃の彼は、「いそいそとして慇懃」で「だれにたいしてもにこにこしていた」のである。 
 だが、この「あまりに底が深く、あまりにすばしっこく、あまりに利口」な男はとんでもない食わせ者だった。シルヴァーこそは、宝島行きの船にコックとして潜り込み、宝が見つかった暁には、部下とともに、船と宝を奪い取ろうと企んでいる海賊だったのである。
 シルヴァーの「残忍さと二枚舌」は恐ろしいほどで、自分の正体がばれるや平気で船員を殺し、手下の海賊どもを指図してジム少年たちの命を執念深く狙いつづける。また、この「謀叛の張本人」は、悪知恵にも長けていて、部下たちが反乱を起こそうとすると達者な弁舌でうまく言いくるめるし、またいったん形勢不利と見るや、自らの命乞いのため、もとの「柔和で、慇懃で、お世辞たらたらの船員」に戻ってジム少年に取り入ろうとするなど、狡猾かつ変幻自在の振る舞いをするのだった。
 結局、ジム少年の一行は島で宝物を見つけるが、シルヴァーは、英国に帰る途中、立ち寄った港で宝の一部を持ち逃げし、そのまま行方不明になるのである。

3.考察

 以上が、『白鯨』のエイハブと『宝島』のシルヴァーという片脚の船長の人物像である。このように見てくると、二人の船長にはさまざまな共通点とともに相違点もあることがわかる。
 まず共通点として挙げられるのは、二人とも長身で頑丈な体格をしていることや意外にも家庭持ちであること、容易にその内面をうかがい知ることのできない複雑怪奇な人物として描かれていること、暴君的で人の命すら顧みない非情な側面があること、自らの信念を貫く強い意志の持ち主で、神や運命のような超越的な存在を恐れていないことなどである。特に障害者という観点から見た場合、二人とも自らの障害を恥じたり嘆いたりすることなく、自らの目的のためなら世界の果てへの航海も辞さないといった執着性・行動性を有しているところが、大きな共通点であろう。
 一方、両者の相違点を挙げると、まず、エイハブが鯨骨で義足を作っているのに、シルヴァーは片脚のまま松葉杖を使っていることがあるが、内面的には、エイハブが自分の片脚を奪った白鯨に復讐をするために人生のすべてを賭けているのに対して、シルヴァーは、片脚を失ったこと自体はそれほど気に留めている様子が見えないことである。
 したがって、エイハブにとっては片脚を失ったことがその後の生涯を決定づけるほどの意味を持ち、彼の性格の矛盾や複雑さもその障害に由来しているのだが、シルヴァーにとっては、片脚を失ったことが、彼の生き方や性格に格別影響しているようには見えない。すなわち、エイハブが自らの障害に強くこだわっているのに対して、シルヴァーはそれほど障害にこだわっておらず、またこのシルヴァーは、人間としての誇りや尊厳より、自らの命や経済的利益を優先させる現実的な人物でもある。
 さらに『宝島』には、シルヴァー以外にも、盲人や卒中患者、アルコール依存症者など多くの病者・障害者が描かれて独特の雰囲気を醸(かも)していることを思うと、シルヴァーの障害は、単にその謎めいた人物像を象徴するものとして設定されているように見える。少なくともエイハブに比べると、シルヴァーには、障害に伴う苦悩や葛藤といった障害と内面の関連が乏しいと言わざるを得ず、それゆえか、エイハブには一種荘厳な悲劇の主人公という趣があるのに対して、シルヴァーはその表裏のある複雑怪奇な性格にもかかわらず、あくまでもジム少年を中心とする冒険活劇の引き立て役に留まっているのである。

(たかはしまさお 筑波大学心身障害学系)