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海外研修事業経験者の立場から

河村ちひろ

 1981年の国際障害者年にスタートした「ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業」は、それに参加した多くの研修生が言うように、私にとっても人生の転機となった経験である。当時、てんかんという疾患をもつ者の一人として、日本てんかん協会の活動にかかわっていた大学4年生で、進路にいろいろ悩んでいる時期でもあったのだが、この事業を知って応募した。協会関係者からの支援もあり、第1期生としてアメリカてんかん財団に82年の4月から12月まで9か月間派遣していただいた。
 この事業はその後、ミスタードーナツを含む全企業集団の名であるダスキンの名を冠して続いており、アジアの障害のある留学生受け入れなど、広げよう愛の輪運動基金による事業の展開は本誌読者もよくご存知のとおりである。
 私は「てんかん」という障害名でこの事業の対象となったのであるが、それは民間企業が行う活動だからこそであったと思う。私たちの中ではてんかんにかかっていることで、日常生活に不便のあることは「障害」として認定されるべきであるという運動を続けており(現在でも根本的な解決はなされていないと考えているが)、この事業が官制であったなら身体障害でもなく精神薄弱(当時の用語)でもない私は対象外であっただろう。障害のある本人を派遣するという発想がすでに先駆的開拓的であるのに加えて、その対象も既存の考え方に限定されない柔軟さによる計らいであったと感謝している。
 本事業初代の実行委員会副委員長で、ミスタードーナツ共同体理事長の故山西利夫氏が、壮行会で私たち1期生に送ってくださった「何か私たちにお返ししようなんて考えないでください。あなたがた一人ひとりがご自身で何かをつかんできてくれればそれでいいのです」ということばも忘れられない。
 氏によれば、ダスキン創業者鈴木清一氏は慈善事業は好まないが、自分の意志で自立の努力をする人にはどこまでも手を差し伸べていこうという態度だったとのこと。また「私はこの運動を通じて、障害者が本当の『個』に目覚め、『個』と『個』が互いに強くなって結び合っていく社会が生まれたらすばらしいなあ、と心ひそかに念願しております」とも書いておられる。この事業はダスキンの企業理念に基づいて広く社会貢献に結びつくようにとの祈りの中から生まれてきたことを教えていただいた。
 さて、私の研修はアメリカてんかん財団のロサンゼルス支部で実際に活動に参加し、ワシントンDC近郊にある本部オフィスで働く専門家の人々に付いて、財団全体の組織と事業について学ぶというものであった。アメリカの数ある当事者団体の中では決して大きいほうではないということだったが、ソーシャルワーカー、リハビリテーションカウンセラーなどの専門家を支部レベルで雇用する規模にまず驚いたのが率直な感想であったが、しかし、かの地におけるてんかん運動も自分がそれまでかかわってきた活動と同じように、当事者(本人と家族)によるボランタリーな活動が基盤にあるということを何よりも学んだ。
 実は、ソーシャルワークという仕事の分野を知ったのはこの時アメリカでのことであり、私が最初に出会ったソーシャルワーカーたちは相談支援をする人でもあり、また運動家でもあった。その人たちの影響もあり、その後の日本に帰ってきてからの私の進路希望は「仕事として福祉問題にかかわろう」というものに変わったのである。紆余曲折はあったが、今は福祉関係で口を糊する仕事の末席に加わっている。
 この事業が始まって早くも20年が経とうとしている。ここで知り合った人々がまた私にとっての貴重な財産である。いろいろな障害について、経験について教えられた。人と人のつながりの大切さを学んだこの事業からの恩恵は、これからも続いていくだろう。

(かわむらちひろ 障害者リーダー米国留学研修派遣事業一期生・新潟青陵大学)