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1000字提言

かっこわるいのはどっち?

倉本智明

 つい最近、盲の友人がまたひとりホームから転落した。電車から降り、ホーム反対側に停車しているはずの特急に乗り換えようとしたところ、まだ特急電車は入線しておらず、そのまま線路に直行という羽目になったらしい。友人によると、乗ってきた電車から降りると、すでにホーム反対側にも電車が入っている気配が感じられたので、乗り遅れてはいけないと急いだとのこと。ところが、「すでに停車している」と感じられた気配は、彼が乗るべき電車のそれではなく、特急が入る線路のさらにむこう、向かい側ホームに停車している電車のものだった。
 これは、よくあるケースだ。前方数メートル先から聞こえるかすかなモーター音が、自分がいまいる側のホームに停車中の電車のものなのか、それとも、向かい側のホームに入っている列車のそれなのかを判断するのはなかなか難しい。余裕があれば、ホームの端まで近づいたうえでいったん停止し、もう一度耳を澄ますなり、杖で探るなりして確認することもできるが、乗り遅れまいとあわてている時など、ついついそうした作業を怠ってしまう。幸い、今回のケースでは、特急電車の入線前に友人は自力でホームにはい上がり事なきを得たが、ひとつ間違えば死に直結する事故となっただろう。
 哀しいかな、私たち盲人にとって、こうした事故はきわめて日常的な出来事である。私自身、二度ホームから落ちているし、周囲の盲人の半数以上が同じような経験を語っている。ところが、これほど高い率で危険と遭遇しているにもかかわらず、一部盲人のなかには事故を自分の責任と考え、その経験を他言したり、鉄道会社側の責任を問うことに消極的となる傾向が認められる。先に記した友人もそうだった。
 彼によると、ホームから転落するのはかっこわるいことなのだそうだ。その感覚は半分、わからないでもない。初めてホームから落ちた直後、私も、これは私の注意不足が原因なのだと考え、落ちた自分の側を責めた記憶がある。しかし、はたして本当にそうなのか。確かに、友人にしろ、私にしろ、注意力が不足していたといえばいえるかもしれない。けれど、人はそういつもいつも集中力を持続しつづけられるものではない。これだけ多くの者が転落事故を経験しているということからも、常にそれを維持することが不可能なほどの過大な集中力を、ホームという場所は要求しているということができるのではないか。
 利用者の半数がなにがしかの事故に遭ってしまうような構造物など、通常は考えられない。ところが、それが盲人をはじめとするマイノリティである場合、構造やデザインの側ではなく、利用者の側にリスク管理の責任が一方的に押しつけられてしまう。本当にかっこわるいのはどちらなのか、私たちの側なのか、頻繁に事故を引き起こす駅のつくりなのか、いま一度確認しておく必要があるだろう。

(くらもとともあき 聖和大学非常勤講師)