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国連における障害に関する
条約、宣言、勧告、規則等がもつ意味

中野善達

1 国際人権章典

 国連は第3回総会で「世界人権宣言」(1948年)を採択しました。「すべての人間は、生まれながらにして尊厳と権利とについて平等である」とし、「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、出生または他の地位等によるいかなる差別を受けることなく」人権宣言にあげられたすべての権利と自由とを享受できるとしています。
 すべての人の自由とか平等といっても、本当にすべての人を対象にしているとは限りません。たとえばアメリカの「独立宣言」(1776年)は、「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一連の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命の自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」としています。また、フランスの「人および市民の権利宣言」(1789年)は、「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる」と規定しているのです。
 しかし、すべての人の自由・平等を唱えてはいますが、実際は万人を指しているのではありません。奴隷やインディアン、無産大衆には直接かかわりのない宣言でした。人間一般の権利宣言は20世紀になって、やっと現われるようになったのです。
 世界人権宣言はさまざまな人権法を集大成したものといわれ、国連における人権に関する条約や宣言等の基本になっているだけでなく、各国の人権に関する規定の拠りどころにもなっています。宣言という形式をとっていますが、慣習国際法ともいってよい重みのあるものです。障害者の人権を促進し保護するうえでも重要で、この宣言は、人権に関する他の多くの後続の文書や採択された決議の基盤として、また拠りどころになる枠組みとして役立っています。
 しかし、なにぶんにも拘束力・強制力をもってはいません。そこで、諸権利の明確化、権利への差別の禁止を規定した、法的な拘束力のある、「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」と、「市民的および政治的権利に関する国際規約」が1976年の国連総会で採択されました。締約国の順守を監視する機関(経済的、社会的、文化的権利委員会と規約人権委員会)も設置されました。これらの規約でも「人種、皮膚の色、……」などによる差別の禁止が示されていますが、障害に基づく差別ということは、明記されてはいません。
 以上の三つの文書が国際人権章典といわれ、人権に関する最も重要な基本文書とされています。また、経済的、社会的、文化的権利委員会では近年、障害という問題の重要性が指摘され、検討されています。
 「人種、皮膚の色、……」等による差別の禁止と並べて、障害を掲げた文書も現われるようになってきました。たとえば、「児童の権利に関する条約」(1989年)や、「精神障害をもつ人びとの保護と、精神保健ケアの改善に関する原則」(1991年)がそれです。
 国連総会による条約や国際規約は、総会で認められるだけでなく、それぞれの国によって批准(最終的な確認)されなければなりません。条約や国際規約はそれぞれの国の憲法より下位のものですが、憲法以外の諸法律よりも格が上であったり、同列のものであったりします。これはそれぞれの国内法で定められていますが、新しい条約がこれまである法律と矛盾しないかどうか、するとしたら、これまでの法律をどう修正するか、などの検討をしたうえで、最終的な確認をすることになります。条約や国際規約はこのため、たいへん重要な意味をもつことになります。
 国連の専門機関の一つであるユネスコは国際条約を、加盟国の批准を必要とするもの、勧告のことを、特定の問題に関する国際規制のための原則や基準を設定し、各国の法制および、問題の性質に応じてこれを実現するため必要な立法その他の措置をとるよう加盟国に呼びかけるもの、と規定しています。
 同じく専門機関の一つである国際労働機関(ILO)は条約を2種類に分けています。一つは、条約を批准すると同時に、その条約の規定そのものが国内の規定として生かされるように細かく規定されたもので、他の一つは、比較的原則的な問題だけにとどめ(この場合、勧告で細かな規定を行う)、あるいは国内の事情に応じて適当に処置させるといった考え方による宣言的な条約です。

2 障害者の権利宣言

 国連総会は1971年、「精神遅滞者の権利に関する宣言」という決議を採択しました。賛成110、反対0、棄権9でした。この宣言は、精神遅滞者は最大限実行可能な限り、他の人々と同じ権利をもっていることと宣し、続く諸項で、医療や経済保障、リハビリテーション、教育、訓練などを受ける権利、自分の家族や養父母と暮らす権利があることを示しています。
 この宣言は、精神遅滞者の定義がまったく示されなかったこと、他の人たちと同じ権利が認められたわけではなく、最大限実行可能な限りという限定つきであることなどの問題があります。しかし、反対なしでの採択ということを大きく評価すべきでありましょう。宣言が採択されるまでに指摘された問題が、「障害者の権利に関する宣言」に生かされました。
 「障害者の権利に関する宣言」(1975年)は全体として精神遅滞者の権利に関する宣言を下敷きにし、さらに一歩進めた内容になっています。すなわち、障害者全体を対象とし、障害者の定義を示し、諸権利が障害の種類や程度にかかわりがないこと、さらに、障害者も他の人々と同じ基本的権利をもっていること、が明記されています。さらに障害者の団体は、障害者の権利に関するあらゆる問題に協議を受けることができること、経済的・社会的計画立案のあらゆる過程で、特別なニーズを考慮される資格がある、とされました。
 この宣言について国連は、現在の開発段階ではいくつかの国々がこの目的のために限られた努力しか払えないことを認識しながらも、やはり宣言をするべきだと考えたのです。障害者問題への対応は、それぞれの国の文化や伝統、慣習といったものや、経済的・社会的事情などによって異なっています。そこで、国によっては「障害者の問題は国連で扱うのではなく、それぞれの国にまかせるべきだ」といった主張がなされたりします。この宣言は満場一致の無投票採択でした。これ以後、ほぼ毎年のように出される決議はいつも満場一致の賛成ということになりました。満場一致の賛成というと、たいへん喜ばしいことのように考えられますが、単純に歓迎はできません。強制力・拘束力がないものなら、異論を出さずに賛成し、実行は先延ばしにする、といった態度の国もかなりあるように思われます。
 とにかく両宣言、とりわけ障害者の権利宣言は、障害者の権利の重要性について世界的関心を焦点づける役割を果たしましたし、国連が世界の諸地域で障害者の教育やリハビリテーション、さらに雇用などへの支援を行うことがはっきりしました。
 国連はこれらの宣言に基づいて各国がとった行動やこれからの行動について、各国に報告を求めました。それによると、障害者問題への積極的取り組みが進展した国の多いことや、障害者問題への取り組みの拠りどころに宣言が役立ったことがわかります。障害者の権利に関する宣言については51か国が共同提案に名を連ねましたし、実施に関する決議には72か国が共同提案国になるなど、障害者問題への関心の高まりがうかがえます。

3 国際障害者年と世界行動計画

 国連は障害者問題への関心の高まりを受け、1976年に「国際障害者年」という決議を採択しました。ここで、1981年を「完全参加」(後に「完全参加と平等」と拡大)をテーマとする国際障害者年と宣言したのです。そして、この年を障害者問題への意識の喚起と、それらの促進をすることとし、何年にもわたってその内容を深めていきました。国際障害者年のための国内委員会の設置や、長期にわたる世界行動計画の策定、各国による国内長期行動計画の策定が要請されました。
 また、障害者年の開始時に各国代表が特別メッセージを出すこと、テレビや新聞・雑誌等を利用しての障害者問題キャンペーンなどの展開が望まれたのです。この結果、テレビ等に障害者がひんぱんに登場することになりました。
 ところで、障害者は何人くらい存在しているのでしょうか。1981年、国連はその決議の中でおおよその人数を示しました。「およそ5億の人がある形態もしくは他の形態の障害をもっていると推定され、うち約4億の人が開発途上国にいると推定されている。ほとんどの国で10人に1人はなんらかの障害をもっている。」世界保健機関(WHO)やユニセフの協力を得て、国連社会開発・人道問題センターとリハビリテーション・インターナショナルは『障害の経済学:国際的展望』(1981年)を発刊しました。これによると、1975年の時点で、世界中に推定4億9千万人(世界人口の12.3%)の障害者がいて、2000年までに推定8億4千600万人(13.5%)となるというのです。そして、この人たちの4分の3は開発途上国に住んでいる、と記述されました。
 世界保健機関は1980年、国際障害分類の案を発表し、障害をインペアメント、ディスアビリティ、ハンディキャップという面からみていくことを提案しました。障害さらには障害者についての考え方は国によってまちまちで、正確なあるいはもっともらしい資料を得ることはたいへん困難な課題です。社会開発・人道問題センターと国連事務局の統計部が協力し、障害統計に関する専門家会議を開き、55か国の調査結果をまとめた『障害統計概要』が1990年に刊行されています。
 国際障害者年諮問委員会が案を作り、加盟各国や関連組織にコメントを求めたうえで「障害者に関する世界行動計画」(1982年)がまとまりました。この文書は、障害の予防、障害者のリハビリテーション、障害者に対する機会均等化という目標を達成するための具体的内容・方法を、国際的レベル、地域レベル、国内レベルでどのように取り組んだらよいかを明示した文書です。そして、1983年から1992年を「国連・障害者の十年」として、加盟各国に対して、この期間を障害者に関する世界行動計画を実施する手段の一つとして活用することを勧めました。この世界行動計画は、障害者の十年が終わった後も、継続されて実施されています。
 世界行動計画はたいへん重要な文書なので、政府の行動を通して、それぞれの国の言語に翻訳されること、点字版や拡大文字版、簡約版が、障害者や彼らの家族、NGOや政府組織を含め、あらゆる市民にできるだけ知ってもらうため、広く配布されることが要請されています。

4 機会均等化に関する基準規則

 国連・障害者の十年の中間である1987年に、目標をどれだけ実現しているかを検討する、主として障害者によって構成される専門家会議の開催が、1982年に決定されていました。この会議はスウェーデンで開かれ、報告書がまとめられました。この報告書では、「障害者に対するあらゆる形態の差別撤廃に関する国際条約」の起草と、障害者の十年の終わりまでにそれを加盟国が批准することがあげられていました。この草案をイタリア代表が出したのですが、拘束力をもつ国際条約の制定には多くの国々が反対したり態度をはっきりさせませんでした。その後、スウェーデンが条約案を提出しました。しかし、やはり反対が多いため、強制力・拘束力をもたない国際的最低基準規則といったものを考えることにしました。こうして出されたスウェーデンによる機会均等化の基準規則案が審議されたのです。
 条約反対論は次の四つにまとめられます。
1.障害者問題は普遍的問題というよりも、国内問題といえる。各国が国情に応じた対応をすればよい。2.国連は財政的に厳しく、対応は無理である。3.人権宣言をはじめ各種の文書があり、新しい条約は屋上屋を架することになる。4.万人のための社会をめざすべきであり、障害者だけを対象とするものには反対である。
 基準規則は検討が重ねられ、1993年の国連総会で採択されました。障害をもつ人への機会均等化をさまざまな面で実現するため、具体的・詳細な規則が作られたのです(資料篇を参照)。スローガンは、「意識の喚起から行動へ」です。
 国連で障害者を対象とする条約は、これまで国際労働機関(ILO)による「(障害者)職業リハビリテーションおよび雇用に関する条約」(条約第159号、1983年)しかありません。この条約は「障害者の職業リハビリテーションに関する勧告」(勧告第99号、1955年)を国際障害者年や世界行動計画などの影響をもとに進展させた、きわめて重要なものですが、職業リハビリテーションという限定された分野のものでしかありません。
 包括的な障害者への差別撤廃条約がどうしても必要と思われます。基準規則は監視機構がかなり機能しましたが、拘束力・強制力のないことが弱点です。このための検討は、障害者団体を中心とするNGOが率先性を発揮することが望まれます。また、国連内では人権委員会が障害児の人権や障害者の人権について活発な審議を進めています。社会開発委員会、経済的、社会的、文化的権利委員会や、国際労働機関、ユネスコ、ユニセフ、世界銀行、世界保健機関、国連開発計画などとの連携をもった障害者問題への取り組みがとりわけ重要です。このためには、人権委員会による『人権と障害者』(1993年)が参考になるでしょう。

(なかのよしたつ 佐野国際情報短期大学)

〈参考〉

 中野善達編『国際連合と障害者問題─重要関連決議文書集─』エンパワメント研究所、1997年。この中に、国連人権センター・人権研究シリーズ第6集、レアンドロ・デスポイ著『人権と障害者』(1993年)の訳が、230頁から345頁に掲載されています。