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市の基本構想・基本計画策定への市民参加

宮川齊

はじめに

 みたか市民プラン21会議(市民21会議)は会則に自らを次のように定めている。〈三鷹市の基本構想の見直しと第3次基本計画(2001~2010)の策定に向けて、「みたか市民プラン21」を作成し、市民の意見を反映させることを目的とする市民の自立的な組織である〉。
 一人の市民にとって、基本構想とはそのまちに暮らす人々の希望であり、基本計画とは希望の実現のためのプログラムだと考える。とするなら、市民21会議の働きは自分たちのまちを自分たちで作ること、自治の実践に他ならない。そして、素案以前のまったくの白紙からのかかわりと、行政との意見のキャッチボールのプロセスは、市民参加の新しいかたち、協働の実践と言えるだろう。

自分たちのまちは自分たちの手で~設立の経緯

 三鷹市は新宿から中央線で西へ20分、都心と多摩の真ん中の16平方メートル強の面積に16万強の人々が暮らす住宅都市である。このまちはさまざまな計画策定に際して市民参加を積極的に行ってきた。1970年代は、コミュニティセンターづくりにおいて計画作りから管理運営までをめざした。1980年代は、コミュニティカルテやまちづくりプランというかたちで、素案前の提言という方式を取った。1990年代、「丸池の里づくり」といった個別事例において、ワークショップスタイルによる白紙からの参加・協働に至っている。
 筆者は1980年代の初めから市民活動にかかわり、1980年代の終わり、第2次基本計画(1991~2000)策定のための市民会議(市が主催)に、ボランティア連絡協議会の代表として委員になった。そこでの実感は一言で言えば「隔靴掻痒」である。市が提出するたたき台である素案の出来は、決して悪くない。いや、結構良い。しかし、それに私たちはいろいろ意見を言うのだが、なかなか反映されない。つまり個々の文言は変更されるのだが、素案自体の構造にはほとんど変化がない。
 構造自体が一つの思想であると考えるとき、まちの基本となる計画は、策定過程の初めからそこに暮らす人々がかかわるのが良い。第2次基本計画策定のための市民会議委員としての私の経験からの結論である。それを1990年代に参加した福祉計画などの個別計画の会議などで主張し、一部ではかなり実現した。
 1998年12月、まちづくり研究所(研究者と市職員により構成)は市長に対し、2001年に改定される基本構想・基本計画の策定に際しては「白紙からの市民参加」を実施するよう提言した。その後、1999年2月から市民参加のあり方についての意見交換会が研究者と市民の間で実施された。4月、市長が市民に基本構想・基本計画の策定についての「白紙からの市民参加」を呼びかけ、5月に58人の市民が参加して準備会が始まった。そして、準備会での検討を経て、9月に今度は58人の市民が全市民に呼びかけ、1999年10月9日に設立されたのが市民21会議である。375人のメンバーが結果として、2001年11月30日まで活動することとなった。

みたか市民プラン21作成に関するパートナーシップ協定

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図 みたか市民プラン21作成に関するパートナーシップ協定

オープンでフラット、市と協定~市民21会議の特色

 市民21会議を語るとき、約5か月にわたる準備会の存在が欠かせない。市民参加という場合、その市民とはだれか、どのような組織が必要かなどを会則にまとめた。また『言いっぱなし、聞きっぱなし』にしないで実効性に責任を持つため会議の基本ルールを定め、これらを前提に市とパートナーシップ協定を結んだ。
 協定には双方の八つの役割と責務が定められた。要約すれば、市民21会議は広く市民の意見を集め、2000年10月末までに市民プランを作成し、構想・計画の策定まで積極的に意見表明を行う。また市は情報、場所、経費などを提供してプラン作成に協力し、でき上がったプランを最大限、計画に反映する。双方は構想・計画の策定後も三鷹のまちづくりに共に責任を持ち協力を続ける、というものである。
 この協定により、市役所内に独立の部屋を持ち、事務局を市民が担って、全くの白紙から市民がまちのプランを作る活動が行われた。参加資格は、在住・在勤・在学、そして在活(三鷹で何らかの活動をしている人)、年齢制限のない個人参加という一切が自由、手を上げたものすべてとなった。その結果、メンバーは10代の学生から80代まで375人、平均年齢約50歳、男女比6:4、精神障害、身体障害などの当事者も参加した。筆者も精神障害者の働くレストランに勤め、さまざまな市民活動にかかわりながらこれに加わった。
 組織はフラットでオープンであることを原則とした。まず全体にかかわる事項を決める全体会があり、ここで選出される代表は複数制とした。参加の基礎となる分科会は、教育・福祉・環境・産業の活性化などの分野別が五つ、また各分野に共通する平和・人権・市民参加・財政・情報などの五つの計10が設定され、いくつでも参加することができる。代表、各分科会の座長、事務局長などからなる運営委員会が経常的な運営を考え、進めた。

市民21会議イメージ

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図 市民21会議イメージ

山越え、谷越え~活動の経過

 1999年10月9日設立後、お互いを知り合い、現状を学び、課題を選び出し、目標を設定、実現の方法を考えようと進んだ。会議は大半が平日の夜、また土曜日、平日昼間もあった。当初は議論百出、言いたい人が集まったのだから当然ではあるが、前途が危ぶまれるようなときもあった。だが、人間は信じられるもの、議論を重ねるにつれ共通点が見えてくる。2000年7月8日、中間報告を提出。これを広く市民に示し意見を集めた。そして、10月28日、333回の分科会、21回の運営委員会を経て(その間、事務21、コミュニケーション推進委員会、起草委員会、4役会などが何回もある)、第10回の全体会で、市長にA4判約140ページの「みたか市民プラン21」を提出した。
 通常、このような活動はこれで終了するが、市民21会議はこの後、まだ1年以上続くこととなった(いつ終わるかは、市の作業、議会決定などもあり見えなかった)。
 プラン提出後の2000年11月に、総論部分および分科会ごとに市と市民21会議との意見交換会が11回開かれた。その後、市の素案ができた段階で、基本構想・基本計画ともにそれぞれ2回の意見書を提出(キャッチボール過程)、基本構想は2001年9月28日、議会で確定された。基本計画は11月中に定まり、市民21会議は11月30日に「活動報告書:こんな三鷹にしたい」を発行して解散する予定である。
 活動の内容について詳述する余裕はないが、各会議の通算開催数は次のようになる。全体会20回、分科会447回、運営委員会40回(うち3回は臨時)、4役会45回、コミュニケーション推進委員会24回他。

『みたか市民プラン21』提言書提出後の流れ

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図 『みたか市民プラン21』提言書提出後の流れ

責任を持った市民主体の出現~現状、今後

 私たちの活動に対してマスコミなどから、地方分権一括法が生まれて三鷹市では、などと前置きして語られることが多い。しかし、法ができたからといって現実がたやすく動くものではない。これは天・地・人、つまり全国的な状況と三鷹での歩み、そして基本となる信頼関係が調和して初めて生まれたのだ。
 市民21会議の実践は、私たちの意図を超えた。つまり、目的が限定され、時限的ではあったが「正当性をもって行政と対等平等に対応できる、誰にも開かれた責任ある自立的な市民組織」を出現させた。その活動指針は「協働のまちづくりに向けて」(「みたか市民プラン21」)である。
 自治のまちづくり、地域経営は、いまやあらゆる意味で市民と行政との協働関係を基盤にして始める以外ない。この実践は今後への大きなヒントと課題を私たちに与えた。

(みやかわひとし みたか市民プラン21会議共同代表)