音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

鼎談

障害の経済学 
―共生の社会をめざす新しい理念の構築に向けて―

京極高宣・安積遊歩・渡辺俊介

 2000年1月号から2002年2月号まで、日本社会事業大学学長の京極高宣さんに合計26回にわたり「障害の経済学」と題し、障害者と経済学の関係について執筆していただきました。
 今回、著者の同席のもと、安積遊歩さん(ピアカウンセラー・CILくにたち援助為センター代表)と渡辺俊介さん(日本経済新聞社論説委員)にご出席いただき、社会経済学的に「障害」をどう捉えるかなどの鼎談を行いました。

「障害の経済学」は成り立つのか

京極

 私は、今回の連載にあたり、アトランダムでしたが、ほぼ五つの項目について書いてきました。第一は障害の概念の見直しです。障害を経済学的観点から見る、労働能力(アビリティ)から考える、これが必要だと思いますが、今後はアクティビティに着目した捉え方にしたいと思います。第二に障害者の役割についてです。これは糸賀一雄先生の思想を研究する過程で障害者のもつ力、「世の光」効果、すなわち障害者が輝くと同時にその周辺も社会全体も変わっていく、この考えを伝えたかったことです。第三は障害者の働く意味、所得保障と稼得収入の関係について深めたかった。第四にマクロ経済学からみて障害者が働くことや福祉機器用具等の開発等が国民経済的にもつ意味を分析しています。さらに第五として、今後の障害福祉サービスのあり方、とくに現在行政で検討中の支援費制度の意義などにも触れました。
 内容は多岐にわたっています。「障害の経済学」というものが成り立つのかどうかアカデミック的に考えると少し疑問も残りますが、私としては、後続の本格的な経済学者からの切り込みを望む端緒となることを望んでいる次第です。

自立生活の経済的効果

安積

 ピアカウンセリングを通じて障害者の自立を進める運動をしており、国立市で自立生活センターの代表をしています。40歳で母親となり、自分と同じ障害をもつ娘がいます。社会が障害をもつ者をどうみているか、経済学的にみて障害をもつ者の存在の意義は大いにあると思っています。私と娘が生きていく中で介助は日常的に必要であり、サービスをどう得るかが問題で、家族介護は限界があるわけです。そのため、有料の介助者を入れ生活をしています。障害をもつ人が地域の中で自立していくために何が必要か、生活の中から社会に伝えていきたいと思っています。
 京極先生の連載を読ませていただきました。障害をもつ人の自立生活の経済的効果について参考になりました。さらにこれからまたより深めて語っていただきたいと思っています。たとえば、施設等の中で労働に従事することでの経済的効果以上に、障害者の存在そのものが周囲に活性化を生むということです。また、これもひとつの視点ですが、平和を願う観点から見ると軍隊は不要な存在だと思います。軍隊のマンパワーを障害者や高齢者の介助・介護のほうに回すことが経済学的にも社会がよりよく機能するのではないか、と思うのです。障害者が介助を必要とする存在であることが平和をつくりだす存在であると言えるのではないでしょうか。今日のテーマとは直接結びつかないかもしれませんが、障害をもつ者の立場からすれば、われわれの社会に根深く残っている、「生命に良・不良がある」という優生思想を変えていきたいとも思っています。

新しい経済発展への糸口

渡辺

 約30年の厚生行政担当のジャーナリストとして仕事をしてきました、マクロ的に言えば、日本の社会保障は年金・医療保険が中心でした。70兆円のうち50%が年金、40%が医療支出、その他の10%が高齢者福祉、障害者福祉、児童福祉、生活保護等のいわゆる福祉関連の支出に使われています。世界的にみて、先進国でこのような国はないんですね。日本はデンマークなどと比べれば年金や医療の水準は上であると言えます。にもかかわらず、なぜ福祉国家と呼ばれないのか。それは狭い分野での福祉分野の比率が低いからです。ようやく政府もこの点に気がついて、いわゆる社会福祉の構造改革ということに手を付け始めてきました。ゴールドプラン、エンゼルプラン、障害者プランを策定して改善を図ろうとしているのがその現れです。この動きはやや遅かったなという気持ちはしますが、やっていることはたいへん評価したいと思っています。
 現在は近年の日本経済の低迷に象徴されるように、戦後50年の日本の経済構造に変革が迫られている時期です。日本が新たな飛躍をするためには従来の発想では駄目です。そういった意味からいいますと、今回の京極さんの「障害の経済学」は、ある意味非常に衝撃をもって読んだわけです。まさに介護の経済学等と同じように、これからは「障害の経済学」そのものがなくてはならないし、児童、母子の経済学もなければならない。そういった意味での福祉の経済学がなければいけないと思います。今回の連載が日本の新しい社会経済の発展に結びついていく糸口を作るものだと評価しています。
 私は以前デンマークに住んでいたのですが、毎年1回、大規模な福祉機器展が開かれていました。私も何回が足を運びましたが、そのたびに他の国の人から日本ではこのような機器展をやっていないのかと聞かれました。十数年前、日本ではこのようなイベントはありませんでした。そのときは漠然と需要がないから、と考えていましたが、その後、日本の社会は需要がないのではなくて、需要をつくりださないのだということに気がつきました。障害者を外に出さない、押し込める発想が強かったからでしょう。ヨーロッパなどでは、障害者も能力があればその力を発揮して社会に進出していく、そのためには人的介護も必要だが福祉機器用具が必要であるから、北欧などでは福祉機器業が産業として成り立つのです。これは日本でも可能なはずです。そういった意味で障害の経済学は成り立ちうるし、成り立たせなければならないものです。そうなれば社会保障費用の問題もありますが、まず能力のある者は外に出て自立し働く、それでこそ本当の福祉国家となれるのではないでしょうか。

つかみにくい障害者の実態

京極

 たとえば障害者の実態に関してみると、障害者の所得保障ですからなかなか実態がつかみにくいところがあります。障害年金は厚生労働省年金局が把握しているが一部であり、生活保護加算は社会援護局が把握し、障害者手当は障害保健福祉部が把握している。雇用については旧労働省サイドの職業安定局が把握し、減税などの控除は財務省が担当しています。というように、なかなか障害者の所得保障の全体像が見えてこないのです。障害者福祉を考えるには、さしあたり所得保障から捉えなければならないのですが、ここに困難な課題がすぐに立ちふさがるのです。就労の問題も同様で、福祉的就労は旧厚生省サイド、一般雇用は旧労働省サイドと縦割り行政の伝統が破られていません。最近、厚生労働省の発足で福祉的就労と雇用との間にいろいろとブリッジがかけられはじめてきましたが、良いことだと思います。しかし、まだ細い道にとどまり、大通りとなってはいないのが現状です。
 特に精神障害者の場合は非常に不利な状況に置かれていて、法定雇用率には算定されていない。しかし、ワークシェアリングなどを考慮すれば多くの障害者に就労の余地はあるのですが、大胆な取り組みがされていません。

共生の原理に基づく障害者観

渡辺

 たとえば障害者雇用の問題や障害者の社会参加を考えた場合、日本がたち遅れていると思う最大の理由は、能力に着目した社会になっていないということです。日本の雇用の場面では、依然として男女差別があり、高齢者の差別があります。これはアメリカでもヨーロッパでも言えますが、基本的には性別や年齢、男女差別がないんですね。仕事ができるかどうかでみています。日本の場合はそういう仕組みになっていません。今までの日本は製造業中心の経済構造で走りつづけてきました。良い物を早く大量に生産するということで、若い男性中心、集団主義でやってきました。そのためにこのシステムに乗りにくい女性や高齢者などは排除されてきました。いわゆる性差別、年齢差別が存在し、その延長に障害者差別がある仕組みになっていたのです。
 結局、障害者の社会参加、女性も高齢者もそうですが、いままでの日本の仕組みが変わらない限り、これからの経済体制は成り立っていかないところにまで来ているのです。しかし障害者だけに光を当てても駄目で、本当にその人の能力に着目した社会にすることが大前提であろうと思います。それはそんなに難しいことではありません。日本のこの10年間の遅れはこの点にあるのです。確かに縦割り行政が弊害になっていますが、この点は徐々に再編成が行われています。すぐに効果は現れないでしょうが、新しい発想に立たないと、違った能力に着目した生産手段なども生まれてこないのではないだろうかと思います。
 それから昨年、厚生労働省が発足したことで、まだ一部ですが、欠格条項をはずす傾向がありますね。欠格条項というのは一見合理的ですが、きわめて非合理的だったわけです。障害がある人を医師や薬剤師にするとこういうマイナスがあるかもしれないと、ネガティブな面をとらえてやめさせてきたわけです。ようやくその発想から脱出しようとしつつあるわけです。隠された能力があるのに最初から欠格条項のようなもので押さえ込んできた、その芽さえ出さなかったわけです。それをはずしつつあることは、小さな進歩かなと思います。

安積

 確かにアメリカなどでは、能力の違いで差別しない、人種、性別などで差別しない方向に進んできていますが、問題の核心は障害者観にあるのではないでしょうか。障害者観というものを社会全体がどのように捉えていくか、ということです。生産的労働に参加したくてもできない人、重度の障害をもつ人に対して「世の光」にという考え方に注目して共生の思想をどう立てていくかが大切だと思います。これは東洋的な日本の中でのあり方だとも考えますが、障害者運動に携わるなかで、オシメを取り替えるときにお尻を上げる行為こそが労働なのだということを言った障害者リーダーがいました。意志をもって社会に生きる、参加することをしている人たちと共に生きようとすることが共生の思想、障害者観だと思うのです。
 障害をもつ状態には一般の人もいつでもなり得るんですね。交通事故や疾病などを原因とした中途障害の人が増えてきていますし、先天的に重度障害をもって生まれてくる人もいます。これらに着目しながら共生の思想・障害者観を打ち立てていくことが必要であると考えます。たとえば働く分野では能力主義的にではなく、本人ができることについてはいろいろな支援をしていく。福祉行政にしっかりした障害者観のポリシーがないといけないのではないかと思います。いま大切なのは「競争の原理」ではなく、「共生の原理」を根幹に据えた福祉観・障害者観ではないでしょうか。

新しい理念と施策の展開

京極

 理念として障害者観の転換は必要です。新しい障害者観に基づいた「世の光」を発信していかなければならないことが大切なことです。一方、現実問題として、呉秀三の言葉のように、障害に生まれた不幸と日本に生まれた不幸に対しては、国民経済レベルのきめ細かい問題も考えなければなりません。日本の特殊な遅れをどう変革していくか。縦割り行政の例で言えば、高齢者と障害者の就労問題は連携しつつも別の方策を積極的に進めなければならないのです。人手不足の中での雇用問題と言っても、障害者雇用の改善はなかなか困難な問題をもっていると言えます。

渡辺

 欧米の能力主義とは必ずしも高いものだけを要求するのではなく、それぞれの能力に応じてできる人はできると評価する。人種など差別しないといった考え方はいいのですが、これはあくまでも非常に高い能力を求めることになります。まさに安積さんがおっしゃった共生を基盤に置いた能力評価が必要なのでしょう。たとえば、「大海には多種多様な生き物がそれぞれの役割に応じて仲良く生きている、これが共生である」と言ったヨーロッパの友人がいますが、1億3000万の人口を抱えた日本にとって、どのような共生が本当に必要なのか、能力の比較ではなく、競争でもない新しい理念を作らなければならないのです。
 雇用に関して言えば、1980年代までの、製造業中心の「作って売ればいい」という時代は終わったわけです。これからは別の新しい能力が求められるようになってきたことも確かです。一例をあげれば、パソコンを使って在宅での仕事も考えられるようになってきたわけですね。会社に行って生産ラインに就いてみんなでものをつくる時代ではなくなってきたのです。そこに10年間気がつかないできたことが、いまの経済的な低迷を生んでいるのではないでしょうか。この新しいITを中心にしたこともそうですが、マンパワーを介護に投入するなどという新しい分野への人材投入の考えもあるかもしれないと思います。
 日本はこれからどう生き延びていくか、これがなかなか見えてこないのです。理想論かもしれませんが、このような発想がなければ日本はつぶれます。そういう意味で高齢者も障害者も母子家庭の方でも参加できる社会経済の仕組みをつくる必要があります。京極さんがおっしゃったように、高齢者の方は所得に関して基盤が違うので、同列には論じられませんが、雇用の場を例にとれば、いままで排除されてきた人が活躍して働くことのできる場を作らなければ日本はもたないことは確かなことです。彼らが働ける環境づくりの方策をどう採るか、新しい産業をどう興こすか、また興さなければなりません。一例として、特に福祉産業などは最も有力な分野であろうと思います。ただどう発展させていくかという問題はありますが、先ほど話したように有力な市場は存在するはずです。

障害をもつ人がいて当たり前の社会

安積

 話題は変わりますが、福祉とくに障害者観のポリシーはしっかりしていかないといけないと思います。たとえば、障害をもつ者の立場から「出生前診断」「遺伝子工学の発達」などを考えるとき、科学の力が人間の可能性を蝕み、排除する気運が世界を覆っているような感じを受けています。たとえばイギリスではダウン症の障害をもつ子どもの減少などがそれです。障害をもつ子どもを生むのは怖いという社会では共生はありえないのではないでしょうか。福祉国家と言われるイギリスであっても障害胎児排除が明白に起きているのですから、危惧するのも当然です。母体に対するマーカーテストなどは障害者に対する差別であると言えるでしょう。障害をもっている人が社会にいることがリスクではなく、当たり前であるということが望ましい社会なのです。ヨーロッパでも理想どおりにいっていないことは聞いていますが、風潮として、医療や科学が経済学的効果という観点から、先天的障害者を駆逐することを正義のようになりつつあるのはよいこととは思えません。先天障害のうち事前に分かるのは、障害全体のごく一部であると言われています。健康な赤ちゃんを生むことだけが社会にとって必要とされるようではおかしいのではないでしょうか。「障害の経済学」が経済学の立場から、医療や科学に対してキチンと問題を提起できるようになる契機になってほしいと思います。 

経済効率主義への反省―価値観の転換―

渡辺

 いままで日本を支えてきたのは経済効率主義です。儲けに役立つ人間だけを求めてきました。デンマークやスウェーデンなどの福祉国家でもすべてが上手くいっているわけではないのですが、「追いつき追い越せ」で製造業中心に進んできた日本経済は、反省するべき時ではないのだろうかと思います。経済効率主義への疲れ、反省、目的喪失が問われている。日本人自身が戦後の生き方に疑問を投げかけはじめています。新しい産業、日本のこれからの生き方、経済活動、福祉産業の興隆などが望まれる時代になってきているのです。発想の大胆な転換の必要性が求められているのです。

京極

 経済学説的に言えば、いまは偉大な経済学者シュンペーターが述べたように、1世紀にわたる巨視的経済循環の変化の時期に来ていると言えます。少子高齢化も時代の変わり目の指標でしょう。ITなど情報革命に関しては理解されてきていますが、少子高齢化、地球化などを含めたもう少し大きなイノベーション(技術革新)の時期に今日は世界的に来ているのではないでしょうか。福祉行政や福祉業界も個別の施設等の問題などで捉えるのではなく、もっと大きなビジョンの中でのイノベーションの時代に差しかかっていることも自覚したいと思います。

安積

 いまのお話のように、情報の価値が大きな意味をもつ時代を迎えているのでないでしょうか。人間は生まれたときはだれでも最重度障害者です。ただ一般の人は急激な成長のなかで最重度障害者時代があったことを忘れてしまい、効率だけを求めるようになってきているのです。でも人間のなかには重度障害者のままで成長し生きている人もいるわけです。この人たちの持っている「時間や空気」を情報として聞きとどけていけば社会も大きく変わりうると思うのです。
 自分のことで言えば、今まである大学で非常勤講師をしていましたが、来年度からは別の大学でも非常勤講師として話をすることになっています。私が情報を「伝える側」になることは、以前なら考えられないことでした。私がもっていることを聞きたがっている人たちがいること、私が伝えられる存在であるということがうれしくて仕方がないんですね。私たちがもっているものに謙虚に耳をかたむけられる社会へと大きく変わりつつあると深く感じています。

渡辺

 社会が変わりつつあるのは事実です。乙武効果に見られるように、マスコミが取り上げたためかもしれませんが、彼から発せられたメッセージが多くの人たちの心を打ったということですね。「癒し」というと俗な言い方かもしれませんが、本当に癒されたいという人が増えてきた。そういった背景があって乙武さんという人が出てきて、それが人々が求める情報や何かであったのではないかという受け止め方をしています。まさに安積さんが「伝える側」にまわるのは「聞きたい」という人たちが増えてきた。それは別のものを求める国民の側からの改革の一環ではないでしょうか。それほど世の中の価値観が大きく変わろうとしているのかなと思います。それを政治や行政、われわれマスコミがうまく変えていかなくてはならないと思っています。単に、ハード面の構造改革ではなく、世の中全体に言えることではないでしょうか。

必要な支援と教育

京極

 障害者の日常活動を考える場合に、厳しく言わせてもらえると、いわゆる「甘え」ということが問題になることがあります。著名な科学者であるホーキング博士などの生活は、自分の学者としての活動を支えるために、かなりの医療的なバックアップを必要としており、自宅の酸素室など最大限の努力をしていると聞いています。ですから障害者の可能性を引き出し発展させていくためには在宅医療などのバックアップ体制の確立も必要でしょう。障害者のもつ可能性を十分に発揮させるようなバックアップをすることと障害者もまた「甘えの構造」にならないようにすることが大切なのではないでしょうか。乙武さんの『五体不満足』が国民的共感を呼んだのも理由があります。それがまた行政を動かしていくし、企業を変えていく、さらに社会全体を変えていくことになります。

安積

 障害者の甘えの問題は、教育の問題であると思います。養護学校教育では人との付き合いがなかなか分からないのです。また、障害をもたない人も障害者のことが分からない。お互いの出会いがないからです。お互いが出会えていないところで、急に労働の場で一緒になったときに、自分にはできないと思わされた教育を受けてきた障害者は、効率主義のヒェラルキーの中でうまく活動できないことになってしまうのです。この問題点は、どのような環境で育てられてきたかということに原因があるのではないでしょうか。
 最近、教育施行法改正令といって、障害をもった子どもは養護学校に行ったほうがいいという、時代の流れに逆行した法律が国会で可決されようとしています。経済だけでは、語られない分野ですが、そこに行き着くための教育、医療には差別されていることがたくさんあることを見ていただきたいと思います。統合教育の場であれば、一般の子どもたちとの出会いの中で、自分のあり方を見つめなおす機会も自然とでてくるものです。たとえば体力や行動力に限界があっても、本を読む力という知的活動に自信をもてば、これだけは負けない、その評価や信念から生きる自信を得ていくということもあるのです。私の娘も来年就学年齢ですが、車いすを使った子どもは養護学校へ行かなくてはならないとしたら、これは時代と世界の流れへの逆行です。
 また、一例として精神障害者の問題ですが、これは渡辺さんがおっしゃるとおり、時代が作り出していると思うんです。精神障害をもっている人の約半分は、経済効率至上主義の被害者になっているのです。この事態は教育の現場による変革に期待するところが大きいと思います。先ほども話しましたように、軍隊をなくして、介助に振り替えるくらいの発想の転換が必要ではないでしょうか。そうすれば福祉関連費用の増額も可能でしょう。

渡辺

 80兆円の予算の中で、福祉関連経費の増額は必要でしょう。同様に医療、教育等にも振り向けてもらいたいと思います。公共事業の見直しなども当然必要です。50対40対10の10が福祉関連予算であるというのは少ないと思います。北欧等の福祉国家では能力のある人は高い所得を得るが、高額の税を払う、それが福祉関連費用として還流していく、このシステムが発達しているのです。結果としてハンディキャップをもつ人々を支えているのだという思想が福祉国家を支えてきているわけです。
 日本の場合、改めなくてはならないと思っていることは、「雇用機会均等法」というように「均等」という言葉をよく使います。「平等」という言葉は日本ではあまり使いたがりません。機会は均等に与えたけれども、努力の成果としての結果の不平等は問われないということですね。北欧の福祉国家システムのように結果として恵まれなかった人に対して、成功した人が税を通じて恵んであげるという形にも問題はあると思いますし、アメリカンドリーム的に機会は平等に与えて、成功者はいい思いをする、これもどこかおかしい。まさに先ほどおっしゃった「共生」ですが、みんなが理想論にとどまらず、結果の不平等だけではなく、雇用機会の均等でもない、教育機会の均等だけでもない、新しいコンセプトを基にした社会の構造変革の理念をどうつくるかということではないでしょうか。私は、いまの日本では新しいシステムを作ることのできる条件はあると思いますが、議論する機会が少なかったのではないかと思っています。北欧型かアメリカ型かという議論では、日本に適した新しい理念やシステムは生まれてこないと思っています。

試されるのは国民の英知

京極

 確かに社会保障は大部分が個人給付です。あえて誤解を招くことを恐れずに言うならば、従来の社会保障はややもすると、ネガティブな社会政策と言えないこともないでしょう。従来の障害者の社会保障は、ポジティブな社会政策として労働力を付けていくかという観点が弱かったのではないでしょうか。これからは可能性としての能力を引き出す教育・訓練が必要でしょう。各個人の能力が障害者に限らず、画一教育でつぶされているかもしれないという反省に立つことも大切です。教育のあり方をはじめ、障害者の能力を伸ばせる職場の開拓などを国の施策として積極的に行う必要があります。現在、税金をはじめとして確かに狭い意味での福祉に投じられる費用は少ないと思いますが、同時に雇用機会の創出ということも積極的に展開してもらいたいとも考えます。いわゆるポジティブな社会政策というようなものが大切なものではないでしょうか。「障害の経済学」の結論は、そのあたりに持って行きたかったし、可能であると思っています。
 昔、アメリカのケネディ大統領が障害者福祉に関しては、同情や政治的配慮ではなく、アメリカ国民の英知が試されているのだという有名な演説をしたことを思い出しました。21世紀において日本国民の英知が試されている問題であると考えます。私の連載論文もそうした方向の問題提議となれば幸いです。