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後輩たちよ逞しくあれ

佐賀善司

 旧聞になるが、盲学校の生徒が数名タバコを吸っていたところを見つかり、処分されたことがあった。当世こんな話はめずらしくもないだろうが、事件の現場が寄宿舎とは目と鼻の先のラーメン屋だったこと、そこにいた生徒が全員全盲だったこと、のり込んだのが寮母だったことに、言いがたいやりきれなさを感じたものだ(寮母さん、あなたの行動は教育者の使命感と大人の良識に基づくものでアンフェアとは言えませんが、たまたま目撃したのですか? それともマークした生徒を〈泳がせて〉網を張っていたのですか?)。
 不良行為の前に〈ばれないように〉どの程度知恵を絞ったか定かではないが、場所の選定に彼らの歩行能力が関係していたことは間違いないだろう。寄宿舎から10分も歩けばちょっとした学生街である。そこには未成年者の喫煙を黙認してくれる〈物分かりのいい〉喫茶店だってあるかもしれないではないか。発覚の可能性が最も高い寄宿舎を避けたのは当然として、その場所がよりによって寄宿舎のまん前だったなんて! 彼らがやったことの是非も忘れ、私は彼らに同情してしまった。
 喫煙は誉められたことではないが、彼らが十分に独り歩きができて好きなところへ行けていたら、こんなにあっさりと挙げられることはなかっただろう。もしかしたら、盲学校では生徒が悪の道に進まないように、きちんとした歩行指導をしていないのだろうか?
 これはもちろん意地の悪い冗談だけれど、今の盲学校に自立に必要な知恵と力を生徒が獲得するための土壌があるのだろうかという点はまじめに憂慮している。知識は教師から教わることができても、知恵や力は(悪知恵も含めて)他者とのかかわり合いの中で自分でつかみ取っていくしかない。盲学校の生徒数は全国的に減少が進み、岩手では現在43名、私が在籍していたころの4分の1弱になってしまった。当然、教職員数が生徒数を大きく上回っている。安全の確保、生徒一人ひとりに目が行き届くという点では申し分のない状況だろうが、学校と寄宿舎という空間で、大人の行き届いた目配りの中で、プライバシーもなく、上から教わることのみ多い環境で純粋培養された子どもたち・若者たちは、はたしてどんな大人になっていくのだろう。
 盲学校にはこだわらない。自分の人生を丸ごと背負いきれる逞(たくま)しさと、どんな社会にも対応できるしなやかさを育てる教育とはどんなものか、改めて考えてみたい。

(さがぜんじ 岩手県立点字図書館)