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文学にみる障害者像

井伏鱒二 著
『遙拝隊長』

村田信男

 この短編小説は、主人公の元陸軍中尉岡崎悠一(33歳)が、第二次世界大戦のなかの太平洋戦争(以下「戦争」と略記)に従軍し頭部に負傷した結果、異常な言動を伴う発作という後遺障害をもって郷里の山村に帰還してから敗戦に至るまでの村内における騒動記である(引用文は「 」で記す)。
 軍国主義の当時、学業、身体ともに優秀な少年は陸海軍の士官学校に入り将校になることをめざし、また、家族や親族はもとより地域の人たちもそれを誇りとする風潮が強かった。
 大元帥陛下のために命を捧げることに最大の価値を置くべきであると日本国民の大多数が考えていたからである。
 悠一はその資質を有していたため、小学校長の推薦もあり陸軍幼年学校に入り、士官学校を経て22歳で少尉に任官した。
 その頃戦争は拡大し、日本は今まで戦っていた中国のほかに米英蘭に対しても宣戦布告をした。太平洋戦争の始まりである。
 彼はマレー半島に小隊長として派遣され、トラックで移動中に爆撃で壊された橋を渡る途中で振り落とされて川に落ち、頭をひどく負傷したのである。
 幸い命はとりとめたが、頭の負傷は芳しくなく「つまり、頭の打撲傷を痴呆症という病気にすりかえられた」状態で、戦傷兵として郷里に戻ってきた。
 村民は戦時中のこととして、頭部外傷の後遺症状をもった彼を名誉の傷痍軍人として敬意を払って迎え入れた。
 彼は遙拝隊長と通称されていたが、それは負傷する以前から東方(つまり大元帥陛下の統率している祖国の方向)に向かって遙拝する癖があったからである。たとえば戦況について何かちょっとした朗報を耳にすると、たちまち汚い溝川もかまわず飛び込み、沐浴してから東方に向かって遙拝したが、それを部下にも強要し、整列させて遙拝と万歳三唱をさせた。そのようなことが度重なりこのようなあだ名が付けられたのである。
 戦傷兵として郷里に戻ってからはふだんは割合おとなしくしていたが、終戦になってもいまだ戦争は続いていると錯覚して、自分は以前通り軍人だと思い込んでいるため、一旦発作が起こると他人を自分の部下だと錯覚して部落内の誰彼に見境なく号令を浴びせかけ、整列させ、東方に向かって遙拝することを命令するのだった。
 それでも敗戦に至るまでは、名誉の負傷兵への敬意と軍国主義の教育、締めつけが村民にも広く及んでいたため、彼の強要する整列や遙拝なども抵抗なく従う者がほとんどだったから、彼が発作を起こしても周囲の人たちとの食い違いは小さくて、そんなには目立たずトラブルには至らなかった。つまり小発作で収まった。
 「様子が怪しまれるようになったのは、敗戦が近づいてからであった。完全に気違いの発作症状を見せたのは、敗戦後数日たってからのことである」。 
 発作それ自体は頭の外傷による〈身体因〉であるが、その強弱が敗戦という〈状況因〉、それに伴う周囲の人たちの名誉ある負傷兵への急激な対応の変化という〈環境因〉などにより心理的ストレスをもたらして〈心因〉を形成した結果、より大きく変化する相対的なものであることを前記の叙述は示している。
 彼の社会人としての拠り所は、エリートとしての陸軍士官という社会的地位とそれを補強する東方遙拝に象徴されたイデオロギーであったし、さらに、傷痍軍人への手厚い経済的保障もあった。
 戦傷兵として帰還してからも、敗戦まではこれらのことを周囲も受け入れてくれる土壌があり、彼もそれを実感していたが故に、敢(あ)えて反応して大発作を起こさなくてもよかったのである。しかし、敗戦はこれらを完全に否定して、彼の社会人としての拠り所は全く失われ、周囲の彼への見方も急激に変わってきた。
 このような自己の価値意識の急激な崩壊と、それに相関する地域住民の掌(てのひら)を返すような変化は、誇り高い彼にとっては致命的なものであったに違いない。
 彼は、周囲から見れば完全な気違いの発作状況のなかでしか自分のアイデンティティを保ち得ず、周囲の状況の変化が大きければ大きいほど、それは大発作とならざるを得なかったと考える。
 また、彼は敗戦前後の不穏な雰囲気をだれよりも鋭く早く察知し、それに対応する能力をもっていたとも考えられる。
 〈後の祭り〉を悔やむタイプの人たちがいる一方で、祭りの前から祭りによるざわめきやエネルギーの消耗などを敏感に察知し、不安に駆られて前駆症状を呈する〈前の祭り〉タイプにの人たちがいるが、主人公は後者に属すると考える。
 「敗戦」という大きな祭りを敏感に感知し、反応したのだろう。

 その後、彼はどうなったのだろうか。気掛かりなこの点について、作者は一切触れていないので、残念ながら読者はそれぞれ推し量るしかない。
 推測の一助に、敗戦を境にしての村人等の彼への対応の変化、それと相関する症状の動きを引用してみる。
 「戦争中、悠一が戦地で怪我をしてから脳を患って送還されるとき、陸軍病院へ悠一の退院を願い出に行ったのも近所の人たちである。(中略)この隣組内に将校が帰ってくると鼻が高いというわけで、隣組一同で悠一の退院促進の件を決議した。(中略)そのころは悠一の発作もそんなにまだ目立たなかった。」
 これが敗戦前の村人の悠一に対する畏敬と受容の意識であり、それとの相関で発作も目立たなかった。
 発作がひどくなったのは、敗戦が近づいてからであり、敗戦後数日でいっそうひどくなった。
 「敗戦後、彼が何10回目かの発作を起こしていたときだった。(中略)悠一は〈伏せえ、敵前だぞ〉と居丈高に言ってその青年の肩をつかんで―(中略)
 〈何をする失敬な〉と青年はよろめきながら悠一に手を突きつけた。
 〈反抗するのか、馬鹿野郎、愚図愚図するとぶった切るぞ〉そう言ったとたん、悠一は頬を殴りつけられていた」。
 このように周囲の人たちの彼への対応の仕方が変わるのと呼応して彼の発作もひどくなり、回数も多くなる悪循環を呈していった。
 これらの推移は、人間にとってアイデンティティの重要さや、障害が身体因のみならず状況因や環境因によってもたらされる心因の強弱によって変動する相対的なものであることを端的に示している。

 「この作品は、戦争と戦争思想の愚劣さを痛烈に暴き、嘲笑したものであることに間違いない。が、一方では、この哀れな戦争犠牲者に対するヒューマニティの熾烈さも見逃してはならない」と解説で上林暁は記している。
 さらに、「“6号室”(チェーホフ)や“紅い花”〈ゴーゴリーの“狂人日記”もこれに加えられていいであろう〉などに比せられるべき、社会性をもった優れた狂人小説が現れたとみるべきであろう」と続けて記している。
 筆者もこの上林暁氏の優れた解説に付け加えるものはない。
 この小説のモデルを通じて、人間においてアイデンティティを保持することの重要性(逆に言えば、それを中途において喪失したときのダメージの大きさ、改めて再編成していくことの大切さと大変さ等)と、障害が(身体因と精神因を問わず)状況因や環境因など、心因や社会因により左右される相対的なものであることを知っていただければ幸いである。それにより、障害者のアイデンティティや障害への認識の仕方も違ってくると思うからである。

(むらたのぶお 医療法人社団瑞信会、北千住和光ビルクリニック)

〈引用文献〉
井伏鱒二著「遙拝隊長・本日休診」新潮文庫No.858、昭和30年6月5日発行
〈参考文献〉
 高橋正雄、井伏鱒二の「遙拝隊長」
   ―地域精神保健の視点から―
日本医事新報No.3635、平成5年