ワールドナウ
インドネシア・バンドンの
職業訓練所の運営にかかわって
中谷桂子
バンドンはインドネシアのジャワ島西部に位置し、首都のジャカルタから車で4時間ほど行った、山並みに囲まれたインドネシア第三の都市です。花の街としても知られ、街は1年中色とりどりの花や緑の樹木に覆われています。気候も涼しく、過ごしやすいため、オランダ領時代だけではなく、今でも避暑地としてにぎわっています。バンドンはジャワ島にありますが、スンダ人の住む、スンダの都です。スンダ人はインドネシア語も話しますが、スンダ人の間ではスンダ語を使います。また、食生活においてもスンダ料理を食し、スンダの文化・習慣を大切に守って暮らしています。こんなスンダの都で私たち家族は5年間を過ごしました。
日本との違いに驚く
初めの2年間はインドネシアを知ろうと努力しました。中流階級の人たちが住む地域に家を借り、インドネシア料理を食べ、娘たちも近所のインドネシア人の子どもたちと毎日遊びました。インドネシア社会の中にどっぷり漬かれば、何かが分かって来て、ボランティアとしてお手伝いできることも見えてくると思ったのです。
ところが、インドネシア社会にも言葉にも慣れてきたというのに、インドネシアがなかなか見えてこないのです。障害をもつ人たちを街で見かけるのですが、そのほとんどがお金を乞う目的で外に連れ出された人たちでした。障害者や乳飲み子を物乞いに使うため貸し出すシステムがあること、早朝、トラックで障害者を連れて来て、夜、その日の稼ぎを搾取するために連れに戻ってくる人たちがいることも知りました。中には、血が流れ出ているように見せるため、足にペンキのようなものを塗られている人もいました。車で走り去る人たちの同情を買う狙いなのです。日本で自分の車を運転して、生活を楽しんでいる車いすの友人たちとの違いに、予想はしていたものの、あまりの水準の低さに驚いてしまいました。それでは一体、障害をもった人たちはどこでどのように暮らしているのだろう、という素朴な疑問が沸いてきました。
ディアナさんとの出会い
その頃、JICAの調整員の方から、ディアナさんという女性を紹介していただきました。彼女は一人で障害者の職業訓練所Kupca Samaktaを運営していました。Kupcaとは、「収入」という意味でSamaktaとは「パートナーに力を貸す」という意味の略語です。訓練所は細く曲がりくねった道の奥にあり、小さな一軒家の庭先には、リサイクルペーパー用のスペースが作られていました。家の中にはいたるところに生徒の作品が並べてありましたが、作品はとても販売できるようなものではありませんでした。展示室の横には裁縫、向かいにはコンピューター、車庫には陶芸の設備が置いてありました。
ディアナさんは初め、この訓練所をベルギー人のソーシャルワーカーのご主人と二人で始める予定でしたが、1993年の開設直前にご主人が心臓発作で他界されてしまったそうです。一人ではとても運営できないと、一度は開設を諦めたそうですが、周りの強い勧めとオランダから来た障害者教育専門家夫妻の応援を得て、開設を決意したそうです。
ディアナさんと話していくうちに、インドネシアでは障害児を家に閉じ込めて人目にさらさないようにする家がまだ多く、ほとんどの子どもが教育を受ける機会に恵まれていない、ということや、田舎に行けば行くほど障害者の数が多く、それは、近親相姦や、妊娠中に薬を飲んでしまった等の防ごうと思えば防げる原因が多いということも分かってきました。
ディアナさんの施設で訓練を受けている生徒の9割は聴覚障害です。ディアナさんは養護学校と連絡を取り合いながら、生徒に声を掛けているそうですが、宣伝活動は一切していません。時々、人から施設のことを聞いてやってくる人がいますが、その多くが初等教育も受けていないため、普通より訓練に時間がかかるけれど、施設では受け入れているそうです。「すべての面で少しずつ地道にやっていくしかない」と彼女は言いました。私は、その言葉を聞いて、そんな誠実なディアナさんと生徒たちのために何かできないかと心から思いましたが、裁縫はできませんし、コンピューターも駄目です。それではと施設を見回した時に目に入ったのが、リサイクルペーパーでした。
リサイクルペーパー作り
その頃、施設では、ペーパーを染料で色付けしていました。どぎついピンク、青、緑のような原色ばかりでした。いらなくなった紙を集めるのにも苦労していました。そこでディアナさんと相談して、お手伝いさせていただくことにし、環境にやさしい再生紙作りをすることにしました。
日本の和紙をお手本に化学染料をやめて、すべてインドネシアの自然の材料を使うことにしました。紙の補強剤にバナナの幹を摩り下ろしたものやたばこの葉を、染料の代わりに熱帯果物、香辛料、コーヒー、紅茶などを使うことにしました。紙の中にも熱帯の草花を流し入れたりすることにしました。
紙は、OCS(海外新聞普及株式会社)から送られてくる新聞の封筒を集めることにしました。これだと染めなくてもきれいな薄茶色の再生紙ができるのです。ところが、OCSにお願いして、封筒の中に「使い終わった封筒を寄付してください」という紙を入れていただいたのですが、連絡が来たのは、2、3件だけでした。調べてみると全バンドンで新聞を取っているのは約100軒、ほとんどが企業でした。仕方なくジャカルタのJ2ネットという婦人のボランティアグループに応援を頼み、それ以来、ジャカルタから帰る時のわが家の車は廃品回収車のようになりました。
試行錯誤を繰り返しながらも、紙作りは少しずつ軌道に乗り出して、現金収入もわずかながら入ってくるようになりました。ここまで来るのに2年以上かかりました。今思うと、よく途中で挫折せずにみんなで頑張ってきたものだと思います。
ところが、今度は注文が増えてくるにしたがって、紙を天日に干す場所が足りなくなってきてしまったのです。特に雨期になると紙の乾きが悪く、ご近所の壁にまで紙を立てかけて何日も干さなければならなくなり、このままでは、相互扶助(ゴトンロヨン)の精神を尊ぶご近所のインドネシア人でも近いうちに爆発するに違いないとディアナさんと危惧していた時、天の助けが現れました。地質博物館のJICA専門家が化石を保存しておく箱を注文してくださったのです。化学薬品を使っていないことが幸いしました。5千個という大量注文を全員でこなし、開設以来夢にまで見たビックなSamaktaが入ってきたのです。
軌道に乗ってきた作業
お陰で、そのお金で現在の施設を借りることができました。今度は、15部屋もあり、中庭で紙も干せますし、陶芸もできます。J2ネットを通じて、帰国される方々から、テレビ、ビデオ、食堂セット、本棚などの寄付もいただき、少しずつ施設らしくなってきました。現在、31人の生徒が通所していますが、31人のうち7人は卒業生で、併設された授産所で働いています。
生徒たちは、入所する際に5万ルピア(約670円)の1年分の登録料を支払います。そして、陶芸、裁縫、再生紙作り、手工芸、コンピューター等の中から自分の好きなものを選びます。訓練の講習料は1月2万ルピア(約230円)です。ディアナさんはオランダのユリアナ―リリアナ基金から年300万ルピアの援助を受けています。そこから事務員3人の給与や講師の交通費、そして受講料が払えない生徒への補助を出しています。ディアナさん自身は亡くなられたご主人の年金で暮らしていますが、持ち出して穴を埋めることも多いようです。
まとめにかえて
この3月に私たちは本帰国しましたが、帰国前の半月、車の無い生活をしてみました。街を歩き、アンコタという乗り合い小型ワゴンやタクシーで動いてみました。通勤、通学の時間帯に扉を開け放して突っ走るアンコタに乗るのは私たちでも至難の業でした。また、タクシーの数も少なく、呼んでも来ないことが多く、居住地の細い道の中まで車が入っていけないことも改めて思い知らされました。
バンドンは山に囲まれた坂の多い街です。舗装されている道路は大通りぐらいで、それ以外はがたがたの泥道だったり、砂利道です。歩いてどこかへ行くのにも本当に体力が要ります。高いビルにはエレベーターがあっても故障中が多く、信号も少なく、横断歩道はありません。
5年間、一度も車いすで街を歩く人を見なかった訳がよく分かりました。でも、街のあちらこちらに、ディアナさんのような人がいて、こつこつと障害者のために努力を続けているのを私は、この目で見てきましたし、インドネシアの若者たちが何とか、国を建て直そうと希望に胸を膨らませているのも知っています。小さなたくさんの思いがいつの日か必ず芽を出し、花を咲かせると私は信じています。ディアナさんへのお手伝いは、これからも日本とインドネシアという形で続いていきます。
(なかたにけいこ 神奈川県在住)