音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

WHO「国際生活機能分類」(ICF)の評価と課題
―ろう者の立場から―

高田英一

1.階層性の採用

 WHO「国際生活機能分類」(以下ICF)の特色の一つは人間の障害を分類するにあたって、階層論を取り入れていることである。それは、人間の特定部位の障害そのものだけを限定的に取り上げることなく、障害を人間の社会生活を含む多様な要素の複合した問題であること、つまり障害にはいくつもの階層の重なりがあることを理解していることである。そして「心身機能・構造」(以下「機能」)「行動」「参加」を主な階層とし、階層ごとに障害となる事項を具体的に整理していることである。
 たとえば、ろう者の問題は確かに聴覚障害に由来するが、だからといってその聴覚障害とその「機能」レベルを指摘するだけでは、ろう者の実生活における問題を的確に理解することはできない。聴覚障害の「機能」レベルだけの指摘は、自動車、電車の警笛等のきこえの悪さの理解にはなるだろう。しかし、それだけではろう者の社会的障害、つまりろう者と健聴者のコミュニケーション障害を理解することはできないのである。ろう者の実感としては、警笛のきこえの悪さよりもコミュニケーション障害のほうがはるかに実生活に対する影響は大きい。その理解のためには、「行動」「参加」のレベルも分類に含めなければならないことは明かであろう。
 わが国の法定の分類には、このような「行動」「参加」といった社会的要素は全く含まれない。だから「機能」のレベルによって支給される補聴器は法的に規定されても、手話通訳制度は法的規定に含まれないという時代にそぐわない現象が表れる。わが国の障害分類もこのICFにならって階層性を取り入れて障害を分類し直すなら、もっと障害者の切実なニーズを反映するものとなるだろう。

2.論議への参加

 1981年の国際障害者年は、障害者の世界的な夜明けとなった。それは「完全参加と平等」のテーマが初めて示されたことに象徴される。
 そして「完全参加と平等」の見地からは、障害者は自ら「完全参加と平等」を実現すべき主体と位置づけられた。それゆえ、ICFの制定に当たっては、障害者はその主体的な役割を果たさなければならなかった。
 国際保健機関(以下WHO)は、ICFの制定にあたっては、専門家、職業的従事者、障害者がそれぞれ3分の1ずつ参加する国際的検討、論議を指針とした。そこには障害者人権の完全な認知が反映していると思う。現実は必ずしもそうならなかったかもしれない。しかし、この指針は評価されるべきである。
 わが国もこのICFをより所として、新しい分類の制定に着手すべきであるが、その場合、行政レベルの都合を先行させることなく、このWHOが打ち立てた検討、論議の指針を忠実に守ることが要請される。また、それは「完全参加と平等」をめざす限り、どのような場合にも適用される原則と言える。

3.課題

 理念が先行し、現実が後追いすることは段階としてあながち非難されるべきではないが、このICFの制定も理念として障害者の検討、論議参加は保障したが、現実には必ずしも十分保障されたとは思わない。この問題はさらに具体的に整理され、今後さらに改善されるべき課題であることはいうまでもない。
 たとえば「行動」「参加」のレベルにおいて、手話が音声言語と同等の言語と評価されたことは画期的である。先行した「国際障害分類試案・ICIDH」が手話を疑似言語と規定したことと比べると前進は明かである。ところが、手話に関する基本的な理解不足がいくつか露呈している。たとえば、手話を認識するに当たってそれを得体の知れない「公式手話」に限定したことである。
 「公式手話」とは何か、それは一国の法律が認定した手話をいうのか、それなら音声言語も当然一国の法律が認定した公式音声言語に限定するべきである。しかし、公的に認定されない少数音声言語はいくつもあるから、それでは少数民族の否定につながるだろう。だから、音声言語には公的という限定条件は付けられない。手話だけに「公式」という限定条件を付けるのは偏見の残滓(ざんし)というべきである。
 また、ICFが階層論に立脚するならなぜ、手話通訳制度のようなろう者のコミュニケーション条件に言及しないのか。補聴器や義肢、義足などの支給制度の有無はそれを必要とする人たちにとって、決して無視できない「行動」「参加」における要件である。同様にろう者にとって、手話通訳制度の有無は「行動」「参加」における欠かせない要件である。たとえば、ヨーロッパ、アメリカ、日本における手話通訳制度の存在は「完全参加と平等」を身近にした。逆に発展途上国におけるその不在は、ろう者の「完全参加と平等」の桎梏(しっこく)となっている。
 このようなろう者にとって決定的ともいえる不備は、ICFを画龍点睛を欠くものとしている。その理由は、やはりろう者など障害当事者の参加が決して十分でなかったことを物語っていると思う。このような社会制度に対する軽視は、「行動」「参加」における条件の軽視につながる。次回こそ、障害当時者の「完全参加と平等」によってこのような欠陥を解消したいものである。

(たかだえいいち (財)全日本ろうあ連盟副理事長)