文学にみる障害者像
灰谷健次郎 著 『兎の眼』
―子どもと友達になる―
山県喬
口のきけない子
鉄三は、塵芥(じんかい)処理所の長屋に貧しい祖父と2人で暮らしている。少し発達が遅れていて、ことばもろくにしゃべれない1年生で、すぐ近くの小学校に通っている。
何もすることがなくて、だれにもかまってもらえなくて、いつのまにかハエを瓶の中で飼育することだけがたのしみだった。だからこの瓶は鉄三の宝物だった。
カエルの餌を探していた文治が、その瓶を盗んだことがわかって、鉄三はたけり狂った。鉄三の爪で引き裂かれた文治の顔は血だらけになり、トノサマガエルはふみつぶされて、ひくひくしていた。その場に居合わせた担任の小谷芙美子先生は、それを見て卒倒してしまった。しかし小谷先生は、このことで鉄三を見捨てることはしなかった。鉄三のじいさんから、じっくり話を聞いた。
バクじいさんの話によれば、何度もこんな不潔でくだらない趣味をやめさせようとしたという。しかし、どんなに怒られても、どつかれても絶対にハエを飼うという。そのうちに怒れんようになったのだという。
こいつには母親もないし父親もいない。世の中でだあれもかわいがってくれる者がおらん。そう思ったら怒られんようになったのだという。しかもあの瓶の中には、金獅子というハエの王様みたいなものが入っていたのだ。
だまって聞いていた先生は、鉄三に深く同情するようになった。しかし、何と言ってもハエは伝染病を媒介する危険性をもっているから、やめさせなければならない。小谷先生は、鉄三にしかるのではなく、じゅんじゅんと説いた。
しかし、次の瞬間、先生は鉄三に突き飛ばされた。先生はせきが切れたように悲しみにおそわれ、はげしく泣きじゃくった。
鉄三がしゃべった
小谷先生は、図鑑を買ってきて、ハエを研究しはじめた。ハエには種類がたくさんあること、ハエは親に産み放され、生涯を仲間も家族も家さえもなく、ひとりで暮らす。その間ハチ、クモ、小鳥などにおどかされるが、他をおどかすことはなく、その食べる物といえば、社会の廃棄物にすぎない。そこには何の美談もないが、残忍性もなく、ごくつつましい、いわば庶民の生活である――まるで鉄三みたいであった。
さらにハエは、本来戸外にいて花の蜜や木の汁を吸っていたのだが、人間が出すゴミ、糞便に次第に寄りつくようになったという。言ってみれば人間が悪いのであった。
小谷先生は、親しい足立先生と一緒に処理所に入って行き、そこの子どもたちと図鑑で実物のハエを調べ始めた。みんなで本とハエを代わる代わるのぞき込んで、九つのハエの名がわかった。
一つだけよくわからないハエがあった。あれでもない、これでもない、と言い合ってページをめくっていると、突然、
「これや」
と声がした。小谷先生は、びっくりして鉄三の顔を見た。指さされた所を見ると、ホホグロオビキンバエと書いてある。小谷先生が鉄三の声を聞いたのは、それが初めてであった。
無垢な兎の眼
小谷先生は西大寺が好きだ。久しぶりに出かけた。本堂の中の善財童子という彫像がお目当てである。美しい眼をしている。ひとの眼というより、兎の眼だった。それは、祈りを込めたように、ものを思うかのように、静かな光をたたえてやさしかった。
小谷先生の原点は、その無垢な美しさをたたえる善財童子の眼なのだった。処理所の子どもたちのやさしさ、ハエを飼っている鉄三の意志の強さ、これらは童子の眼の美しさに通じるものがあるのだった。
障害児も仲間
10月、小谷学級に伊藤みな子という奇妙な子が入ってきた。朝、おばあさんに連れられて学校に来る。自分の席に3分間とじっとしていられない。あちこち歩きまわり、消しゴムを口にくわえたりする。うれしいことがあると、くらげが泳ぐような形でよく走る。みな子が何かすると、それはたいてい、みんなに迷惑をかけることだった。
授業中、立って小谷先生の所へ来てぶら下がり、大きな声で笑う。ことばは「オシッコ、ジャー」の一言だけで、そのことばが出た時は、もう間に合わないのだった。後の始末がたいへんだった。
みな子が来て1週間ほどたち、みな子が風邪で休んだ日、先生はみんなと話し合いをした。
「みな子ちゃんはアホや」
「みんなに迷惑かけるよ」
はじめ子どもたちはそう言っていたが、話し合っていくうちに、みんなだってアホと言われるともあるし、迷惑かけることもある、大同小異ではないか、ということになった。
その結果、「みな子当番」をつくることになった。毎日男女2人が組んで交替で、みな子の世話をするのである。クラス全員が賛成し、翌日から当番が始まった。
1時間目の途中、みな子はチョウチョになって勝手に席をたち、校庭に出る。当番の2人の子もけんめいに後を追う。それから3人はスベリ台で遊ぶ。3人はお尻を泥だらけにしてしまった。
鉄三がやよいという子と組んでみな子当番になった。鉄三のやり方は他の子たちと一味違っていた。みな子が教室の外へ行きそうなそぶりを見せると、鉄三が先手を打って歩き始める。校門の桜の木の所まで来ると、上を見上げて木を揺すり、落ちてくる毛虫を捕まえて砂場に持ってきてそれで遊ぶのである。砂をかけられた毛虫は、けんめいにはい出してくる。それを見て、みな子も一緒におもしろがった。
やがて子どもたちは、不用になった給食の配膳車に彩色をほどこして、みな子の乗用車にした。みな子は黄色い傘をさして乗用車に乗るのがお気に入りとなった。当番の子どもに引かれて、みな子の車はゴロゴロ教室を回る。その横で子どもたちは静かに小谷先生の授業を受ける。
このような形で、みんなはみな子を仲間の一人として受け入れているのだった。
抵抗の精神
塵芥処理所の移転問題が起きた。
現在の処理所は設備も旧式で公害も多く出るので、第3埋立地の近代的設備の所に移転するのだという。
処理所内の住民には、突然の一方的な通告だけだった。子どもの通学については、当然転校となり、ダンプカーなどの往来する危険な地域を長時間かけて通うことになるという。
この移転問題をめぐって、住民の反対運動があり、小谷先生も同士の友とともにこの闘争に参加していく。
この作品の別の柱として、政治権力に対しての批判や抵抗の精神がある。バクじいさんは、若い頃、朝鮮人の優れた友人をもっていたが、日本政府の残虐な弾圧によってしいたげられ、じいさんも共に闘った経歴をもっていた。
「人間は、いざとなったら抵抗の精神を忘れてはいかんよ」
小谷先生の原点の一つは、バクじいさんのそのことばなのである。
まとめ
この作品が発表された1978(昭和53)年頃は、それまでなおざりにされていた障害児の教育問題について、世間の関心が次第に高まり、養護学校の義務制も間近に迫っていた。しかし、「養護学校」の発想の中には障害児を隔離する思想もあり、真の意味で人格の平等を志向しているとは言い難かった。
教師が、上から子どもを見下して価値判断を押しつけるのではなく、子どもに寄り添ってともに考え、こころを交流していくというような考え方は、実は障害児教育を越えて「教育」の基本であるべきであろう。小谷先生のやさしさと強さは、そのまま灰谷文学の体質なのであろう。
「兎の眼」によって、灰谷文学は100万の読者を得た、と文庫版の解説に書かれている。
(やまがたたかし 東京都生涯学習講座「生活と文学」講師)