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刑事事件を犯した重大触法精神障害者の
処遇・治療に関する法制化について
―加害者・被害者双方の福利と精神障害者の
ノーマライゼーションの推進のために―

松下昌雄

はじめに

 精神障害者による重大刑事事件と言われると、誰しも古くは精神衛生法改正のきっかけともなったライシャワー事件(昭和39年)を思い起こす。筆者は事件数年後措置入院中の本人に直接面接したことがある。その後では、筆者が精神鑑定助手を勤めた幼児を含む数名を殺傷した深川通り魔殺人事件(昭和56年)の川俣軍司の鋭い眼光が瞼に浮かぶ。また、あるテレビ局の依頼で初公判を傍聴した幼女連続誘拐殺害事件(昭和63年~平成元年)の宮崎勤が緊張すべき初公判で居眠りをしていた異様な風景が今でも鮮明に思い出される。程度の差はあれ本人を知っている。その病態はさまざまであるが、世間を震撼させたこれらの凶悪な事件のいずれにおいても犯行の原因が全面的に本人自身にあるとは思えず、大半はその罹患している病(やまい)のゆえとの感慨を抱いている。最近では、切断した被害者の頭部を中学校の門前に飾った神戸小学生殺害事件、耳新しくは佐賀バスハイジャック事件など、そして昨年6月に8人の学童が犠牲となった痛ましい大阪池田小学校児童殺害事件が起こった。精神障害者による重大な刑事事件が起こるたびに司法精神病院による治療処分制度の必要性が叫ばれながら、保安処分に通じるという理由など、それに対する誤解のため日の目を見なかった。このたびの大阪の事件のあと、小泉首相の指示によりようやく本年1月に「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者に関する法律(法案)」なる政府案が公示され、先の国会で審議されたが、会期が延長された7月31日をもって審議未了となり、秋の臨時国会で継続審議されることになった。しかし、明日にでも同類の事件が起こり被害者が出る可能性は少なくない。一方、従来看過されてきた被害者保護に関しては、すでに平成12年5月に、ストーカー規制法、被害者保護三法などが成立している。以下、個人としての見解を述べる。

新法案について

 さて、今回の法律要綱(政府案)に対し、直ちに日本精神神経学会(以下学会)、弁護士会の一部が反対ののろしを上げた。学会の反対意見を集約すると次の三点に纏(まと)められる。(1)貧弱な精神医療の抜本的底上げが優先されるべきである。新法案における保護観察所がその課せられた機能を十分果たせるわけがない。不十分な体制のままスタートすればかえって弊害を生じる。(2)今回の新法案では、従来から問題になっている起訴便宜主義の矛盾や起訴前鑑定の問題の解決に全く触れられていない。まず、それらに関する実態調査をすべきである。(3)同法37条等の再犯予測性は精神科医には不可能である。悪用されれば予防的拘禁に利用される。特に、再犯予測性は新法案の中核的コンセプトであるから、そこが崩れれば新法案そのものが意味を失うので本法案は廃案にすべきである。
 これらの反対論について述べれば、(1)に関しては、確かにわが国の精神医療は欧米先進国に比べ極めて貧弱である。なお30数万床の精神病棟があり、異常に長い入院日数は他に類をみない。未だに「精神科特例」が残っていて、多科に比べ医療、看護ともにかなり低い水準にある。社会復帰のための受け皿の絶対的不足など、改善すべき点は多々ある。しかし、何十年もの間この改善は遅々として進まないできたという現実がある。今後さらに、何十年も先までこの改善を待っていればこの間の被害者の数は計り知れない。このまま放置してよいのか、疑問が残る。政府にも、学会にも、個々の精神科医にも責任がある。(2)に関しては全くその通りである。筆者は個人的には、重大刑事犯罪についてはすべて起訴し裁判の過程において裁判官命令による精神鑑定を行うべきであると考えている。しかし、この改善も法律家や鑑定のできる精神科医の大幅増員を必要とするのですぐには困難である。(3)に関しては、厚生労働省では「再犯予測」は症状の記述でよいと言っている。法務省はどう考えているのか。すでに、精神保健福祉法の措置入院の場合も再犯の予測を行いながら入退院を決めている。他害(再犯)の危険性があれば入院させ、他害(再犯)の危険性がなくなれば退院を決定する。しかし、措置入院では重大触法精神障害者の治療は十分に行われていない。病院にとっては重荷であるからであり、十分な設備や治療技術をもっているところは少ないからである。触法精神障害者の側から見れば彼らにも適切、かつ十分な治療を受ける権利がある。正しい治療こそが最良の予防につながる。私見ではあるが、合議体のなかの精神保健審判員が医療に関わる部分の症状の動向や予後の判定を行い、刑法に関する再犯の予測は裁判官が行う、というようにそれぞれの専門知識に基づく役割分担をすればよい、と考えている。

おわりに

 重大触法精神障害者は極めて少数に過ぎない。そのために犯罪に無関係な大多数の精神障害者のノーマライゼーションが妨げられている。先頃、精神分裂病の呼称が「統合失調症」に変わったが、今後同類の事件が起これば、統合失調症も危険な病気であるとの世間一般の偏見は再び広がり、呼称変更をした意味が薄れる。今回8月24日から29日まで開催された第12回世界精神医学会横浜大会まで同学会を中心に世界を挙げ国を挙げて行ってきたAnti-Stigma Campaignの意義も半減してしまう。日本精神保健政策研究会では、従来からこの触法精神障害者問題に真摯に取り組んできた。このたびの横浜大会でも「How Treatment of Important Climinals with Mental Disorder Should be in Japan」というテーマのワークショップを行った。触法精神障害者問題に関しても戦術だけでなく、戦略の視野から、触法精神障害者の人権擁護はもとより、被害者とその家族の人権擁護も忘れずに、そして何よりも広く精神障害者のノーマライゼーション推進のための精神保健政策を考えてゆきたい。まずは一歩を踏み出し、後に運用面で工夫し、必要に応じ修正してゆくべきであろう。

(まつしたまさお 日本精神保健政策研究会運営委員長)