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法案に対する刑法学者の立場からの意見

川本哲郎

1.法案の反対説について

 心神喪失者医療観察法案を巡る議論について、若干の整理を行っておくと、まず、現在のわが国の精神医療を改善する必要があるという点には異論がない。問題は、そのために何から始めるのかということである。法案に反対する人たちの意見の要旨は、1.裁判官が関与すると、「疑わしきは拘禁するという方向に働く」、2.再犯の予測は不可能である、3.措置入院制度の問題などは制度の運用の問題であり、その改善を第一に図るべきである、ということであろう1)
 1と2については見解の分かれるところであり、早期の決着は無理なように思われる2)。ただ、その原因を考えると、1については、裁判官の能力に対する評価の違いであり、2は、医師の能力に対する不信である。現在でも、裁判官は責任能力に関する判断を行っており、精神科医は「自傷他害のおそれ」の判断を行っている。それが完璧でないのは言うまでもないが、では、そのような判断を行うことを廃止すべきなのであろうか。また、廃止した場合には、どのような代替案が考えられるのか。私見は、そのような改革の早期の実現は不可能であるので、新法によって現在の状態の改善を図るべきだとするものである3)
 なお、裁判官と精神科医の判断が分かれたときについて、法案14条は「合議体による裁判は、裁判官及び精神保健審判員の意見の一致したところによる」と定めており、国会における審議において、「軽い方の判断で統一される」ということが確認されている4)。つまり、裁判官は入院が必要であると判断し、精神保健審判員が通院で足りるとした場合は、意見の一致している限度において、通院治療を命じることになるのであるから、「疑わしきは拘禁」という方向に傾くおそれはないと思われる。

2.法案の問題点

 法案は、現状の改善を図るための第一歩としては妥当であると思うが、問題がないわけではない。したがって、今回の法案の審議に当たっては、その実効性を高めるために、可能な限りの修正を要求する必要があろう。その点に関しては、不服申立制度の整備や司法精神医学の充実、精神保健観察官の十分な配置が挙げられるが、とくに地域医療のコーディネーターの役割を果たす精神保健観察官の活動は重要である。精神治療の目的が社会復帰であることは、心神喪失者等の場合も同様であり、また、これからは、多職種(精神科医、臨床心理士、看護師、精神保健福祉士等)のチームによる医療が中心になると思われるので、法案が成立した場合に十分な数の観察官を配置できるかどうかは極めて重要なことである。政府が十分な予算を割り当てるように監視する必要があるように思われる。

3.今後の課題

 最後に、法案に反対する人たちの主張される「精神医療全体の底上げ」が必要であることは論をまたない。ただ、その実現には時間がかかりすぎるので、今回の法案のように対象を限定した改善策が妥当であると考えているわけである。したがって、早急に、精神医療全体の改善案を提示し、実行に着手する必要があることに異論はない。今回の動きの契機となったのは、精神保健福祉法が平成11年に改正された際の衆議院厚生委員会附帯決議11「重大な犯罪を犯した精神障害者の処遇の在り方については、幅広い観点から検討を早急に進めること」であるから、今回の法案に盛り込めなかったものについても、附帯決議などにおいて、改革の方向を明示すべきであろう。将来の課題としては、措置入院の運用の地域差の解消や精神鑑定の問題、精神医療の脱入院化などが挙げられる。いずれも、長期間を要するものであるが、かといって、時間のかかることを理由に問題解決を先送りすることは許されない。今回の議論を契機として、一日も早く解決に着手すべきであろう。とくに、今回の動きの特徴は現場の精神科医からの要望があるということであるが5)、改革が行われなければ、後継者の不足が問題となりかねないという事態が生じていることに留意すべきであろう6)。また、約33万人に達する入院患者の減少にも早期に取り掛かる必要がある。
 以上を要するに、今すぐに提案できるものと将来の課題とを分離して議論しないと、着実な前進は図れないということであり、今回の法案が実現しなかった場合でも、次善の策を追求するときには同様の姿勢が要求されるということである。日本の現状では、1年や2年で、イタリアやイギリスのようには変われないということを改めて確認する必要があろう。

(かわもとてつろう 京都学園大学法学部教授)


【参考文献】

1)「『心神喪失者等処遇法案』に対する刑事法学者の意見」法学セミナー2002年7月号104―105頁、池原毅和・水島広子・山本深雪「『心神喪失者処遇法案』に反対する」世界2002年8月号118頁以下等参照。

2)2002年7月9日に開催された衆議院法務委員会厚生労働委員会連合審査会の参考人質疑(会議録第2号:http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf...)参照。

3)詳しくは、拙著「精神医療と犯罪者処遇」(2002年)193頁以下、拙稿「触法精神障害者対策の現状と問題点(1)―イギリス編―」現代刑事法4巻8号(2002年)67頁以下参照。

4)第154国会法務委員会第17号(http://www.shugiin.go.jp)。

5)五十嵐禎人「触法精神障害者の処遇とわが国における司法精神医学の課題」現代刑事法4巻8号51頁以下、武井満「精神保健福祉法通報制度の問題点と司法精神医学的課題」精神医学44巻6号619頁以下、岡江晃「重大な犯罪を犯した精神障害者の治療と処遇のあり方」金子晃一他編「精神保健福祉法」(2002年)114頁以下等参照。

6)岡江晃「特集『司法と精神医療』を編むに当たって」精神医療26号(2002年)3頁以下参照。