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文学に見る障害者像

井上ひさし著
『薮原検校』

花田春兆

 ともかく大変な作品である。
 検校とあるから、琵琶・琴・三味線などの芸能にしろ、あんま・鍼・灸などの医療関係にしろ、座頭金などの金融業にしろ一芸に秀でていて、一般からも、そこら辺の小藩の大名など顔負けするくらいの、敬意と権威とを認められていて、それに値する人物を想定するのが当然だろう。
 ところがところが、この主人公、
  ♪ ・・・・・・
    ・・・・・・
   呪い殺しに 生殺し
   ごろごろごろつき 殺し屋

  悪行あくなき 悪めくら
  悪行悪食き 悪徳漢
   ・・・・・・
   ・・・・・・
 と長々と歌い上げられるような大変な人物。動くたびにぷーんと血の匂いが漂ってくるような大悪党。
 殺しだけでも、親殺し・師匠殺しに始まって、片手の指では足りないほどなのだから恐れ入る。
 もちろん、殺意など微塵(みじん)もないのに成り行きでそうなってしまったり、せっぱ詰まって断行に追い込まれたりと、それぞれに事情はあるにしても、こう重なってしまっては、とても情状酌量どころではなくなる。
 そんな悪党が検校に納まって(おっと、おとなしく納まってなどいないのだが)いる不思議さはともかくとして、こんな障害者を描いた作品を取り上げたことへの、凶(わる)い不信感と非難の意味を篭(こ)めた批判の声が上がるであろうことは確かだろう。
 もともとこの欄は、障害者を登場させた文学作品をピックアップして紹介するためのもののはずだ。
 そしてそれは、登場するさまざまな障害者の、それぞれの障害を診断・特定し、その障害の特性の症状などの把握に誤りがないかどうかに始まって、自然に現れてくる作者自身の、そしてその背景に覗(のぞ)いている社会一般の対障害者観をも、点検・評価しようという意図も含まれている。
 その評価基準というか目的が、本誌の誌名でもある“ノーマライゼーション”の理念にあると見てもよいだろう。
 もちろん、文学としての接し方をおろそかにしてよいわけはないのだが、やはり福祉的な視野に気を配ることになるのだから、どうしても純粋に文学としての評価だけで終わらせられなくなる。
 だからこんな悪党の障害者、障害者に世間的にマイナスイメージを色濃く与えるような人物を選んで描くのは怪(け)しからんし、そんな作品を好んで取り上げるなど、まさに言語道断だとする非難が湧き起こっても不思議ではない。当然なのだ。
 それだけではない。主人公を大悪党に仕上げた内容だけでなく、引用したごく僅(わず)かの劇中歌の断片にも現れているように、マスコミなどでは必要以上? に神経質に忌避されている“差別用語”なるものが、ふんだんに自由自在に使われている。
 いよいよもって怪しからん。視力障害者を冒涜(ぼうとく)するものともなり、時の人の時の言葉を借りれば、それこそ“悪の枢軸”ともなりかねない。
 だが、固い頭を少し軟らかく少し冷して読めば、芝居仕立てとわかっていても、つい引き込まれてしまう調子の良さがあり、圧倒的な流れに巻き込まれ魅せられてしまう。
 そのうえ、福祉的な障害者を看板? にした作品や、残念ながら現場で見かけがちの職員などよりも、遙かに厳しく、障害者に対する一般社会の底流や、障害者自身の心理を捕(と)らえ鮮やかに描いて見せている。
 それに、非難する障害者側にしても熟知しているとは到底思えない障害者の歴史的事実が、社会的背景とともに克明に語られているのだ。
 たとえば、総検校を頂点とした検校制度を、その経済的基盤の組織から、その功罪両面からの評価までを、適当な詳しさを保ちながら、これほど生き生きと分かりやすく理解させてくれる文献に、私はまだお目に掛かっていなかった。
 それほどの作品を目にしてしまった以上、無視し続けるわけにはいかない。多少の物議は覚悟のうえで、具体的に触れていくことにする。

 宝暦10年(1760)日本三景松島にほど近い塩釜の地の、貧しい魚の行商人夫婦に、1人の男の子が生まれたが生まれつきの盲児。
 何故(なぜ)、盲児に生まれついたかには身ごもった妻に父親となる夫が、高価な蜜柑を買う金を作るために、座頭を1人殺してしまうという因縁話が用意されているのだが、因果応報説の是非を論じている暇はない。
 盲人が生きていくには盲人の組織に入るよりないと、座頭様(ぼんさま)になるべく塩釜座頭の琴の市に預けられ、気を病んだ父親は自殺してしまう。
 ところが杉の市と名をもらったこの少年。尋常一様、真っ直ぐには育たなかった。しかし、尋常でないほうの才能には事欠かなかったようだ。
 その証明でもないだろうけれど、師の琴の市が演じる平家琵琶の後を受けて、源平合戦をもじって戸棚の食品が、黒子餅と白い餅との両軍に分かれて戦うという、見事なパロディを長々と歌い上げて、結局師匠よりも“おひねり”を多く頂戴(ちょうだい)してしまうのだ。
 実はパロディのこの一段。作者にとっても興に乗せて凝りに凝った技の見せ所でもあったと思われる。
 ただ、真面目(まじめ)過ぎる? 読者の中には、くだらないふざけ過ぎと腹を立てる人もいるに違いない。それはそれで仕方あるまい。しかし、一面では耳学問的要素も含んでいる、とまでは過大評価だとしても、調子良くリズムに乗せた“ことばあそび”を楽しむくらいの、心のゆとりを持つことも時には必要ではないのか。
 その伴奏楽器(芝居全体を通じてだが)に、琵琶・琴・三味線でなくギターを用いているほどに、現代に溶け込もうとしているのだから、単なる時代離れのことばあそびを懐かしんでのことだけとも思えない。
 現代の一般的読者(観客)への配慮と言えば作者は、盲太夫という重要な説明役・語り手役を用意している。わざわざ“註”とことわったり、その発言中は主人公以外の舞台の動きを止めたりと、なみなみならぬ力の入れようである。
 先に触れたような検校制度の組織の実態も、この盲太夫の口から語られるのである。しかも、第三者の語り手と違って、盲人本人自身という設定である。日の当たらない影の部分の心情に詳しくても、障害者側の弁護に回っても不自然ではない。逆に強姦場面では、悪乗りをたしなめる役を担っても納得がいくのだ。
 だからこの影(脇)の主人公に注目する限り、視力障害者を冒涜するもの…との非難は当たらない。

 ともあれ黒白餅合戦で得たおひねりを没収されたことから、舞台は急転殺しのオンパレードになってゆく。検校の許可無しにおひねりをもらうような公演をしたというので、仙台の検校による強制没収なのだが、その強制執行を暴力的に行ったのが、
“結解”と呼ばれる検校のお供の男。検校の秘書兼用心棒の屈強な晴眼者にこんな職名が与えられていたとは、私にしても初めて知らされた。
 杉の市は耐えきれずに、相手のあいくちを奪って刺してしまう。
 怖くなって母親の許に飛んで帰るが、ここは言い寄る男とお取り込み中。焦って男と争ううちに、止めに入った母を誤って刺し、抜けば死ぬと思いながらも、早く死なせて…との願いに勝てず母の胸から刃を抜くよりなかった。
 もう故郷にはいられない。江戸に出て検校になる、つまり偉くなるしか生きる道はないと意を決して、路銀の調達を図るべく、師の琴の市の家に向かうのだが、ここでも結局師匠夫婦を殺害、色模様の事情が絡むにしても強盗殺人を犯すことになる。
 1人殺せばあとは何人でも…、それに親殺しをしてしまった以上、とふてぶてしくなっていくのがわかるのだが、加えて歌舞伎では“殺し”が見せ場を作っているということも意識をかすめるのだが、それにしてもそれぞれの事情とタイミングが、あまりにも合い過ぎた時にもたらされる悲劇の大きさに、恐ろしくもなる。それが作者の芝居作りの巧(うま)さということにもなるのだが…。

 江戸へ無事に着くことになるのだが、作者はここで主役が視力障害者であることを強調する一工夫を試みている。ここからが江戸だということを、すべて耳からの音によって認識させ把握させるのだ。もともと舞台に色彩とか背景を極力省略? しているのも、一つには視力障害への配慮だと思えば合点がいく。盲太夫の語りもテレビなどの副音声とも受け取れなくはない。心憎いまでの配慮とは過剰解釈だろうか。
 その江戸でもあらゆる悪行を重ねながらも、悪銭・悪運・悪智恵・糞度胸に恵まれて、杉の市はめでたく薮原検校二世に伸し上がる。
 だが、それに付き合う時間(締切り)も空間(スペース)も、すでにオーバーしてしまっている。
 ご面倒でも、皆さんご自身で盲太夫に確かめていただくよりない。
 直接読んでいただければこれ以上は、まさに蛇足、釈迦に説法ということになるのだろうが、やはり凡夫の浅ましさだろうが、最後の一押しをどうでも加えたくなってしまった。

 狙い通り検校にまで上り詰めた杉の市だが、その破滅はあまりにも早かった。急転直下、地獄の底へ逆落としである。
 その引導役として登場するのがなんと、歴史的な大人物の松平定信と塙保己一。当代の晴眼者と盲人それぞれの頂点に立つ権力者が、ガッチリと組まれての処置とあっては、さすがの悪運強き大悪党も、抗すべき術も無かった。
 民心の引き締めを狙う幕府の政策推進のための、見せしめ的いけにえの役も背負わせられて、“三段斬り”という極刑に処せられてしまう。
 実は、究極の“殺し”である残酷な処刑の見せ場を、より一層際立たせるために、極悪な所業を重ねさせながらも生かしておいたのではないか、とさえ思われるほどなのだ。
 どう足掻(あが)いても現実社会では、政治権力に勝てないということの象徴なのだろうか。
 そのうえ、保己一と定信の間で交わされる会話では、民心を引き締めるべく人々を恐れさせるための、見せしめのいけにえに、障害者としての薮原検校を選ぶ理由が、恐ろしいほどあからさまに示されるのだ。
 おまけに、逆に人々を励まして働かせる時の道具にも障害者は使えるのだ、などとも言及している。
 つまり、世間一般の対障害者観が一皮剥(む)いたなまなましい本性を覗(のぞ)かせているとも言えそうだ。
 もちろん、それが、それだけが世間の人々の心のすべてではないとしても…、である。

 ここに至って、このお芝居で冒頭、大悪党の主人公が登場する以前に、盲太夫によって、前口上的に長々と語られる、みちのくの盲人・座頭たちの壮絶な受難史が、揺るがすことのできない重さで蘇(よみがえ)ってくる。
 彼らは、そちらはそちらで他所(よそ)から流入してくる彼らに乏しい食料を分けては、自分たちが飢えるという一般人によって死へ追い遣(や)られる。
 だからといって、杉の市の悪行の正当化などは論外としても、生きることの厳しさは骨身に滲(し)みてくる。ましてや不況で殺しも多い世相だ。
(昭和48年 雑誌『新劇』に発表。『新潮現代文学』79など)

(はなだしゅんちょう 俳人)

(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
2002年11月号(第22巻 通巻256号)