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1000字提言

「社会的」なものとは何か

市野川容孝

 唐突ですが、皆さんに質問。「福祉」でも意味が通じるのに、どうして「社会福祉」と言うのか。もう一つ。「ソーシャル・ワーク」というときの「ソーシャル(社会的)」とは、どういう意味か。
 医療や福祉の領域を見渡すと、「社会(的)」という言葉に、まま出くわす。たとえば、介護保険の導入をめぐって、「介護の社会化」という言葉が人口に膾炙(かいしゃ)するようになったけれども、このとき「社会(化)」という言葉の対語としては、「家族」が想定されているケースが多い。少子高齢化の趨勢(すうせい)をふまえれば、高齢者介護を今までのように家族、なかんずく女性たちに押しつけるのは、もはや不可能であり、社会全体で高齢者介護を担うべきだ、というわけである。このときの「社会化」は、したがって「脱 家族化」、「外部化」とも言いかえられよう。
 しかしながら、「社会的」なものの対語は「家族」ばかりではない。
 ドイツやフランスの憲法には、どちらにも、われわれの国は「社会的(sozialないしsocial)」なものであるという規定がある。「社会的国家」という耳慣れない言葉は、日本語では「福祉国家」と訳すのが適当で、そして、「社会的」な国家の目標は、人びとの実質的な「平等」を可能なかぎり達成することであると理解されている。このときの「社会的」という言葉の反対語は、「不平等」である。
 「社会契約論」と言えば、ホッブズ、ロック、ルソー――と高校や大学で暗記した人も多いと思うが、実は、ホッブズとロックは単に「契約」という言葉しか使っておらず、「社会(的)」契約という言葉を初めて使ったのはルソーである。そのルソーは『社会契約論』の中で、こう書いている。「この基本契約は、自然的平等を破壊するのではなくて、逆に、自然的に人間のあいだにありうる肉体的不平等のようなものの代わりに、道徳上および法律上の平等を置き換えるものだということ、また、人間は体力や精神については不平等でありうるが、約束によって、また権利によってすべて平等になるということである」。「肉体的」に見れば人はさまざまだけれども、そういう違いを超えて、「人間はすべて平等である」と言い切る、私たちの大いなる「約束」――それがルソーの言う「社会的」な契約である。
 「社会」福祉も、「ソーシャル」・ワークも、そういう約束の実現をめざしているのであり、また地域格差が云々される介護保険も「平等」という理念を失うべきではない、と私は思う。

(いちのかわやすたか 東京大学教員)