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障害のある人々の所得保障をめぐって

杉村宏

「選ぶ福祉の時代」の生活課題

 この10数年間、「福祉改革」によって追求されてきた課題は、福祉を「選択できるしくみ」に切り替えることであり、選択の幅を広げるために「メニューを豊かにする」ことでした。
 生活保護を受けている人々の生活に触れ、低所得・貧困問題を考える立場から見ると、「自由な選択」や「平等な社会参加」を実現するためには、それを可能にするような所得を中心とする「国民的最低限」の保障が前提になければ、「絵にかいた餅になってしまうのでは」と思えてなりません。しかしながら「福祉改革」と並行して進められた「地方分権化」は、「国家の責任である『国民的最低限』の保障はすでに達成されているので、これからは地方の努力で」という考え方を基本にしています。
 「国民的最低限」の保障とは、すべての人々がその社会の一員にふさわしい衣食住をはじめとする生活必需品を購入し、ニーズに応じて必要な社会福祉や保健・医療、教育などのサービスを選択できる最低限必要な所得などを、国家の責任において保障することでしょう。
 高齢者家族や障害をもつ人々の中には、こうした国民的最低限を満たしていない人々がかなりいるように思えてなりません。私は「障害をもつ人々の生活問題はどこに焦点をあてるべきか」、また「そのような問題を緩和・解消するためには障害者福祉は何を重視すべきか」を考える時に、1984年にWHOの提起した「障害概念」(試案)に注目します。
 よくご存知のようにこの定義では、けがや病気などの「生活上の事故」によって障害を負った状態を、第一次的なレベルの「機能の障害」としています。この状態は障害を顕在化はさせますが、まだ個人的な問題にとどまっていて医療やリハビリテーションの対象であっても、社会福祉の課題ははっきりと見えてはきません。「機能の障害」が「能力の障害」として客観的に認識されるようになると、「能力主義社会」では障害が社会的不利や不平等、差別などを生み出すHandicapに転化するのです。
 ですから障害者問題の中心的課題は、障害を負ったという不利のうえに、障害があるために「社会的に」差別され、不平等な扱いを受けるなど「不利に不利が積み重なる」状態にこそあります。これらは「社会的に」産み出された問題であり「社会的に」解決することが必要です。社会福祉の基本は、個々人が抱える問題を軽減し福祉を増進するために、このような「社会的」文脈に沿って解決するための、公的責任に基づくしくみと実践にあります。
 さらに考えなければならないことは、市場経済を中心とする現代社会では、最大の「社会的不利」は「経済的不利」として表れるということです。「この世は万事お金」とは思いませんが、障害をもった人々が障害のゆえに就労で不利な立場におかれ、経済的にも不利益を被ることが、日常生活を営むうえでの大きな困難になっているのではないでしょうか。
 社会福祉のサービスが自由に選べることや、サービスのメニューが多様化しさまざまなニーズに応えることも大切でしょう。しかし介護保険のサービスや健康保険による受診などを、自己負担の支払いに不安があるために抑制したり中止したりする事例が後を絶たない現実を見るとき、健康を保持し、社会生活を営むうえで不可欠な介護のサービスを受けるという国民としてのささやかな願いさえ実現できていない、この国の「国民的最低限」の保障こそ、解決すべき最重要の課題とすべきでしょう。

「国民的最低限」保障の充実をめざして

 ところで「国民的最低限」を保障するといっても、それはどのような水準か、またどのような方法で保障するのかなど、難しい問題があります。もともとこの概念は、雇い主が労働者の就労条件を勝手に切り下げることに対する歯止めとしての「社会的ルール」に由来していますが、今日では就労条件、所得水準、居住環境、教育水準などおよそ社会生活を営むうえで、見過ごしにできない社会的不利や不平等をなくすための、社会的ルールの最低限と考えられています。それは歴史や経済・社会状況によっても変わりますし、個々人がおかれている状況、たとえば働いている人と年金をもらっている人によっても異なりますが、「人間らしく」生きていくためには必要不可欠なものです。ですから「国民的最低限」を欠くような状態は、人間の生命・生活・生涯における「貧困」であり、それは単に所得が低いということにとどまらず、「人間らしい暮らし」が社会的に奪われている状態と見るべきです。
 このような「人間らしい生活」の最低限を、権利として保障する具体的しくみとして生活保護制度があります。この制度は所得の最低限を保障すると同時に、医療・教育・住宅の最低限、福祉サービスの最低限をも保障する、いわば生活丸ごと保障する大変重要な制度ですし、障害をもつ人々の生活保障にとっても貴重で、使い勝手のよい制度です。
 この間の「社会福祉改革」のなかで、この制度の改革が最後に残されていますが、これまで述べたことからすれば(紙面の関係で具体的な点に触れることはできませんが)、生活保護制度が文字通り「国民的最低限」保障法として機能するように、優れた点は一層拡充し、時代遅れになった点は改革することが必要です。その際考えなければならないことは、この制度が全額租税を財源にして扶助するしくみであるために、「資力調査」というプライバシーに関わる調査を受けるという条件付きの給付制度であること、年金や健康保険などの社会保険制度による生活保障に支障が生じた場合に、補完的に「国民的最低限」を保障する制度であることに関わる課題についてだけ、触れておきたいと思います。
 経済苦による自殺の増加や「ホームレス」といわれるような極限状況の貧困が深刻になるなかで、生活保護制度が本来の役割を発揮できないような、行政の引き締めが新聞報道されるなど問題化していますし、生活保護行政をめぐる審査請求や訴訟も目立って増えてきています。すでに現行制度で確立しているルールさえ無視されるような、生活保護行政のあり方をうやむやにして「改革」がうまくできるはずはありませんが、このような保護の引き締めは「資力調査」の引き締めが主な原因になっているといって過言ではありません。
 障害をもつ人々の中で生活保護を利用している人もかなりおりますし、生活保護を利用したいという人も多いのではないかと思います。「資力調査」の引き締めに反対し、その条件を緩和することは生活に困窮するすべての人々の課題ですが、とりわけ障害をもつ人々の努力によって解決できる可能性のある課題のように思います。
 なぜならば、障害をもつ人々の「国民的最低限」の保障は、たとえば所得に関していえば本来、年金制度が担うべきものでしょう。それが、わが国では年金水準が国民年金に象徴されるように、生活保護基準にも満たないような低い水準にあるために、年金給付の他に生活保護を受けなければならない人も多いと思います。このような人々にとっての生活保護費は、権利として受給している年金給付額の足りない分を、所得の「国民的最低限」の水準で補足しているに過ぎないとみるべきでしょう。
 もともと生活保護の受給も憲法二十五条に規定されている生存権―「人間らしく生きる権利」を保障するものなのですが、それがなかなか権利として受け止められないのは、プライバシーにかかわる資力調査が必要以上に厳格に適用されているからです。たとえば、失業して休職中であるにもかかわらず、「働いていない」という理由だけで生活保護が適用されないとか、親族に対して機械的に仕送りなどの援助ができないかを問い合わせたり、葬儀費用など一部の例外を別にすれば預貯金の保有を認めない取り扱いなど、権利保障にふさわしくないことが「資力調査」の名の下に行われています。
 このような中で、年金の不足分を生活保護で補足する場合には、「資力調査」にかえて年金額の「所得調査」にとどめ、一定の預貯金を認めるなどの改善要求を、年金給付を充実させる要求などとともに当事者運動として取り組むならば、「国民的最低限」保障充実の展望も拓けるのではないでしょうか。

(すぎむらひろし 法政大学現代福祉学部教授)