ユニバーサルデザインの広場
ユニバーサルデザインってなんだろう
古瀬敏
ユニバーサルデザインという言葉が最近よく聞かれるようになりました。これはいったい何でしょうか。世界の動きも見ながら考えてみましょう。
ユニバーサルデザインとは、「すべての人のためのデザイン」、子どもからお年寄りまで男女の別なく、しかも能力の違いに無関係に使えるものという意味で、これまでの「特別なデザイン」という考え方に対する異議申し立てです。「特別なデザイン」をだれも不思議に思わなかったのは、それがごく少数の人だけに必要と思われていたからです。このとくに障害をもつ人や高齢者を対象として意識したデザインが、従来のバリアフリーデザインでした。
ところが、近年になって大きく事情が変わりました。とくに米国においてADA(障害を持つ米国人に関する法律)が成立し、障害者の権利が認められて以降、さまざまな人々の間での利害の衝突がこれまで以上に露わになりました。変わるはずのものごとがなかなか変わらないだけでなく、要求がぶつかる場合も増えてきたのです。それをこれまでのようにバリアフリーデザインというやり方で解決しようとしても、ことごとく壁にぶつかるようになりました。
じつはこれまで長い間当然と思われていた前提が間違っていたのです。世の中は「ミスター・アベレージ」、つまり健康で活動的な「男性」を主たる利用者としてあらゆるものができあがっていました。しかも労働者や米軍兵士の計測データが出発点でした。したがって、体格や体力が違う女性や高齢者は無視されていて、子どもや障害者の存在も意識されることはありませんでした。それどころか「ミスター・アベレージ」のケガや体調不良ですら、考えられていなかったのです。そうした点を考慮していなければデザインとしては不十分、あなた自身がその不利益を受けますよ、という指摘がユニバーサルデザインの基本です。日本では急速な人口の高齢化によって、だれもが明日の自分のこととして高齢期を考えざるを得なくなりました。歳をとる前に死ぬことが滅多になくなり、加齢に伴う問題を受け入れて生き続けなければなりません。これは今や先進国で共通ですが、開発途上国も逃れることができません。WHOの表現を借りれば、「先進国は豊かになってから高齢化したが途上国は豊かになる前に高齢化する」のです。こうした状況を原点に据えると、もののつくり方が変わらなければなりません。使いにくいもの、ことによると使えないかもしれないものをつくらないように努力しなければなりません。
さて、このユニバーサルデザインは具体的にはどうやったら達成できるのかと言うと、対象が何であるかによってそれぞれ違っていて、一筋縄ではいきません。この点をよく踏まえないと、「すべての人のためのデザイン」など不可能だ、だから議論するだけムダだ、と言われ、とくにデザインをする人はそこで居直るのですが、じつはそうではありません。使う側に立って考えれば、話はしごく単純明解です。私が使いにくいもの、使えないものにはお金など払う理由がありません。ただ、そのお金の出ていく仕組みが対象によって違うので、やり方もちょっとずつ違うのです。
まず身近なところから考えましょう。自分で買う消費者製品などでは、自分の必要と財布の中身とを見比べて、これにしようと決めればいいのです。たとえばボールペンなどでは、持ちやすさや書きやすさを比べて選ぶことになります。ですから選択の幅が広いことが最重要です。あいにく、使いやすさを比べて選べるほどさまざまなデザインのものが市場に出ていないことがほとんどです。だれもが使いやすい家庭電化製品はまだごく少数にとどまっていて、それ以外は操作が簡単ではないことを覚悟しなければなりませんから、選べる状態ではないわけです。
ただ、ときにはおもしろいことも起こります。しばらく前までは、携帯電話は若い人しか使いこなせないものと相場が決まっていました。できるだけ軽く小さく、という競争が行われていたからです。ところが幸運なことに液晶がカラーになり、しかもメールのやりとりができるようになって、小さくする競争は終わりを告げ、むしろ液晶が大きくなり、それにつれてボタンも大きくなってきました。メールが使えるようになって、携帯電話が聴覚に障害をもつ人にも便利な道具になるという、思わぬ福音もありました。これなどはまさにユニバーサルデザインです。
さて、デザインの対象が、住宅や建築そして公共交通機関を含めた「まち」というふうに規模が大きくなっていくと、個人で勝手に選べればいいといって突き放すだけではすまなくなります。駅にエレベーターがなければ、大きな荷物を抱えた人、あるいは高齢者や車いすを使う人などはそこを使うのに大きな困難が伴います。そうした状況が続くなら、その駅は使う人に次第にそっぽを向かれ、いずれは廃止されてしまうかもしれません。すべての人が使おうと思ったときに使えなければ、駅としての意味がないからです。
このようにどうしても必要なものに対しては、じつはわれわれのお金が知らず知らずのうちに入っていることが多いのです。駅や建物のエレベーター設置費用として国や自治体が補助金を出したり減税したりしています。個人が自分でつくっていると思われている住宅でも、国が援助しています。多くの人は住宅金融公庫からお金を借りて住宅を手に入れますが、金利を低く抑えるために税金で肩代わりしているのです。こういった対応が行われるのは、ふつうは社会資本と呼ばれるすべての人が使うもので、後で直すのに莫大な費用がかかるなど、ユニバーサルデザインとしないことの不利益が無視できないからです。小さな製品からまちづくりまで、多くの国でユニバーサルデザインはあらゆる場面で中心になりつつあって、その現状は、近く翻訳が出版される『ユニバーサルデザインハンドブック』(定価25,000円+税、丸善)にまとめられています。
もちろん、ユニバーサルデザインという考え方だけで「すべての人のすべての場合」を満足させるわけにはいきません。じつはユニバーサルデザインには「価格妥当性」という概念が含まれていて、みんなが納得するような資源(人手とお金)配分が基本にあります。ただ、それだけの判断基準で安易に線を引くと、少数者を切り捨てることにつながります。ある駅を存続させる価値があるとするかどうかをソロバンだけに任せれば、利用者が少ない駅にはエレベーターはつけない、という答えしかありませんが、それで切り捨てられたらどうしようもない場合が起こるのは容易に想像できます。
そこで重要になるのが、生活にとって必須か否かという判断基準で、これによって認められれば追加や特別な対応が可能になります。じつは、従前の障害者対応は、この必須というもの(バリアフリーと言われていたものの大部分)と、先ほどから議論しているユニバーサルデザインとがごちゃ混ぜになっていました。ユニバーサルデザインは、デザインの本来あるべき姿、つまり安全で使い勝手がよく、かつ費用的にもべらぼうではないことを意味するのです。一方、必須であるがゆえの特別な対応は、自立支援技術(カタカナではアシスティブ・テクノロジー)という言葉を使うほうが適切でしょう。電動車いす、携帯型の酸素ボンベなどが自立支援技術で、それらは周りがユニバーサルデザインでできあがっていることによって効果が劇的に向上することを忘れてはなりません。
(こせさとし 静岡文化芸術大学教授)