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根強い偏見がまだ存在する…
ネパール国バンケ郡ネパールガンジ

和山貴子(当協会職員)

 “バンケ”“ネパールガンジ”?どこだろう。ネパール西部に位置するバンケ郡へ出張することになった私はまず地図を取り出し、場所の確認をした。ガイドブックを読んだ。ネパールに詳しい人物に聞いた。インターネットで検索した。結果、ほとんど情報が無いことが分かった。観光地化されていない地方都市だが、飛行機は飛んでいる。同じ乗客だったユニセフの職員が「観光じゃないよね???」と好奇心ある面持ちで話しかけてきた。彼によるとネパールの乳幼児の死亡率は途上国の中でも高く、国連機関や海外のNGOがバンケ郡を含む地方各地で活動しているそうだ。
 カトマンズから飛行1時間後、バンケの空港があるネパールガンジへ到着。時計に目を移す。16時30分。静かだ。雨が不足しているのか土埃っぽい。高い建物が全く無いので大地の広さを感じ、そのずっと先には山脈が広がる。視神経が癒される気分だ。車の数が極端に少ない。遠距離=大型バス、中距離=自転車、近距離=徒歩が主な交通手段のようだ。2車線道路の真ん中を車が走っている。道路や道端には目的もなさそうな痩せた牛がおとなしく点在しているのが目立つ。まるで市民権を得た牛とでも言ったらよいか、とても自然に人間と共生し、空間を共用している。「あぁ、ヒンズー教国に来たんだ」という実感が湧く。

ネパールガンジの障害者

 現地の障害者団体(「Handicapped New Life Center Banke」)代表クリシュナさん(25歳)と団体のメンバーたちが2泊3日の滞在を手伝ってくれた。人口40万弱のネパールガンジで、この障害当事者団体は視覚・聴覚・肢体・知的の障害をもつ親のメンバーから成り立っており、全員ボランティアとして地域の障害児・者の社会参加のために日々地道な活動をしている。最近では、障害者の入学を拒否していた職業訓練校に障害者も平等に訓練を受けることができるよう交渉を重ねた結果、ようやく障害者対象のクラスができたとのことで、その訓練校に案内してくれた。テレビを修理している聴覚障害と肢体障害の青年が約15人。真剣に取り組んでいる姿が印象的だった。建物は全くアクセスが悪く階段だらけなので、通えることが前提という条件付きだが、それでも前例を変えたという達成感が次の運動への原動力となり、自信につながっていることは間違いない。
 彼らの活動は障害者が差別されることなく、障害のない人と同等に機会を得て暮らすことができる環境にするために、障害当事者のみならず地域住民の啓発活動そして機会均等を求める運動に集中している。これまで訪問した途上国の障害団体の多くは慢性的な資金不足という共通の悩みを抱えていた。しかし、ここではお金は彼らの抱えている問題解決の一つの手段にはなっても悩みではない。
 ある村を訪れたときのこと。障害児・者そしてその親たちが出迎えてくれた。親が次々と障害のある子どもを私の前に連れてくる。何かコメントを求めているような真剣な眼差しで私を見つめる。クリシュナさんたち団体のメンバーは、この小さな障害児たちに近い将来、自分たちが経験した辛い思いをさせたくないという共通した強い願望と、「僕たちが何とかしなければ」という使命感をもっていた。
 ネパール滞在中よく聞いたことだが、ヒンズー教では障害は前世の悪業によって受けたもので、とにかく障害者に対する偏見が根強いそうだ。「特にここ(バンケ郡)は田舎だからカトマンズより人は保守的だし、情報はなかなか入ってこない」とクリシュナさん。確かに、観光産業もなく、外部との接点が少ないこの狭い世界では、人々の偏見というものは何よりも優先されなければならない課題だろうと感じた。
 別れ際にはこちらがお礼を言う立場なのに、クリシュナさんたちから逆に自分たちの活動に関心をもってくれたことを感謝されてしまった。そして、この短い滞在期間、頭の中で繰り返し自問していた国際協力のあり方について一つのヒントをもらった。「初めて日本人と接することで、日本を近く感じることができた。これから日本の活動のことを教えてほしいし、もっと情報がほしい。自分たちはがんばっているけど、障害者リーダーとしてもっともっと力をつけていかなきゃならないんだ。」彼らの力強いメッセージに頼もしさを感じた。
 私の上司が脳性マヒの女性であると知ったときのあの驚きと尊敬を含んだみんなの表情が忘れられない。「また、会おうね。その時は上司も一緒に来るように説得するから」と言ったときのうれしそうなあの笑顔。1日も早く彼らとの約束を守りたい。

(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
2003年6月号(第23巻 通巻263号)