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文学にみる障害者像

童門冬二著
『小説 上杉鷹山』

小山田梓乃

 不景気が続く日本経済の中で、必ずと言ってもいいほどクローズアップされるのが「上杉鷹山」という人物である。鷹山は、どん底の米沢藩を建て直し、米沢藩を変貌せしめ、価値のある理想の国を創り上げた。その手法やその時代のエピソードが書かれているのがこの『小説 上杉鷹山』である。
 改革には、「城(公)・地域(まちと村)・個人(民)」の三つの努力が必要であるとし、自らまちや村に出て目で確かめ肌で感じることを基本とし、節約なども自ら範を垂れた。「なせば成る。なさねばならぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」という有名な言葉も、このときに生まれている。そして、それらはすべて「民」のために行うとしたのである。「藩政改革の目的は領民を富ませるためである」と明言している。鷹山の政策には、「民の父母」という自覚と「愛民」の精神が根底にみられた。しかし、鷹山は宮崎県の高鍋藩から養子として迎えられたことや、「冷や飯組み」と呼ばれ藩から毛嫌いされていた江戸詰めの家臣たちを登用し、彼らが改革の参謀・側近・部下として辣腕(らつわん)を振るったので、本国米沢から異端視されたびたび反発された。「領民のための改革」という姿勢や、ことごとくしきたりを無視し自ら倹約を実践したため、しきたりや対面を重んじる本国の重役からの抵抗は特に強かった。
 改革には、「物理的な壁」「制度の壁」「心の壁」という三つの壁がつきものであるが、鷹山でさえも「心の壁」を崩すのは容易ではなかったのである。17歳の若者で、しかも余所(よそ)者がこの米沢藩に対して何をする気か…といった重役たちの意識があった。改革のために植えた桑などを夜中にすべて引き抜いて、調査しろと命じられれば「犬の仕業です」と不知を切り通したり、口裏を合わせてボイコットをしたり…そのようなことが続いたので、やむなく鷹山は反対派の重役7人に対し、切腹を含めた処断を言い渡した。どんなに辛い状況であっても、民の生活を考え、それを阻むものには断固として対処をした。温情主義ではあったが、泣いて馬謖(ばしょく)を斬(き)る勇気を持ち合わせていたのである。その後、鷹山の精神や改革の趣旨を理解するものが増え、「この殿様ならやってくれるかもしれない」という想いが村人にも芽生え、次々と改革が進められていくのである。自分たちでやる「自助」、近隣社会で知恵を出し合って助ける「互助」、藩が助ける「扶助」の三位一体を実現し、見事に藩を再建したのである。
 この本では、鷹山の財政再建の手法を知るとともに鷹山の人柄に触れることができる。その中で、目を惹くページがある。それは、鷹山の正室のことが書かれているページである。全体に比べればほんの数ページしかないものの、鷹山の人柄を語るうえで欠くことはできない。このページは「人形妻」という題が付けられている。鷹山の妻の名は幸(よし)という。幸姫はカリエスを患い、体の動きも不自由であり、脳の発育も子どものままで止まっていた。10歳にも満たぬ幼女同然の体であったと記されている。家臣は「側室をお持ちください」と言ったが、鷹山は「幸姫は天女だ。天女を裏切ってはならぬ」と、側室を持つことを断った。幸姫は、自分に優しくしてくれる者は無批判・無条件に信じたし、人間の世の汚れというものを全く知らなかった。鷹山は、「生涯をこの姫のそばで送ろう」と決意したのであった。鷹山は紙で鶴を折ることを覚え、布で人形を縫うことも覚えた。幸姫もそれに応えるかのように、父が買い与える高価な調度や玩具より、鷹山の手作りを好んだのである。
 その中で注目すべき事実がある。ある日、鷹山が人形を縫いのっぺらぼうのままにしておいた。翌日部屋を訪れると、幸姫が鷹山の手を取り、自室の奥に導いた。そこには、眉や口、鼻が描かれた人形が置いてあったのである。幸姫が描いたのである。そしてそれを、「ヨシ、ヨシ」と言い、これは自分だと主張するのだ。鷹山も「これは幸姫にそっくりですよ」と返している。この出来事は、現在の福祉で叫ばれている、その人が持っている能力・隠れている能力を引き出すということではないだろうか。鷹山は意図的にこのようなことを行っていたのである。こうした妻に対する愛情・潔癖さ、弧高性も目を見張るものがある。
 ここで少し、時代背景と絡めて見ておく。江戸時代は「参勤交代制」がとられていた。大名の妻は常に江戸に住むことを義務付けられ、大名は1年ごとに江戸と本国で暮らすというものである。大名の妻が障害者であっても、その掟からは逃れられなかった。ある意味障害がある者もない者も平等ということなのであろう。よって、鷹山が米沢に入国するときは、幸姫を江戸に残していかなければならないのである。鷹山の人柄を考えると、さぞかし心苦しいことであったのではないか。そして、また江戸に戻ってよい報告とともに幸姫の笑顔を見たいと思ったのではないか。幸姫のためにも、疲弊した藩を建て直さなければならない…、幸姫の存在を鷹山は政治への原動力に変えていったのではないか。
 また、幸姫の父重定公は幸姫が亡くなるまで娘が障害者であることを知らなかったという。幸姫の死後、形見として届けられた小児同然の着物を見て、障害のある娘を連れ添わせた不明を恥じ、今更のように鷹山の可憐さと誠実な志操に慟哭(どうこく)したと言われている。今の世の中では、自分の娘と会わないということは考えられないことである。しかし、隠居していた重定公は米沢で生活をしており、参勤交代という制度により妻子は江戸における「人質」のようなものであったため、家族が会って生活することは少なかった、むしろ稀であったのではないか。そのような背景を考えると、仕方のないことなのかもしれない。
 また、鷹山は障害があるということで差別されはじめていた時代において、藩主の正室が障害者だということが他の藩に知られるようなことがあっては、義父である重定公が非常に辛い思いをなさるのではないか、そのようなことをすることは非常に罪深いことではないかと考えたのであろう。そのような悩みを自分ひとりの胸に秘め、幸姫のことに関しては口止めをしていたという。幸姫や重定公が辛い思いをしないように…という思いやりと大きな愛、そして最後までやり通す固い決心を見ることができる。
 幸姫への思いもあったからであろうか、人柄を考えれば当たり前だともいえるが、鷹山は他にも福祉政策の実践に取り組んでいる。当時、堕胎や間引きが日常化していたが、熟慮と協議を重ね、育児資金を創り出し、窮民に与えた。姥捨(うばすて)という忌まわしい悪習も、90歳以上の者は亡くなるまで食べてゆけるというお金を与え、70歳以上の者は、村で責任をもって労(いたわ)り世話をした。また、老人を大切に労る孝子を褒賞するとともに実践するのである。障害のある者、歳をとって働けない者は邪魔者扱いされていたこの時代において、鷹山は「民の父母」という深い自覚と責任と、深い人間愛からくる人々への限りない愛情と真心で接したのである。
 幸姫は不幸にも、30歳で亡くなるのであるが、鷹山にとっても幸姫にとっても、共に過ごした13年間はとても幸せであったのではないか。そしてさらに、ほかの障害者や老人も生きやすかったのではないか。現在の社会は、制度的にはこの時代より遥かに恵まれている。しかし、人々の心はどうだろう…障害をもっている人たちは、今の社会は生きやすいだろうか。制度が発展し、社会保障がいくら充実しても、生きていくうえでは人と関わっていかなければいけない。バリアフリー(とくに心のバリアフリー)やノーマライゼーションなどという言葉だけが先行してしまってはいないだろうか…?
 上杉鷹山というと、財政再建という経済的手法ばかりがクローズアップされてしまう。しかし、現代の社会において、鷹山の人柄や精神も学ばなければならないのではないだろうか。驕(おご)り高ぶることをせず、深い人間愛をもって何事にも取り組む鷹山の姿勢を、この小説からたくさん読み取ることができる。幸姫への愛、そして民への愛と信頼。これらが、上杉鷹山が代表的日本人として尊敬されている所以であり、私たちが見習わなければならない最大のものではないだろうか。

(おやまだしの 城西国際大学福祉文化学科)

【参考文献】
1『小説 上杉鷹山』童門冬二 学陽書房 1995
2『解説&ビジュアル上杉鷹山』PHP文庫 1993
3『続米澤人國記』 米沢市史編集資料