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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年4月号

私たちの大学生活

私の大学生活―脳外傷者として

河村祥平

はじめまして。自分は専修大学法学部に通う河村祥平です。2年前の2002年2月26日の明け方に、買ったばかりのバイクを見せようと高校時代の友人らと遊び、帰宅途中に飲酒運転で壁に激突し、5、6日間意識の戻らない交通事故を起こしました。反対車線のトラック運転手の方が警察に連絡を入れてくれ、頭部を強く打ったために近くの病院ではなく杏林大学病院の脳外科に運び込まれました。その頃の自分は、自分の名前や年齢、家の住所や親の顔、名前さえもすべて覚えていない状態で、なぜ自分が病院にいるのかもわからない状態でした。毎日、看病に来てくれる親からは、自分自身の状況や事態を聞き、後悔しない日はありませんでした。

浪人して受かった大学には、優秀な高校を卒業した自分からすれば、たいして水準の高くない大学だと決め込んでいたので、1年次は馬鹿にして授業にもほとんど出席していませんでした。事故後に自宅に届いた1年次の成績は良くなかったと親によく言われました。大学では弁護師等をめざす学生はたくさんいましたが、自分は何の夢もなく、毎日バイトとマリンスポーツで日々過ごしてきたやる気のない一学生でした。そのうえ交通事故により1年間休学することになってしまいました。

病院は全部で6か所を巡り、車いす生活から始まり、いろいろなリハビリを受けました。言語やバランス感覚を取り戻すリハビリ、プールで泳いだり、みんなで一緒にスポーツをしたり協力しあうことも教わりました。診断の結果、脳に傷があると診察されたので、能力面を向上させるリハビリも受けました。

厚木の大きい病院では、全国で2か所でしか行われていないという心理リハビリテーションを受けました。それによって自分自身のことが鮮明に理解でき、これから先の人生をどのようにして生きていくかということを初めて考え、細かく教えてもらいました。それにより大学生になってからの自分の生き方や行動を反省し、今度は目標を持つように前向きに考えるようになってきました。厚木の病院では、自分は高次脳機能障害と診断され、これは世界では治す方法がないと言われました。しかし、リハビリを続けていくうちに自分自身でそれをよく理解し、障害が改善されていくような気がしました。こういう症状を持った患者同士が退院後に、リハビリを続けたからこそ今の自分が存在していると思っています。

たまたまこの病院で心理を担当していた先生が、自分の大学の教授になっていて、これから先の大学生活を心地よく過ごしていけるような配慮と協力をするという有り難い言葉をかけていただきました。自分が履修する授業の各先生方に自分の障害を説明してくれ、毎日大学に通学し、自分のことであるという主張を欠かさないようにしました。

大学では、黒板に近い前のほうの席に座っても赤や青のチョークを使われたり、また黒板に向かって座る位置の角度により書いてある文字が読めないことがあります。ノートに書き写している間に板書を消されてしまったりして分からないときは、自分から話しかけてノートを見せてもらったり、授業では苦労しました。語学の授業では、習い始めた言語を病院に行くため1回休んでしまったら、その次の週の授業では理解するのが難しくなったので、先生に話すと「友達にノートを借りて教えてもらいなさい」と言われましたが、知り合いもいなく、どこをやったのかもわからないまま1年間を終えてしまいました。

事故以降、まじめに大学に通学し、卒業することが目標となりました。語学にしろ、全授業を頑張って1年間無事にやり遂げたということでかなりの自信がつきました。

心理を教えていた先生を通して、大学にある相談室に週1度行き、身の回りで起きたことや自分の中の不満や希望を理解してもらえるので、また次の日から大学生活を頑張ろうと思うようになります。事故前の自分ならば、そんな場所に行くことも、行く必要もなかったでしょうが、そこでの時間が唯一、気が休まる時間かもしれないと思っています。

自分は20歳前後で大きな挫折と転機を味わったことで、これから先の長い人生をいかにして乗り切り、人生の勝者になろうかなと思うようになりました。事故は、自分の体にいろいろな支障を来しましたが、いい意味で人生の転機であったと思います。まだ卒業するまでには厳しい面はあると思いますが、毎日一歩一歩やりきることが必要であると同時に、回復への近道だと思います。

最後に、自分をここまで回復させてくれた医師や看護師、そして親族一同ならびに家族に大変感謝したいと思います。

(かわむらしょうへい)